第25話 三十一歳 盛夏・夜月初旬-1
あの日から、俺……いや、私は、ラーミカ教会で『神務錬士』として働かせてもらっている。
最も下位の神従士六位のことをそう呼ぶのだが、私の魔力量や他国在籍者ということを考えると特別扱いと言える。
この『錬士』とは見習いのことであり、神典や神話のことを学び理解を深めていけば上の階位へ上がることもできるというのだから。
本当なら、隷位にされてもおかしくなかった。
だが、ラーミカの司祭様は、私にそのような選択をさせず黙って神に仕えたいと願った私を受け入れてくださった。
これほどの幸運があろうか!
基本的には下働きなのだが、ちゃんと勉強をできる時間があるのが何より嬉しい。
ひとりずつに正典の写しが与えられ、個室まで用意してくれるのだと知った時にはどれほど感謝したかしれない。
それから毎日毎日、私は神々の言葉を読み続けている。
まだ、時折感じる胸の痛みの理由は……考えないようにしていた。
しかしどれほど自分が、利己的な人の手で歪められた神の姿を与えられていたのかを痛感する日々だった。
聖神二位のお姿に涙したあの日、ラーミカ司祭は私の長く自己弁護に満ちた身の上話を否定も批判もせずに聞いてくださった。
自分で自分を憐れむことしかできなかった私に、それでも前を向こうとしたことは価値のあることだと言ってくださった。
……ガイエスのことは『冒険者に助けてもらった』としか言っていない。
「君が神々の真の言葉を得ようとここまで来られたということ自体が、神々は君が皇国で学ぶに相応しいと、加護をお与えくださっていると言うことですよ」
皇国は辿り着いた者を見捨てたりはしない、と微笑む司祭様の言葉は、ガイエスが与えてくれたものと同じくらい私の心を救ってくれた。
そしてこの国で暮らすことを望んでいた私に『どのように生きたいのか』と、ガイエスに聞かれたのと同じことを尋ねられた。
勿論、答えは決まっていた。
『生まれ変わったつもりで、神々のことを学びたい』
ならば、それ以外の全てに一度決着を付けなさい、と言われまずは冒険者組合へ行った。
冒険者の登録を抹消するためだ。
だが、司祭様に『ちゃんと受け取れる報酬は受け取っておくように』と言われたこともあって、アーメルサスで稼いでそのままにしてあった分だけは受け取った。
皇国貨ではたいした額ではなかったが、口座を
そして冒険者組合に、ガイエスという冒険者が皇国に戻ったら、昔アドーと名乗っていた者が預かっているものを返したいから連絡が欲しいと伝えてもらえるようにお願いしてある。
彼はセラフィラント・セレステの在籍で、一度もマントリエルに訪れたことはないと調べてくれた冒険者組合の人が言っていたから、伝言が伝わっても会えるのは随分先かもしれない。
その後、役所で『皇国に長期滞在するための手続き』をした時に……思ってもいなかったことが発覚した。
他国人の長期滞在のためには、身元保証をしてくれる一定の条件を満たした皇国人や教会、更に住む場所の確保ができているという証明が必要になる。
それらを役所で確認してもらって『仮在籍場所』が表示された『滞在許可証』の身分証が渡される。
その証明書を出してもらう時に、司祭様から『本名』をきちんと表記しなければいけないと言われたのだ。
名前はアーメルサスでは『ラドーネス』の筈で、アーメルサスの役所でもそのようになっていると言ったのだが司祭様にそれはあり得ませんよ、と言われてしまった。
そして、司祭様は更に私に言い聞かせるように話してくださった。
「それは後から書き加えられた『名称』の登録ですね。本当の『名前』の『アトネスト』は、生まれた時に神々に加護を賜るために付けられた名前です。その名前を変えるというのであれば、全ての繋がりを断つ『
名前が、神と繋がっている。
それは神々が認めた正統な血統を有する方々の聖魔法がない限り、その繋がりを断つことができないのだと聞かされて驚く以外の何ができただろう。
滞在許可証にも、身分証と全く同じような魔法や魔力の記載がされる。
これは皇国内だけで有効であり、私がこの町から拠点を移すには新たな場所での保証人がいなければ無効になってしまうものだ。
