第6話



 桜深は脳裏にちらつく夢を振り払うように、手元の歴史の教科書をぺらりと捲る。


 要約するならば、今から数百年前、この世界に侵略者がやってきた……なんて、なんて野暮で陳腐で、魅力のない滑り出しだろうか。本当に笑える。……笑えない事態になったのだ。


 子どもたちは皆大人から、その日の空に、大きな裂け目がいくつも生まれたのだと教えられている。

 まるで絹を裂くように広がる空の先から黒く大きな雫が降り注ぎ、世界を飲み込んだ。そしてその雫が消えた空の先、人々が見たのは、巨大な目玉だったという。

 世界中で発見されたくせに、写真は当時の技術からまだ普及してないとしても、直接見て書き写した絵すら残されていないそうだ。

 一瞬で意識が刈り取られるような、世界中の人間が恐慌状態に陥る程恐ろしいその光景を残したいと思う者は当時少なかった、ということだろう。今でこそイメージで忘れてはならぬという恐怖の象徴として描かれることがあるが、あくまで想像でしかない。


 それはこの世界の終焉を思わせる恐ろしい出来事だったのだという。


 まるでこの世界のものたちを見定めるかのようなその目と、その後現れるようになった異界門の先にいる化け物たち。だがその化け物たちはほとんどが『目』がなく、代わりのように口が大きく数が多いのだ。目は、あの天の向こうにあるのかもしれないなんて噂もある。

 化け物たちは、何が美味そうに見えるのか考えたくもないが、たくさんの口から涎を垂らす醜悪な姿をしているという。そして人を喰らうのだ。骨すら残さず、よく似た褪色界に招いて喰らってしまうその化け物は、稀に表れる目があるものほど強いという。三つ目は、近代で一番の恐怖の象徴だ。


 まぁもっとも、いつの時代も一番怖いのは人間なのかもしれないが。


 すぐに飽きた桜深は教科書からも視線を外し、窓の外へと視線を投げた。

 入学時には淡い薄紅に彩られていた中庭は、とっくに鮮やかな緑へと色を変えている。それでもやはり脳裏に過ぎる幼子の姿は変わらない。あれはいったい、誰なのか。恐らく夢で見るあの災厄の日よりも前の、本当に幼い頃のことなのだろう。両親ならば知っているのかもしれないが、当然聞くことは叶わない。これだけ気になるのだから、昔はよく会っていた相手かもしれないのに。



「であるからして、此度の対処してくださったのは恐らく二年前と同じ地樹月家の――」


 授業終了を告げる、鐘の音が古びた校舎に鳴り響く。

 そこではっとした教師は、随分夢中になって語ったのかぱちぱちと瞬くと、誤魔化すようにごほんと咳払いをした。我に返ったのかもしれない。


「……ああ、授業は終わりだ。日直」

「はい! 起立!」


 言われた言葉に誰もが立ち上がり、毎日の流れに逆らうことなく、頭を下げる。


「ありがとうございました!」

「先生、勉強になりましたー!」

 俊の言葉に、まんざらでもなさそうに教師は教壇を降りると退室する。ちらりと顔を見合わせたクラスメイトたちは、小さくよっしゃと拳を握りながら思い思いに動き始めた。


「で、結局地樹月家の誰が対処したんだ?」

「さあ、それ言う前に行っちまったなー、先生」

 桜深の問いに答えられる者はいなかった。地樹月家はその知名度からは不思議なほど、個人の名が知られていない。有名なのは当主と次代であろうが、確か姫と呼ばれる桜深たちと年頃が近い娘もいたはずだ。強い力を持って生まれた期待を背負う少女であるらしいが、やはり名前は知られていないのだから秘密主義なのかもしれない。そんな内容を、この街に詳しくない真白に俊や朱里が説明する中、ちらりと桜深は空を見上げた。


 やはりそこには目玉なんてものはない、清々しい程の青空。それを無感動に見やる桜深を、玄太だけが心配そうに見つめていた。





「桜深くんごめんね、買い物付き合ってもらっちゃって」

「いいって。これ、あいつらのだろ?」


 放課後、桜深と玄太が歩いているのは、普段出歩いているよりも遠い、乙に分類される一般の者たちが多く暮らす地域にある商業区だった。

 ここは栄えている。少し先はオフィス街でビルが多く立ち並んでいるし、人通りも多い。桜深や玄太はあまり賑やかな場所は好まないが、それでも立ち並ぶ店は目移りするほどきらびやかに興味を引く品が並んでいる。

 二人が今回ここに来たのは、中学生のころまで世話になっていた養護施設で暮らす、弟妹とも呼べる子供たちが使う食器などを得るためだった。どうやら、能力を誤発動させた子どもがいたようで、いくつか使い物にならなくなってしまったらしい。大抵は善意で寄付されたものを使用しているが、どうしようもならなくなって今回は玄太と桜深の厚意で勝手に用意したものである。


 養護施設に居るのは丙だと判明している子どもばかりだ。桜深や玄太のように十年前の災厄で親を亡くした子どもはもうだいぶ育って院を離れているが、それでもやはり丙の親は丙であることが多く、危険と隣り合わせの任務により様々な理由で親と離れ暮らす子は多くいる。

 その環境は桜深や玄太が幼い頃は劣悪なものだったが、今はだいぶマシだ。主に桜深を含む当時年上であった子どもたち数名が暴れに暴れ職員をほぼ総入れ替えさせるような出来事があったのだが、割愛しよう。桜深は大して今と変わらない。


 本来なら十八までは養護施設に所属できるが、桜深はある程度『依頼』をこなせる力があった為、十五を超えて高校入学と同時に早々に養護施設を出た。玄太はまだそこに世話になりながら年下の子どもたちの面倒を見ているが、時機を見て出るつもりでいるらしい。

 今回食器を用意したお金も、桜深と玄太が個人でこなした依頼の報酬から来ている。


 依頼というのは、能力者向けに仲介や紹介を担う管理組合が発行する任務のことだ。受けるのは当然任意であり、それぞれ報酬がある。

 軍やそれに近しい仕事をしている者だけでは手が足りず、主に民間向けに開示されるその任務は、例えば少人数の街から街への移動の際の護衛や、危険地域にある薬の材料を集めて欲しいなど、様々なものがある。宅配業者が自前の社員で手が足りず、荷の護衛にアルバイト的に能力者を募集することもあるし、住んでいた地域が異界門が多発して閉鎖し、家から荷物を取ってきてほしいなんて個人の依頼まであるので、なかなか仕事は途切れない。


 さまざまな制限はあるが、玄太は治癒系統の能力者であった為、街中にいながらある程度稼ぐことができていた。年齢制限が低いために中学から稼いでいた桜深は、多少危険を冒すようなことがあった上に稼いだ分をかなり養護施設の為に使ってきたものの、それでも一人で生活できている。問題は目覚ましでは簡単に起きれない体質くらいか。

 そうした身内になんだかんだ甘い桜深を慕う子どもたちは多く、今日も戻ったらきっと大歓迎されるのだろう。それに対し桜深にしては珍しい柔らかい笑みを浮かべて……それでもきっと、泊まって行ったりはしない筈だ。


「桜深くん、今日も夜は出るの?」

「ああ、まあな」

 それはどこに、とは玄太は聞くことができなかった。聞いたら止めてしまうかもしれない。止めてもきっと桜深は止まらない。決して口に出すことはないが、今も桜深は両親の仇を探しているのだ。


 口を閉ざして歩く二人が通り過ぎた、その道の端。ふわりと淡い薄紅の花が開花したことに気づいたものは、いなかった。


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