第10話
「目ええええっ!?」
「うっさい俊! おまえは羊か!」
「んなこと言ってる場合か! 目有は最低レベル五だ、逃げるぞ!」
騒ぐ俊とそれに噛みつく真白といういつもの光景だが、桜深が叫び返すのは初めてだ。その瞬間目の前の化け物の尾が全員目がけて振り放たれるも、ジュワリと嫌な音を立てて消えた護符がそれを防ぐ。だが今の一撃で宙に漂っていた護符五枚すべて燃え尽きるように消えたことに、ざあっと数人の顔から血の気がひく。
「こんのっ!」
真白が両手を突き出し、祓力の塊そのものを即座に生成し、放つ。祓力とはそもそも、あの化け物を祓う力という意味でそのまま名付けられたものであり、当然、化け物に対しての凶器そのものであるその弾丸のような光球は、かなりの威力を持って化け物を撃ち抜いた……はずであったのだが。
一振りされた尾で、べちんと間抜けな音と同時に壁に叩きつけられた真白の弾は、そのままふっつりと消え去った。尾はぴちぴちといきのいい魚のように跳ねてみせ、まったくの無傷をアピールされているようだった。
……まずい。
「走れ!」
桜深の叫び声に、弾かれたように慌てて全員が駆け出した。
「俊! あんたの火でなんとかなんないの!?」
「お前の弾が効かねえのにできるかよ! って、こっから出るのにあれ倒さなきゃなんねえんだろ!?」
「に、逃げるって、どこっ」
涙声の朱里の腕を、玄太が慌てて引いた。がくがくと震える彼女はいつ転んでもおかしくない様子だ。
「黄域の管理組合だ! いいか、この褪色界は偽物の世界なんかじゃない。表の俺たちが暮らしていた世界の裏にあいつらが巣食っただけで、表から完全に切り離されてるわけじゃねえし無限に広がってるわけでもねえ!」
殿を務める桜深が声を張り上げる。行先を明確に伝えられた俊は考えるよりも先に前に飛び出し先行を務め、その後ろに続いた真白は「つまり!?」と先を促し声を張り上げる。
「こんだけどでかい化け物が作った褪色界にいるんだ、管理組合そばの『裏』で暴れりゃ誰か気づく! 管理組合や軍なら褪色界救助用の人工的な異界門発生装置があんだよ!」
桜深の指摘に、全員がはっとした。そうだ、そういったものがなければ、飲み込まれたものの救助などできるはずがないのだ。
そもそもそういった情報は、組合で名を上げ昇格するか、軍などに所属しなければまず一般に開示されないというのは周知の事実である。その為、そういったものがありそうだよね、なんて話題は丙の学生ならよく話のネタとしても上がるのだ。なんだか想像していた秘密道具を明かされたような心境に、学生たちの心は僅かに奮い立った。
「クッソぉおお! やってやんよ!」
俊が叫び、こっちだ、と慣れた……褪せたような世界でも見知った道を駆け抜ける。その後ろに真白が警戒しながらも続き、玄太は朱里を支え、走った。最後尾を走る桜深の少し前を走っていたのは紅葉だが、やがて桜深はその紅葉の足がもつれ始めたことに気付いて眉を寄せる。
異形能力者は丙の平均よりも身体能力が優れているものが多いと言っていたが、先ほどの彼女の話ではまるで自由がなかったような印象がある。
もしや、丙の普通高に入学し、軍学校ほどではないもののある程度戦うことを想定して体力づくりされた自分たちよりも、箱入りで怪異から遠ざけられたこの甲の少女の方が、もしや体力がないのかもしれない。いや、速度についてこれているが、持久力がない、と言ったところだろうか。その可能性に思い至った桜深は、目的の場所までの距離を考え、俊、と先を進む友人に声をかける。
「なーにぃー!?」
「屋根の上でもなんでもいい、最短距離でこいつら連れて先行ってろ、足止めする!」
「はあっ!?」
