第68話 三十一歳 秋・弦月下旬-1
その日の朝食後も、いつものようにテルウェスト司祭の部屋に伺った。
この勉強の時間を取っていただけて、どれほど助かったかしれない。
一番驚いたのは、暦が微妙に違うことだった。
皇国では
皇国よりも北にあり、冬が長いから春の訪れである
そして、皇国で身分階位の改正があったなんて、アーメルサスでは全く知られていなかった。
正典の発見とそれに準ずる、こんなにも大きな改革が行われていたことに驚きを隠せない。
……と、同時に、アーメルサスだったら確実に『正典』は握りつぶされるだろう、と確信せざるを得ない。
『銅証までで聖魔法のない者は、司祭を名乗ってはいけない』と『正しい神典を得た皇国』が規範を示しているのだ。
同じ神典の神々を頂くというのに、アーメルサスだけが『正典』を無視することなどできまい。
こうしてみると、五司祭家にとって皇国との橋が落ちたことは僥倖だったのかもしれない。
皇国との付き合いが断たれ、正しい神典を知らずに済む。
自分達が勝手に作り出した『教典』だけで生きていけばいいのだから、彼等は地位を脅かされず生きていけると思っているだろう。
……そんな国に……私は、正典を説くために入ることができるのだろうか……たとえ、アーメルサス人だったとしても。
いや、今はまだ考えまい。
すべては、これからなのだから。
「さて……ひと通りは、この皇国のことを学べたと思いますが、どうですか?」
「まだ、時々昔の誤った認識と混ざってしまうので、しっかりと復習していきたいと思います」
特に、行儀、という作法については、全くと言っていいほどアーメルサスではあり得ないことばかりだ。
礼拝の強要は下品とか、用意された食事に感謝なんて、初めて聞いた。
「実は……あなたに衛兵隊と王都教会から、ある要請が来ています」
テルウェスト司祭の真剣な面持ちで、とても重大なことであろうと推測できる。
「あなたは神職の家系で、ずっと『教典』というものを学んできた、ということでしたね?」
「はい」
あの衛兵隊副長官殿が言っていた『協力して欲しいこと』だろうか?
私は少し身構え、緊張が走った。
「その『教典』というものがどういう内容だったか、覚えている限り正確に書いてもらいたいのです」
「しかし……その、教典はあまりに、正典と違っている……その、今考えれば大変神々に対して、不敬とも言えるものでございましたが……」
「だからです。あなたも皇国に来て学んだことと、違いすぎると言っていましたね? なぜ、同じ神々を仰いでいながらそんなことが起きたのか、もしかしたら今アーメルサスから皇国に来た人々がまだ馴染めないのだとしたら、それが原因ではないかと思うのですよ」
ああ、そうか。アーメルサスから帰化した者達も、まだ帰化まではできずとも、皇国で暮らしている者達もいる。
彼等だけではないだろうが、他国出身者が教会を避けている原因が解らないとベスレテア司祭も仰有っていた。
その原因となっているものが……為政者たちに歪められた『教典』にあるのではないかと、思われているのかもしれない。
「……畏まりました。ただ、お読みになると……きっと酷く、ご不快な思いをされると思います」
「構いません。国の根幹であったというのなら、それを知らなくては是正のしようもありませんからね」
そして教典だけではなく、できるだけ神話として語られているものも、とのお話もあった。
私は記憶している限りのものを書きしるしてお渡しいたします、と約束をした。
「ではこの紙に、この色墨で書いてもらえますか? あ、でも今の色墨も使いますよね……では、この千年筆で書いてください」
そう言われて、紙束と新しい千年筆をいただいてしまった。
なんて綺麗な紙だろう……それに、この千年筆はシュリィイーレで作られているものだ。
不銹鋼のものとは違い、木でできている。
握っていて気持ちいいな、と少し嬉しくなった。
昼食後、今日の食事当番はシュレミスで清掃はレトリノだ。
その時間も、私は勉強することができる日になっている。
だが頼まれたことを先に終わらせてしまおうと、私は紙束に向かい目を閉じた。
浮かんでくる、かつて必死で覚えた『誤った教え』の数々。
書き始めてすぐ、信じられないほどすらすらと書き続けられることに怖ろしくなった。
こんなにも、身に染みついてしまっている。
当然か……二十年間、毎日毎日読み上げては書き付けていたのだから。
聖神二位を呪う他の神々の言葉、大地を閉ざして人々を苦しめることを喜ぶ悪神として私の加護神を表す文字にどれほど泣いたかしれない。
だが、かの神は紛うことなき、私の加護神なのだ。
聖神二位の加護であったからこそ、私は今ここにいて正しい神々の在り様が学べている。
……なのに、今、その神を貶めるような言葉を……書かねばならないのが、つらい。
書いていて、何度も手が止まる。
覚えていないのではない。
書きたくないのだ。
涙が、溢れてくる。
全部、書き出して、搔き出して。
私の中から何もかも、追い出してしまおう。
こんなものを、私の中に残していたくない。
私はムキになって、どんどんと書いていった。
溜まっていた何かを吐き出すように。
アーメルサスの教典は、たった一冊。
それなりに厚めの本ではあったが、神話を入れても皇国正典の二冊分もない。
覚えている限りを書いて、一息入れた時には千年筆を握っていた指がガチガチになっていて手首に鈍痛があった。
そして……百八十も魔力を使っていた。
そうだった……千年筆は一刻で五十ほどの魔力を使うのだった。
三刻以上、経っている。
だけど、なんだかスッキリしていた。
でもまだ全部ではない。
読み返しながら、思い出し、訂正する。
夕食の時間もそろそろだから、食べ終わって魔力の回復をしてから続きを書こう。
その日は夕食のあとに、アルフアス神官が買ってきてくださったカカオの菓子まで振る舞われ、私は勿論のことレトリノもシュレミスも初めて食べるその菓子に心を躍らせた。
アルフアス神官はこれこそ、カカオの最も美味しい菓子であると仰有り私達も大きく頷いた。
……覚えておこう。タク・アールト、か。
シュレミスはもの凄く感激しているようだが……どうしてそんなにも喜んでいるのかまでは、教えてもらえなかった。
部屋に戻って続きを書き始め、覚えている限りの教典が書き上がったのは深夜になってからだった。
……流石に、疲れてしまった……
寝床に入るとすぐに眠ってしまった私は……翌朝、大変なことに気付いた。
「……途中から……アーメルサス語になってしまっている……!」
書き直し、かーーーー!
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