第72話 三十一歳 秋・弦月下旬-5
司書室に入ると、ガイエスがあまり見たことがない形の司書室だと言う。
そうなのか。
私はラーミカ教会でしか司書室に入ったことはなかったけど、一階だったということ以外は……あまり覚えていない。
ガイエスはタクトさんに、方陣についての本の場所を確認していた。
彼も方陣に興味があるのか。
確かに『門』をあれ程使いこなせるのだから、きっと様々な方陣を知っているのだろう。
なのに、まだ勉強するなんて……魔法師でもないのに、凄いな。
多くの教会の司書室に行っているのは、勉強のためなのかもしれない。
「……凄いな、どこにどんな本があるのか、全部ご存知なのか」
「流石、一等位魔法師だな。殆どここの本を読み終えていらっしゃるのかもしれん」
シュレミスとレトリノが、タクトさんに感心しきりだ。
そして、読むならばやはり魔法関連からだとブツブツと呟く。
私もこれからは、ここの本をしっかり読んでいこう。
「こちらでいいですか、アトネストさん?」
タクトさんに促されて、書き机の方へ向かう。
レトリノとシュレミスも神典写本をするのだろう、隣の書き机に座った。
そうか、今日はふたり共写本の日だったのか。
すると私は明日だな。
それを不思議そうに眺めていたタクトさんの後ろから、突然声が聞こえた。
「彼等の課務の中に、神典と神話の複写作業があるのですよ」
タクトさんも驚いたようだが、私も少しビックリしてしまった。
テルウェスト司祭が私達の後ろを歩いていらっしゃるなんて、思ってもいなかった。
神務士の課務について、テルウェスト司祭がタクトさんに説明をし始めるとレトリノとシュレミスがなんだか張り切って書き始める。
司祭様と一等位魔法師様に励む姿を見てもらえるというのは、確かに嬉しいものだと思う。
「この千年筆は、まさにそのためとも言える画期的な筆記具でございました」
テルウェスト司祭の言葉に、私も大きく頷いてお借りした木製の千年筆を取り出した。
「私のおりましたラーミカ教会でも、使っておりました。私は……魔力が少なくて沢山は書けないので『本』にまでは、まだできてませんが」
ラーミカでも勿論書いてはいたが、一番書くのが遅かったのだ。
皇国の文字に慣れていないということもそうだが、私の筆記したものが誰かに読んでもらえると思うと、丁寧に書かねばと緊張してしまうせいもある。
「そうですよね、美しい文字で書きたいと願うのは当然です」
「はい、この千年筆だと余計にそう感じます」
こんなにも書きやすい、しかも美しい筆記具は生まれて初めてだ。
恥じない文字を書きたいと思うのは、私だけではないだろう。
この木製の千年筆で文字を書くと、なんだかワクワクするのももっと書きたくなる理由かも知れない。
だが、私とテルウェスト司祭のこの楽しい気持ちは、ここに来た目的をタクトさんが口にした時に壊れた。
「アトネストさんはアーメルサス語で、何を書いたのですか?」
突然思い出してしまった。
この千年筆で、最も嫌いなものを……もう一度書かなくてはいけないんだ、と。
「これは……アーメルサスで『教典』とされていた……皇国での『神典』にあたるものです」
私の言葉にタクトさんは意外だというような顔をして、テルウェスト司祭を振り返る。
テルウェスト司祭は……少し困ったような顔で小さく頷く。
なるほど、とタクトさんの小さな声が聞こえ、す、と差し出された手に私は紙束を渡した。
「では」
それだけ言って、タクトさんが黙読を始める。
すぐに表情が引き攣り、その眉間にしわが浮かぶ。
蒼い瞳が……その書かれたすべてに、嫌悪感を滲ませている。
教典だけでこれなのだから……神話もお見せしてしまったら、もっと嫌なお顔をされそうだ。
タクトさんは殆ど読み終わった時に、突然怒りが頂点に達したかのように立ち上がり机に脇腹から腰の辺りをぶつけたようだが、その動作だけでなんとか不快で堪らない気持ちを抑えようとしているのかもしれない。
こんなもの、書くべきでなかったのだろうか。
やはり、正典の正しい神々の言葉を得ている皇国の方からしたら、とんでもない冒涜に違いない。
まだ内容をご存じないテルウェスト司祭も、かなり戸惑われている様子だ。
「怒ったりはしていませんから」
と言うタクトさんだが、語尾は少しきつい。