抗議するような悲鳴を聞きながら桜深が振り返れば、敵はのそりのそりと蛇のように体を滑らせながら後を追ってきているものの、まるで狩りを楽しんでいるかのように焦る様子がない。馬鹿にしやがって、と呟いた桜深はぐるりとその場で体の向きを変えた。
「桜深くん!」
「桜深、いくらなんでも聞けねーよ!」
「バカ、助け呼んで来いって言ってんだよ! ついたら全員でめちゃくちゃに暴れろ! 俺一人なら護符があるからなんとかなんだよ!」
心配する親友二人に叫び返した桜深は、頼んだぞ、と駆け出した。助けを呼べ、頼むなんて言われてしまえば、それがこの状況に何より慣れているだろう桜深の言葉だからこそ、くそ、と俊が駆け出す。それを見た真白は玄太と朱里の背を押すと、戸惑ったように足を止めてしまっている紅葉の腕をがしりと掴んで引くと走り出した。
「あ、あのっ」
「あいつなら大丈夫よ、いっつもみんなが困ったらいつの間にかどうにかしちゃってんだから!」
そんな声が耳に届く中、一人残った桜深は口角を上げ呟いた。
「なんとかなりゃいいんだけどな」
小さな声は、友人達には聞こえない。
恐らく真白も、自分に言い聞かせる為に吐いた言葉であったのだろう。声は震えていたし、ひっくり返りそうだった。それでも走ったのは、それこそ助けを呼ぶ為だ。
桜深が、自分ひとりならなんとかなるのだと、そう言ったから。ならば救助を一秒でも早く呼ぶために大暴れしなくては、と。
桜深は制服のジャケットから符の束を取り出すと、あちこちに投げつける。書かれた紋様はすべて同じ、敵の攻撃を防ぐ護符だ。あの尾による一撃はまずい。なんの備えもなく受けてしまえば、いくら異能能力者と言えど体が潰れるだろう。
獲物が分かれたとみるや、化け物は目玉をきょろりと動かし、どちらに行くか悩んでいるようであった。知能などほぼないに等しいが、本能のまま、獲物が多い方に行かれても困る。そう判断した桜深は当然のように打って出た。
「俺が相手だよ一つ目野郎! よそ見してんじゃねえぞ!」
新たに取り出し投げつけた符が、敵に触れるなり破裂するような激しい音を立て爆発する。それは続けざまにタイミングをずらして連投され、頭部に集中した無数の口を狙われた化け物から悲鳴のような耳障りな音が発せられた。
しかしそれを見た桜深は舌打ちすると跳躍してその場を離れる。真白の祓力そのものの弾が効かなかった時点で察してはいたが、やはりこの程度の符では効果はないに等しい。
離れた直後、化け物の背から伸びた触手のようなものが桜深がいた位置に叩きつけられ、色あせていたアスファルトが粉々に砕け散った。
飛び散る欠片を腕と符で叩き落としながら屋根を伝い逃げ回る。そんな桜深にどうやら完全に狙いを定めたらしい一つ目の化け物の目玉が、ぎょろりとその視線を向ける。見た目通り蛇のような化け物のその縦長の瞳孔が、じわりと開いて桜深を捕らえた。
その瞬間背筋にぞわりと冷たいものが走り抜けた桜深が咄嗟に自分の前方に護符をばら撒くと、その全てが即座に焦げて塵となり、左二の腕に衝撃を受けた桜深が二階建ての民家の屋根から転がり落ちる。
「がはっ、……くそっ」
地面に叩きつけられ肺から息を吐きだしながらも、護符一枚を使ってなんとか衝撃を殺していた桜深は即座に跳ね起きて続く触手攻撃を避けて逃げ回り、建物の陰に隠れたところで護符よりも大きな符を一枚取り出すと地面に張り付けた。『隠』の符、姿や気配を隠すことができる符だ。ただし、大物相手では短い時間しか効果はないだろう。すでに敵の穢れに祓力が押され始めているのか、符の端がじりじりと焼け付くように削れている。
ちらりと建物の陰から身を乗り出し見上げてみれば、化け物の背から伸びた触手の中でもひときわ太い触手の先が丸くなり、そこにある口が一つ、くちゃくちゃと咀嚼音を立てている。
