第五話

 沙弥は僕たちの動きを察して大人しく絵を描いていた。まだ小さいというのに手がかからないというのは良いことだと思うのだけれど、父親としては早くも大人になってしまったように思えて寂しくもあった。

 僕は夕方に聞いていた鵜崎さんの連絡先に電話をかけてみたのだけれど、電話に出たのは僕の知らない声の男性だった。


「あの、鵜崎さんのお電話でよろしいでしょうか」

「そうですが、失礼ですがどちら様でしょうか?」

「私は鵜崎さんの高校の同級生の小野と申しますが、鵜崎さんと変わっていただくことは出来ませんでしょうか?」

「同級生の小野様ですか、お話しは先生から伺っております。ですが、今は先生がいらっしゃらないので先生に連絡がつき次第お電話させていただきたいのですが、今お掛けいただいている番号に連絡させていただいてもよろしいですか?」

「はい、この番号は私の携帯番号なのでよろしくお願いします。鵜崎さんは何かお取込み中なのでしょうか?」

「そうとも言える状態だとは思うのですが、私どもも先生の行動をすべて把握しているわけではないのですよ。申し訳ないのですが、先生が今どこにいらっしゃるのかも存じ上げないのです。そう言えば、先生から小野様に向けての伝言を賜っていますので、お伝えしてもよろしいでしょうか」

「僕に伝言ですか?」

「はい、同級生の小野君から連絡があると思うのだけど、もしも小野君から連絡が来たら伝えて欲しいとおっしゃっておりました。先生の同級生に小野様の他に小野君はいらっしゃいますでしょうか?」

「高校の時は僕以外に小野はいなかったです。小学校とかになるとわからないですけど、高校では間違いなく小野は僕だけでした」

「でしたら、先生からお預かりしている伝言をお伝えいたします。『何もしなくても大丈夫だからね。余計な事をしても良いことなんて何も無いんだよ』だそうです」

「それって、どういう意味ですか?」

「さあ、私は先生からそのように承っただけですので、その真意は分かりかねます。ですが、先生のおっしゃる通りに何もなさらなければ良いのではないでしょうか」

「そうは言いましても、私の妻と義理の父が水瀬さんの家に向かってるんですよ。水瀬さんが助けを求めに来ているのに何もしないなんて無理に決まってるじゃないですか」

「私も何が起こっているのか存じ上げないので何とも言えませんが、困った時は先生が何とかしてくださいますのでご安心ください。それに、もう何も心配はいらないと思いますよ」

「何も心配はいらないって、何がですか?」

「たった今先生からメールが届きまして、今から小野様の所へ向かうとのことです。それと、お子様が絵を描いているのだとしたらやめさせるようにとのことです」

「今から僕の所に向かうって、近くにいるって事ですか?」

「近くにいるかは分かりませんが、先生は小野様のご自宅に向かわれているそうです」

「一つ伺ってもいいですか?」

「どうして僕の娘が絵を描いていることを知っているんでしょう?」

「さあ、私は先生ほどの力を持っていないのでわかりませんが、先生がおっしゃるのでお子様が絵を描いているのでしたら止めるのが得策かと思いますよ」


 もう少し電話の向こうにいる知らない人と話をしていたいと思っていた。この電話を切ると楽しそうに絵を描いている沙弥のクレヨンを取り上げなくてはいけないと思ったからだ。沙弥は大人っぽい一面もあるのだが、やはり子供という事もあって自分の好きな事をしている途中で止められると途端に不機嫌になってしまうことがある。つい先日も人形遊びをしている時に使い終わっていると思った人形を片付けたところ口をとがらせて機嫌を損ねていたこともあったのだ。僕は沙弥のやりたいことをやりたいようにしてもらいたいと思っている。もちろん、今の小さいうちだけの話ではあるのだけれど、これから嫌な事も増えていくと思うのだから、今くらいは好きな事だけさせてあげてもいいのではないかと思っていたりもするのだ。