記載されていた『名称』が『名前』になっている……そうか、隠れていた、読めなかった部分が『名前』だったのだ。
生まれた国で禁止された『アトネスト』が、皇国では『正しい名前』なのだ。
なんだか『自分を取り戻した』と思えたのが不思議だった。
ただ、マントリエルはそれほど暑い土地ではなく、過ごしやすい。
アーメルサスとさほど変わらないかと思っていたが、アーメルサスよりは少し湿気がある。
それはそろそろコーエルト大河が『増水期』に入る合図。
更にこの時期は『逆流』もしばしば起こる季節なのだという。
マントリエルで氾濫が起こるのも、この逆流のせいである。
堤は毎年のように補強され、魔法も充分と言えるほどしっかりとかけられてはいる。
だが三、四年に一度程度、予想を遙かに超えてしまう大規模な逆流が起こることがあるという。
逆流による水の勢いで堤が壊れるというより、大地からしみ出る水が多くなってしまい足元が沼のようになってしまうらしい。
その現象が幾日か続くことによって、十数年にごとに堤を支えきれなくなった地下部分が崩れることがある。
大地の奥深くまで届く杭や魔法での補強をしてはいるものの、水は常に大地を侵食し続ける。
その話を聞いた時に、私は司祭様にどうしてこの町を放棄して別の場所に移らないのかと聞いた。
「それは、堤を作り続けるためなのですよ」
ラーミカ司祭の答えは、よく解らなくて一緒に神典の教えを学んでいた他の神務錬士達も首を傾げる。
「この町がなくなったら、堤を修繕補強する人々の拠点がなくなります。そして堤はどんどんと内側に築かれるようになり、コーエルト大河の川幅が広がって、更に多くの水がこの土地に留まって湖のように溜まるかもしれない。そうなると海からの逆流があった時に、遡上してきた小さい魔魚の群れの住処になる可能性もあります。内陸に蛇行する広く浅い湖に魔魚が溜まるとしたら……大地も水も穢されて、更に人は内へと後退していく」
今はまだコーエルト大河に流れていく水が、逆流する海からの流れを押し戻せる勢いが保たれている。
だが、平地に蛇行して水が溜まってしまえる場所ができたらその勢いがなくなり、海からの魔魚の進入が容易になってしまうかもしれないというのだ。
「海の魔魚が、真水で生きられるのですか? 大地を通った水には神々の加護があり、魔魚は住み続けられないと……」
神務錬士のひとりがそう言うと、確かにそうだが海水の流れ込む量が増えてしまったらどうなるかは誰も解らない、と反論の声も上がる。
「そうですね。それに何も脅威は、魔魚だけではないでしょう。大河の流れ自体が蛇行して変わるかもしれない。そうなったら耕作できる場所の元々少ないこの領地は、更に作物を育てる場所を奪われることになる。そこ迄ではなかったとしても、湿地になってしまったら動物達も飼えないし、魔線虫の感染も増えてしまいます」
ラーミカ司祭が、今言っているのは最悪と言える状況で、必ずしも起こるとは限らないことだという。
「起こらないかもしれないからと、手を抜く理由にはなりません。人が想像できることは、起こりうる可能性があるからこそ示されている啓示です。ならば、それは未来のために人事を尽くせとの報せだと思いませんか?」
『明日への奉仕は研鑽となりて内なる加護の目覚めを
きっと、司祭の言葉は、この宗神の言葉を想ってのことだろう。
今の自分達のためだけでなく、未来に向けて力を尽くすことで神々から賜っている加護の力は更に大きく強くなるのだ、と。
だからあらゆる可能性を考えて、明日のことへ己の力を注げと。
こんなふうに、日々の言葉のやりとりの中で神に触れる瞬間、たとえようもない喜びを感じる。
だから、全ての言葉を覚えていたい。
全てのできごとを、アーメルサスで伝えたい。
いつか必ず、私自身の言葉で。
私の気持ちは、日々強くなっていった。
そんなある日、司祭にランテルローの教会への随行を求められた。
マントリエル領主の町であるランテルローは、ラーミカから南にあり馬車だけで移動するとしたら十日はかかるだろう。
だが……教会の『常設方陣門』を使って移動するという。
そんな魔力の使用量、私に耐えられるのだろうか?
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