何度か大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせようとしている。
そして努めて冷静に、私に尋ねる。
「アトネストさん、この教典はかなり古いものなんですか?」
「え……と、アーメルサスの建国が、五千四百年ほど前ですから……その頃です」
「その前の教義とか、本なんてものは見たことがありますか?」
「いいえ、その前には大地に国はなかった……となっておりますから」
私は……そう聞いていた。
本当に、その時期からなのかは解らない。
最も規範とすべき教典に、すべてまやかしの神々の姿しか書かれていなかったのだ。
あの国に伝わっている歴史など、それよりも更に信憑性のないものではないだろうか。
テルウェスト司祭から頼まれたのだから、どんなに唾棄すべき偽物だったとしても書き上げなくてはいけない。
今度はちゃんと、皇国語で。
「……やっぱり、書き直さないと駄目ですよね……」
思わず、そう呟いてしまった。
いけない。頼まれたこと自体を嫌がっているのだと思われては、テルウェスト司祭に申し訳ない。
それは嬉しかったのだ。
ただ……その内容が、つらいと言うだけ。
そして、訳しきれない多くの言葉を調べながら、何度もこの教典のことを見返さなくてはいけないのが……嫌なだけだ。
「私にはどうしても訳しきれない言葉がいくつもありまして、それをどうしたらいいかも解らなくって」
言い訳を口にしてしまい、どんどん落ち込んでいく私にタクトさんはまた不思議なことを聞いてきた。
「アトネストさん、ここに載っている『椰子』ってどういうものですか?」
椰子……ああ、あの背の高い真っ直ぐな木のことだ。
皇国では、そういえば見たことはなかったな。
「これは……真っ直ぐな背の高い木で、幹に縄のように糸状のものがくっついていて枝が殆どありません。葉は小さいものが幹の上の方にだけあり、その近くに小さくて硬い殻の実が生ります」
私の答えにタクトさんは、それは知らないものだ……と呟く。
そうか、呪いのかけられた木というものなど、皇国にはないのだからご存知なくて当然だな。
そしてタクトさんは同じ机の端の方に座って本を読んでいたガイエスの側に行き、何かを書いてもらっている。
戻ってきたタクトさんに見せられたのは、曲がった幹がするりと伸びた上の方に大きな葉が茂る木の絵。
「なんていう名前の木か、ご存知ですか?」
「……いいえ、見たことはありません。アーメルサスでも、皇国でも」
そう言うと、タクトさんは頷き、少し考え込む。
少し間を置いてから、ゆっくりと落ち着いた声で言った。
「アトネストさん、これを書きたくなくておつらい気持ちは……解るのですが、俺が読み上げる『皇国語』を、書き取っていっていただけませんか?」
読み上げたものを書く?
タクトさんはアーメルサス独特のものだと思っていたものも、すべてが皇国語に訳せるのか!
椰子がどういうものか解らなかっただけだったということなんだな。
呪いを受けた木は……そういえば椰子だけだったな。
「あなたが、読むのですか?」
テルウェスト司祭が不思議そうにタクトさんに尋ねるが、すぐにそれがいいかもしれません、と同意なさった。
やはり、タクトさんの翻訳を信じていらっしゃるのだろう。
タクトさん自身が書かないのは……ご自分の手では、他国の教典を書きたくないと思われているのかもしれない。
そして、テルウェスト司祭に念を押す。
「もの凄くご不快な内容だと思いますが、聞きますか?」
「どうせ読むのですから、聞きます」
「絶対、絶対、書き上がるまでは激高したり怒鳴ったり、ましてや魔法を放ったりしないでくださいね! 絶対ですよ!」
やはり……それほどのものなのだなぁ。
読み上げと筆記が始まって少しもしないうちに、テルウェスト司祭の表情が歪んだような気がしたが……気付かない振りをして書き続けた。
あああああー……
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『カリグラファーの美文字異世界生活』の第513話・『緑炎の方陣魔剣士・弐』の第149話とリンクしております。
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