げ、と左腕を右手で押さえた桜深は口を引きつらせた。――喰われたのは自分の肉だと察したのだ。
どくどくと血が溢れる腕は、わずかであるが肉が削げ落ちたような感触を指先に伝える。あんま見たくねえなとウエストポーチから常備していた包帯を一つ取り出して転がすと、その傷口の上に適当にぐるぐると巻き付けた桜深は、口でそれを噛んで右手を引きなんとか縛り上げる。だらりと端が伸びて不格好だが、致し方ない。いつまでも隠れていては、あの化け物は桜深を諦め友人を追うだろう。
倒せるとは、思っていない。目有の化け物はそんな生易しいものではない。
それでも桜深が今引くわけにはいかなかった。目の前で親しい人物が死ぬなんて真っ平なのだ。当然自分が死ぬつもりもないが、さすがに左腕の痛みがじわじわと思考を支配し始めるようであった。ぎりぎりと歯を食いしばって痛みから目を逸らし、桜深は己の血で濡れた指先を、取り出したばかりの正方形の紙の上に滑らせる。
「あんま使いたくねぇけど」
痛みを逃すために声にして呟きながら、桜深は新たな符を手に飛び出した。
「とっておきの符だ、喰らいやがれ!」
投げつけられた紙は、化け物の不意をついてその身体に張り付いた。――しかし、何も起こらない。一つ目も何かが起きたのはわかったようで体をくねらせるが、少しして問題ないと判断したのか、漸く見つけた獲物にいくつもの触手を飛ばす。
その瞬間、即座に眼鏡をはずした桜深はニイイ、と笑みを浮かべた。
「あんま知られてねえけどな、能力者には固有能力があるやつもいんだよ! 俺の『ウツス者』、とくと味わえクソ野郎!」
叫ぶ桜深の声に呼応したかのように、その特徴のないこげ茶の瞳に、銀色の光が揺らめいた。その彼の目の前で、彼を喰らわんと伸びいていた涎を垂らした口の一つが、半ばから掻き消える。遅れて到達しようとした他の触手もすべて桜深に届く前にその先からどこかへ、まるで飲み込まれたように消えたのだ。
『ギアアアアアアアアアアアアアアアア!』
轟く咆哮、のたうつ尾。その体の半ば、先ほど符が張り付けられた場所から伸びているのは、口が付いた触手である。
桜深を襲ったはずのその触手が、なぜか、符から伸びてその本体を傷つけたのだ。
錆色の巨体は半ばから半分ほど裂け、中の赤黒い肉が生々しく蠢きながらさらけ出された。溢れる液体はどす黒く、どろりどろりと油のように零れて広がり、黒い霧があふれ出る。やがて油のような体液はざらりと表面が固まり始め、塵となって消えていく。
あたりには異臭が漂った。毒性はあるものの薄いという化け物どもの体液は、テリトリーである褪色界でもひどく脆く、ああして体積を減らすのである。ただし、固まるのが早い分、傷ついた肉体を塞いで治すのも速い。
役目を果たしたかのように燃え尽きた符を見ながら、素早く眼鏡をかけなおした桜深は走りだす。
あの化け物の弱点は、目や口だ。体を傷つけたところでほどなく回復する筈である。その前に能力者の誰かが来てくれなければ、恐らくこの褪色界に捕らわれたもので全滅だ。目有は最低の一つ目でレベル五、上位の者がいてくれれば今黄域にいる丙でも対応できるか、もしくは軍が到着するまで間に合う筈である。
逃げなければならない。どれだけそれが悔しく情けなかろうと、相手が憎い目有であろうと、仇でない以上生き延びなければ。
痛みと先ほどの咆哮のせいで耳が痺れたような間隔があり視界が揺れるが、桜深は確かな足取りでその場から全速力で退避を始めた。
その、筈だったのだ。
地面が、跳ねあがるまでは。
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