第70話 三十一歳 秋・弦月下旬-3

 教典を書き替えるには時間が半端過ぎたので、厨房に入って昼食の準備を手伝おうかと思ったのだが、アルフアス神官に止められてしまった。

 なんでも、シュレミスの『故郷の味』を再現した料理を作っているようなのだが、材料がリバレーラのものと微妙に違うために非常に集中して魔法を使っているようだ。

 彼もまた日々の努力を惜しまず、新しいことに力を注いでいる。

 自分が何もできていない気がして、またしても落ち込んでしまう。


 すると背中がぽんぽん、と軽く叩かれて、ミオトレールス神官に慰められてしまった。

「焦らないこと、ですよ」

「……はい」

 解ってはいるのだが、進めているのかいないのか……自分の気持ちと現実が違い過ぎて、どうにももどかしくなる。


 司祭様に教典と神話を具体的にいつまでに仕上げたらいいかを確認しようと、いらっしゃる場所を聞いて聖堂に入った。

 丁度、タクトさんが司祭様にご挨拶なさっていたようで、昼食を如何かと誘っていらした。

 是非とも、召し上がっていただきたい。

 シュレミスの今日の料理、きっとタクトさんがご一緒くださったら彼はもの凄く喜ぶと思う。

 私はお邪魔をしてはいけないと思い、司祭様に伺うのは後でにしよう、と一度部屋に戻った。


 どの辺りからアーメルサス語で書いてしまったのだろう、と昨日書き付けた紙束を見た。

 ……二枚目から、すっかりアーメルサス語に……

 どうして全然気付かなかったのだろう、と溜息が漏れた。


 読んでいて、所々抜けていた単語を書き加え、間違っている文字を直す。

 いくつかの箇所を直した時に、皇国語ではどう訳すのかが全く解らない語句が沢山見つかってしまった。

 ……日常的な会話に出てこない言葉は、皇国語に直せない……

 どうしよう。

 近い言葉にして書いておこうか?

 いや……それすらも解らないものもある。


 そうこうしていた時にもうすぐ昼食だと呼ばれ、一階の食堂へと急いだ。

 タクトさんがいらしていて、シュレミスが途轍もなく機嫌がいい。

 よかった。

 召し上がってくださるみたいだ。

 タクトさんは何故か私と、レトリノを交互に見て声をかける。


「アトネストさんとレトリノさん、魔力不足になっているみたいですがちゃんと眠っていますか?」

 私達は少し驚いた。

 レトリノはまだ解るのだが、どうして私まで?


「私は、魔法の訓練で……少し。今日から、ちゃんと気をつけようと思っています……」

 タクトさんの問いにレトリノが答えると、先ほど注意をしていたラトリエンス神官が小さく頷いている。

 ラトリエンス神官が知っているということを感じ取られたのか、タクトさんも少しだけ微笑み次に私の方に視線を送る。


 自分では朝食を食べて回復したつもりだったのだが、夜更かししたと言おうかと思っていたところに料理が運び込まれてきた。

 まぁ、言い訳みたいなものだし、昼食が終わる頃には回復しているだろうから気にもされまい。


 出て来た料理は、イノブタ肉を焼いたものだった。

 なんだか、期待はずれ……というか、これならばいつもシュレミスが簡単に作っている料理ではないのか?

 シュレミスをちらりと見ると、タクトさんが口を付けるのをじっと見ている。

 ひと口食べて、皿の上の肉を少し崩して……タクトさんはシュレミスに思いもかけないことを言った。


「これ、油で煮たものを焼いたんですね?」

 え?

 油で……煮る?

 それって随分と、高級な料理なのでは?


「……! はいっ! そうです、リバレーラでは南部でよく使われている料理方法なのです!」

 シュレミスが、初めてテルウェスト司祭に対面した時のような明るい表情になる。

 タクトさんの側にいらしたテルウェスト司祭が、リバレーラですか、と呟くとタクトさんが料理方法の説明をなさる。


「低温の油で肉類を煮るもので、元々は長期保存のために考案された方法です。食べる時に表面を焼いて出されることが多いから、見た目は焼いただけに見えますけど中まで柔らかくて美味しいのですよ」

 その説明は完全に的を射ていたようで、シュレミスは大きく頷きながら満面の笑みである。

 理解していただけていることが、本当に嬉しいのだろう。


 更に、タクトさんは肉の掛けダレをちょこちょこと付き匙で触れて、それだけを口に入れて考え込む。

 何かあるのだろうか、とその場の皆が息を吞む。


「赤茄子と、大蒜……それとこの油、米油、ですか?」

「凄い……よく、お解りに……この油は、リバレーラでもカリエトの近くだけでしか作っていないのに……」

 シュレミスは本当に吃驚したのだろう。

 米油、というものは、初めて聞いた。


 米というものがミューラで作られていることは知っていたが、アーメルサスでは育てることができなかった。

 家畜の飼料として使われることもあったらしいので、『ミューラは馬の餌を食べている』と馬鹿にする者すらいた。

 自分達が作れないものを作れているから、諦めるために罵っていたのだろう。

『作れないのではない、作らないのだ』と。

 くだらない自尊心だ。


 シュレミスは、タクトさんの食材への造詣の深さに感動しているようだった。

「アルフェーレの衛兵隊員から冬場にここが閉ざされる町で、南方からの食材などが少ないと聞きましたので油や香辛料を持ってきたんです。僕のいた教会では神務士が料理を作るのは当たり前でしたから、リバレーラのものを使って欲しかったのです」

