第7話 ママって呼んだ

「おはよう……ママ」


 南亜沙乃は嬉しそうにニカッと笑った。

 鼻歌まじりで俺の部屋から出ていき、部屋には彼女の甘い匂いだけが残っている。


「煩悩を祓いたまえ煩悩を祓いたまえ煩悩を祓いたまえ」


 念仏を唱えるよう理性を制してから、洗顔、着替え、朝食というモーニングルーティーンに至る。

 今日はトーストに目玉焼きとソーセージ、小盛のサラダという洋風な朝食。


「その、ママって朝何時に起きてるの?」

「ん? んー大体六時くらいかなぁ。メイクに時間かかんだよねぇ」

「もし俺の朝ごはんを作らなくていいってなったら?」

「そしたら三〇分は寝れるけど……ってなに? もしかして申し訳ないとか思ってる?」


 南は怪訝な眼差しでこちらを睨む。

 その威圧感に俺は、口をもごもごとさせて萎縮する。


「はぁ……。いーい? 私は居候をさせてもらっている身なの。昨日も言ったけど私のママ業は仕事でもあるんだから。私はママをしてないとこの家には住んでいけないの。分かる? だからたっくんが気をつかう必要はないのよ」

「それでも割り切れないものがあるというか。クラスメイトの女子にお世話されてるってのが、その……」

「違う。家ではたっくんのママ。それだけでいーの」


 そこで話を切り上げるように南はトーストをかじる。

 無理くり言い負かされた感は強いが、彼女がそれでいいというなら、あとは自分で折り合いをつけるしかないだろう。


 その折り合いという面でも、南をママと呼ぶのは意外と効果的なのかもしれない。

 自己暗示とか、洗脳とかそういう類の方向で。


「ごちそうさまでした」

「はい、お粗末さまでした」


 朝食を終え、片づけぐらいは〝ママの手伝い〟としてやらせてくれと懇願する。

 やや不服ながらも了承してくれた南。

 上機嫌に皿を洗う自分をおかしく思いながらも、お世話されっぱなしという引け目を回避できた嬉しさは噓偽りないものだ。


 次いで作ってもらった昼食用の弁当を受け取り、家を出る。


「行ってきます」

「いってらっしゃーい」


 南に見送られながら、俺は徒歩で学校へと向かった。




 午前中の授業を乗り切り、誰もが待ち望んでいたランチタイムへ。

 多くのクラスメイトがそれぞれに集まっては弁当を広げる中、俺も今日はカバンから弁当を取り出し机に広げている。


 一緒に食べる友だちはいないがな!