 そんな事を考えていると、不意にチャイムの音が鳴り響いた。夜のチャイムは沙弥を悲しい気持ちにさせてしまうのだが、なぜか今回に限っては沙弥も嬉しそうに玄関へと走って行ったのだ。なんで沙弥は走って行ったのだろうと思って一緒に着いていったのだけれど、玄関を開けた沙弥は外に立っていた鵜崎さんの足に抱き着いていた。


「こんばんは。小野君の子供は小野君に似ずに人懐っこいんだね。社交的な面は奥さんに似たのかな?」

「鵜崎さん。そんな事よりも水瀬さんが大変な事になってるんだよ」

「やっぱりね。何となくそうなんじゃないかなって思ってはいたんだよね。この事って、桑原さんと大西さんには知らせているのかな?」

「知らせてはいないけど、教えた方が良いのかな?」

「いや、知らせていないならそれでいいんだ。水瀬さんもあんまりそういう事は知られたくないだろうし、水瀬さんの口から二人に言うまでは言わない方がいいと思うよ。それにしても、小野君の子供は本当に人懐っこいんだね」

「普段は人見知りをするんだけど、鵜崎さんの事は気に入ってしまったのかもね」

「気に入って貰えたなら光栄だね。じゃあ、さっそく水瀬さんの所に行こうか」

「うん、戸締りをしてくるから少し待っててもらってもいいかな?」

「あっと、その前にお水を一杯いただいてもいいかな?」

「もちろん構わないよ」

「贅沢を言って申し訳ないのだけれど、小野君ではなくてお嬢ちゃんについで来てもらってもいいかな。もちろん、台所までついていくからさ」

「別にかまわないけど、沙弥はお姉さんにお水を汲んであげることが出来るかな?」


 沙弥は僕の言葉を聞くと同時に鵜崎さんの手を引いて台所へと向かっていった。鵜崎さんに子供がいるのか聞いていないのでわからないけれど、きっと鵜崎さんは子供が好きなのだろうな。子供の事が好きな人は子供に好かれると思うし、沙弥は他の子供よりもいい人と悪い人を見分ける力があると思うので、鵜崎さんは今まで沙弥が会った誰よりもいい人なのだろう。


「じゃあ、さっそく水瀬さんの所へ向かおうか。私の車はチャイルドシートが無いので小野君の車を出してもらってもいいかな?」

「全然大丈夫だよ。でも、沙弥を水瀬さんの所に連れて行っても大丈夫なのかな?」

「その点は問題無いと思うよ。沙弥ちゃんみたいにまだ小さい子には興味を持たないだろうし、小野君たちにだって危害を加えたりはしないさ。もっとも、水瀬さんたちに対しても危害なんて加えたりはしてないんだけどね」


 そう言いながら鵜崎さんは沙弥の頭を優しく撫でていた。沙弥は頭を撫でられて嬉しそうにしていた。鵜崎さんが何でここまで沙弥に気に入られているのか知りたいところではあったが、きっと僕が知ったとしても鵜崎さんみたいにはなれないのだろうな。そんな事をぼんやりと考えながら玄関に鍵をかけていた。

 そう言えば、家に誰もいないというのは結婚してから初めてのような気がしていた。今までは僕たちが家を空けることはあってもお義父さんは残っていたし、逆にお義父さんがどこかへ出かけている時は僕たちの誰かが残っていたのだ。昼間には僕たちがいなくても檀家さんが何かしらお手伝いをしていてくれたりもするのだが、さすがに夜には僕たち家族以外は誰もいないのだ。

 誰もいないお寺というのは少し不気味な気もしているのだけれど、何かあったとしても僕にはそれを感じることが出来ないのだから怖がる必要はないのだ。誰もいない広い空間は不気味に感じてしまうけれど、きっとそんなものはテレビや映画やゲームの世界だけの話なのだ。


「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。今日はたまたま誰もいない時間が出来るってだけの話だからね。でも、ちゃんと見守っててくれているから安心していいと思うよ」


 僕は鵜崎さんが何に対してそう言っているのかわからなかったけれど、不思議とその言葉には安心感が含まれていた。先生と呼ばれるだけのことはあるなと思ってしまった。

 この様子だと、水瀬さんの所に行ってもすぐに問題を解決することが出来るんだろうと期待を込めていたのだった。

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