 シュレミスの笑顔に、司祭様だけでなく神官の皆様も感動していらっしゃるようだ。


 ここに来ると決まって、私もシュリィイーレのことを人々に聞いてはみた。

 だが、噂話程度のことを聞いただけで、冬のこの町で何が必要になるだろうなんて想像すらしていなかった。

 どこかで……自分達がいる間のすべては用意されていて当たり前だ、と……まるで旅の宿に泊まる客のように考えていたのだ。


 そういえばシュレミスは、この町が雪に閉ざされることを聞いても私達が毎日料理をするということを聞いても、まったく驚いたそぶりを見せていなかった。

 ちゃんと正しい情報を手に入れて、準備していたのだろう。


 タクトさんはシュレミスからリバレーラでこの油が作られていることの他にもいろいろと尋ねて、持ち込むものとしてこういうものが選べるのは素晴らしいと手放しで褒めている。

 そして、元々料理が好きなのかとか、魔法もあるのだろうか、とお尋ねになる。

 シュレミスも嬉々として会話をしている。


「魔法はなくて、調味だけは技能があったのですが第四位でした。でも魔具を使わせていただいて、一気に第二位にまでなったのです!」

「シュレミスさんは魔力量が千二百を越えたら、一般用を使ってもらえそうですね。でも簡易版で『故郷の味』の再現ができるとは、なかなかですよ!」


 一般用、と聞いてレトリノが尋ねる。

「魔力が伸びたら、魔道具も上位の物が使えるのですか?」

「一般用だと、使用魔力量がちょっと多めになりますからね」

 そちらの魔具だと品目制限がないし、方陣の劣化がほぼないから魔石さえちゃんと取り替えてくれていたら方陣が破損するまで使い続けられるという。

 方陣の劣化がない?

 なんという……最上位の魔具ではないか!


「魔力とは……どう、伸ばせばいいのか……」

 レトリノは元従者家系だというのに、何故、魔力量が少ないと思っているのだろう。

 目標が高いのかもしれない。

 一般用……魔力千二百……か。

 私にはまだまだ先の話だなぁ……

 そんな私達にタクトさんは、魔力を伸ばすための助言をしてくださった。


「魔力の流れる量が少ないってことだとしたら、毎日少しずつに小さい魔法を使えばいいのですよ」

「小さい魔法、でございますか?」

「今は魔力量が少なくても、続けることで流脈に少しずつ魔力が流れやすくなるのですよ。そのためには、身体を鍛えて体力保ち、食事から栄養をきちんと摂って睡眠を充分に。その上で小さい魔法を使う。千年筆から色墨塊を抜いて、その状態で魔力文字を一日に十五文字だけ書いてみてください」


 レトリノへの助言であったが、私とシュレミスにとっても貴重な言葉だった。

 そうか、魔力文字だと、十文字程度で七十から八十の魔力が要る。

 普通に色墨塊を溶かす魔法が一刻間あたり五十だから、僅かな間の訓練で一刻半ほどの魔力を使うのか。


「十五文字だけでいいのですか?」

「まだ魔力が少ない千以下だったら、それでも結構大変ですよ? 千から千二百だったら……二十文字くらいかな。神典の言葉を書いてみるといいですね」

「はい……! やってみます!」

「でも、それ以上書いては駄目ですよ? できれば夕食の前、ゆっくりと丁寧に、その時自分が書ける一番綺麗な文字で書いてみてください」


 一ヶ月後には、結構伸びていると思うと仰有ったので、今日から早速……と思ったが、私は……まず、教典の書き直しだな。

 今日は昨日みたいな無理はせずに、ゆっくり丁寧に書こう。

 ……嫌だけど。


「アトネストさん、何か魔力を沢山使うこと、しましたか?」

 急にタクトさんにそう言われ、私だけでなく皆さんが吃驚したようだ。

 大したことはないのに、驚かせてしまっただろうか。

「実は……書き物をしていて、夜更かしをしてしまいました……千年筆を使っていたので、魔力を使い過ぎたのかもしれないです」

「どれくらいの時間ですか?」

「夕食後から、三刻間ほどでしょうか……」


 本当はもう少し長かったのだが。突然、タクトさんが呆れたように怒り出す。

「駄目でしょ、それ! 魔力が低い人が、二刻以上千年筆を使っちゃだめっ!」

 ……そうだったのか。

 あ、テルウェスト司祭が申し訳なさそうな表情をなさっている。


「それは、もしかして私が依頼したことですか、アトネスト? ああ、すみませんでしたね……そんなに急いで書かなくて良かったのですよ」

「いいえ、私が勝手に書き続けてしまっただけなのです。急かされたとは思っておりませんし、その……結局は、書き直しになりますので……」

「書き直し?」


「実は、記憶していたものがアーメルサス語でしたので……最初の一枚以外がすべてアーメルサス語になってしまってて」

「アーメルサス語!」

 タクトさんが突然そう叫ばれて、びくっとしてしまった。

 ……多分、全員が。


「あの……そのアーメルサス語で書かれたもの、見せてもらう訳にはいかないですか……?」

 思ってもいなかったお願いに、テルウェスト司祭と私はお互いに顔を見合わせる。

「私は、構いませんが……」

 ただ、テルウェスト司祭から御依頼のものを先にタクトさんにお見せするのは、司祭様の許可がなくては。

 テルウェスト司祭はちょっと悩まれた様子で、アトネストがいいと言うのなら……と仰有った。

 そして、取りに行ってもらえますか、といわれたので慌てて部屋へと紙束を取りに行く。


 だが……タクトさんは、アーメルサス語が読めるのだろうか?


 そう思いつつ一階に戻ると、正面扉から……ガイエスが入ってきた。

 あ、そういえば、教会に来ると言っていたっけ。

 食堂から出て来たタクトさんを見て、吃驚している。

 いると思わなかったからだろうけど。



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『カリグラファーの美文字異世界生活』の第511話・『緑炎の方陣魔剣士・弐』の第147話とリンクしております。

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