 そんな現実を悲嘆しながらも、〝買いメシぼっち〟というあわれな階級からは卒業できたので良しとしよう。

 これもひとえに南ママのおかげだな。

 弁当に向かって感謝の合掌をし、袋を開く。

 出てきたのは、ギャルが良く身につけている女児向けキャラクターの弁当箱。


「俺の家にこんなのあったっけか」


 いやあるはずがないだろう。俺と父親の二人しか住んでなかったし。

 そもそも昨日、南から直接渡された弁当箱は黒のオーソドックスなやつだったので、今日もそれを使えばいいはず。


「ってことは、これは南のやつか。入れ間違えたんだな」


 そうと分かれば話は早い。

 数メートル先にいる南と弁当箱を入れ替えればいい。

 だがどうやって、と疑問が生じたのは彼女に近づいた後だった。

 俺が教室で南に話しかけたら、またもクラス中の注目を集めかねない。

 それに気づいた時には既に、俺の口が南を呼んでいた。


「ママー」

「はーい」


 クラス中の空気が凍りつく。

 誰もが一斉に黙る瞬間というのがあるだろう。幽霊が通ったんだとか言われているアレだ。

 しかし今回の原因は幽霊なんかじゃ決してない。

 俺の冷や汗はまるで滝のように流れ出る。

 南はなぜ俺たちが注目を浴びているのか分からないといった様子だ。

 俺たちはママ呼びに慣れ始めてしまっていたんだ。


「えっ、いま亜沙乃のこと、ママって呼んだ⁉ ヤバくない⁉」

「笹森ってまさかのマザコン⁉」

「亜沙乃がママに見えたのか~! 確かに胸でけぇもんな!」


 そしてクラスの陽キャ男子を筆頭に、これ見よがしにと俺をいじり始める。

 冷や汗は次第に羞恥となり、なにも言えなくなってしまう。


 ――終わった。俺の健全な高校生活はここまでだ。


 耳の先まで燃えるように熱い。

 周囲からもクスクスと笑い声が聞こえてくる。

 恥ずかしさで今にも教室の窓から飛び降りてしまいそうだ。


「おっぱいは関係ないでしょ」


 周囲の笑いを鎮めるように南が口を開いた。

 ただ南さん。反抗するのそこじゃないです。


「誰にだって一度や二度あることでしょ。私だって学校の先生をパパって呼んだことあるわ」


 うん、それはもしかして本当に『パパ』だったのでは。


「間違いを笑う人は、自分が間違えた時も笑われていいってことよね?」

「ちょ、亜沙乃? なにマジになってんの。冗談じゃん」


 銀髪ギャルの彩が、焦りながら南の怒りを押さえようとする。


「冗談でも、あそこまで言う必要なくない?」

「それは……そうだけど」


 南の正論に彩は身を引いた。


「私良くないって思ったことは全部口に出ちゃう性格だから」


 自嘲的に言いつつ、南の目はいじりを始めた陽キャ男子たちをきつく睨んでいる。


「べつに謝れとか言うつもりないけど。でも、自分がされて嫌なことは他の人にもしないこと。これ常識だから」


 そう言って南は陽キャ男子たちから目を離した。


「亜沙乃、本当にママみたい」


 ギャル友の一人がボソッと呟いた。


「南さんって意外としっかりしてる?」

「ギャルに常識説かれちゃなにも言い返せないなぁ」


 クラスの面々も南の発言を前向きに捉えているようだ。

 何よりこの俺はいま、目頭が熱くなっていて、油断すれば今にも泣きそうです。

 自分のために誰かが怒ってくれるって、こんなに嬉しいことなんだな。


「たっ――ごほん、笹森くん」

 南に呼ばれ、サッと目を拭う。


「ごめんなさい。急に熱くなっちゃって」

 南はなぜか俺に頭を下げた。


「いやいやいや! むしろ俺の方こそ、変な呼び方してすみません!」

 負けじと南よりも深く頭を下げる。


「べつに変な呼び方じゃないけど」

 南のこのつぶやきは、俺にしか聞こえていないと心から願う。


「それで一体何の用だったの?」

「あ、そうだった」


 ようやく本題に入れる、のだが、一体どう説明したら良いのだろう。

 弁当箱を取り違えるなんてこと、同棲でもしていない限り起きる訳がないし。

 かと言ってこのまま「やっぱ何でもないです!」なんて切り抜けたら、周りから今度こそ白い目で見られそうだし。

 そう一人苦悶していると、


「本当に何の用?」


 南の声音は低くなり、俺に懐疑的な目を向けていた。


「いや! その、これ! なんでか知らないですけど、俺のカバンに!」


 なるようになれと祈りながら、ピンク色のキャラクター弁当箱を南に差し出す。

 それを見た南は小首をかしげて、問い返してきた。


「それが何なの? 笹森くんのお弁当じゃない」

「……え?」

「私も好きだよ、そのキャラ。キーホルダーだってつけてるし」

「……え?」

「どうしたのさっきから。求められてたリアクションと違う?」


 ……どういうことだ?


 これは俺の弁当箱で合ってるってことなのか?

 だとしたら、なぜ――

 俺の頭じゃ完全にキャパオーバーだったので、一瞬の隙を見て、南に耳打ちして尋ねた。


「これ! 亜沙乃さんのと間違えてない⁉」

「間違えてないわよ。昨日なんか無難なやつにしちゃったから、今日は可愛いやつ☆」


 華麗なウインクを決める南。

 そこで俺はようやく悟りを得ることができた。

 ――そう。ギャルとは理解不能な生物なのだ。


「え、どうしてそんな悲しそうな顔をするのよ。ねぇ!」


 もう俺は無我の境地に達していた。

 無表情、無感情で自分の席へと戻り、可愛いらしいキャラクターの弁当箱を開ける。

 そして何も考えないままパクパクと、ごはんたちを口に運んでいくのであった。



 午後の授業を終え、家に帰る。

 玄関を開け、南の姿を視認。

 『ただいま』よりも先に、今日の不満を盛大にぶつける。


「紛らわしいことするんじゃね――」

「たっくぅうううううううん! どうしようどうしようどうしようどうしよう⁉」


 しかし俺の不満が発散されるよりも前に、激しく動転している南に気圧されてしまった。


 なんだか、とても嫌な予感がする。

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