第9話
戸田に電話をかけた。出勤前、何回目か忘れた発信でようやくつながった。
「戸田! 大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
その声は無理をしているようにも聞こえた。
「あいつになにされた?」
「太ももの皮を剥がされそうになったんですけど、今入っているタトゥーを消して、もっといいものを入れ直すからって言ったら、解放してもらえました。もちろん出まかせですけど」
「そうか、怪我はないんだな?」
「はい、大丈夫です。すみません、警告してくれたのに」
「警察には行ったんだろうな?」
「いや、こわくてまっすぐ帰ったところで」
「すぐに近くの警察署に電話しろよ」
「はい、わかりました」
「仕事に行く時間だから、切るぞ」
「あ、俺もです」
学校に行くと、生徒から、帰り道で変な男と話しているのを見たけど誰だったのかと訊かれた。やはり見られていたのだ。俺は、そいつは怪しい男だから、見かけたら絶対に近づかないようにと言っておいた。
それからしばらくは何事も起こらず、いつもの日常が戻ったと思った。絵を描こうとして描けないのは前から変わらない。アカネがいなくなったのがひとつの変化。そのことも、やがて考えなくなるだろう。
しかし、警察からの電話が俺の日常を破った。戸田が行方不明になったという。無断欠勤が続き、最近、トラブルに巻き込まれたということを知っていた職場の人間が捜索願を出した。彼の勤務態度は真面目で、無断欠勤などしたことがないらしい。
俺は吉持のことを改めて警察に話し、弓野の連絡先も警察に教えた。
弓野に連絡してみようかとも思ったが、正直、こわかった。吉持と弓野がつながっているなら、弓野と関わりを持ってしまったら、自分の身にも危険が及ぶのではないか。
守るものなんて、なにもないのに。俺にとって、大切な人も、大切にしてくれる人も、生きる理由も、なにもないのに、やはりこわい。現金なものだ。
弓野に連絡することは諦めた。しかし、夜。その弓野のほうから、電話がかかってきた。
迷った。が、応答してしまった。
挨拶する弓野の声には、後ろめたさはまったくなかった。
「あの、アカネさんとの通話音声を録音していたことを思い出したんです。もしよかったらお渡ししようかと」
「吉持はどうしてますか?」
こうなったら、尋ねないわけにはいかない。
「どうって、普通にしてますよ。今日も会いました」
「ほかに、俺になにも話すことはありませんか?」
「なんのことですか?」
俺は戸田のことを話した。
「初耳です。心配ですね」
とぼけているのか本当に知らないのか、判断できない。
「警察から連絡は来ていませんか?」
「いいえ」
一体なにをやっているんだ、警察は。
「吉持が戸田のことを探していたのは知っていたんでしょ? 俺のことを待ち伏せしていたことも」
「いいえ、知りませんでした。少ない人員でたくさんの仕事をこなしていますし、常に報告し合っているわけではありません。彼は、勝手に行動することも多いですし」
「協会のほかの人の連絡先を教えてもらえませんか?」
警察が役立たずなら、こちらから手伝ってやらないと。協会の中に、弓野よりも吉持と親しい人がいるかもしれない。連絡先を警察に教えてやるのだ。
「あの、言いにくいんですけど」
弓野は初めて、後ろめたそうな声を出した。
「協会のメンバーは、吉持とわたしだけなんです」
「はあ?」
理事長と会長という肩書。そういうことだったのか。
「騙してたんですか」
「すみません。協会と名乗れば、信用していただけるかと。でも、本当に怪しいことはしていません。吉持とわたしは、幼なじみなんです。大して仲がよかったわけではなかったんですが、大人になってから、あるアート関係のコミュニティで再会して、彼が本当に芸術を愛している人だということを初めて知って、一緒に芸術を保存する活動をするようになったんです」
「芸術を愛している……」
その言葉に、引っかかりを覚えた。なんだろう。わからない。
「そんな深い関係だったんですか」
やはりまずいな。弓野と話すべきではなかった。弓野は完全に吉持の味方だろう。
「そんなことありません。わたしたちは二人とも変人すぎて、友達以上にはなれないんです。ただ、目的を同じとする協力者でしかありません」
「そろそろ失礼します」
「待ってください。わたしのこと、警戒してらっしゃるんですね。信じてほしいなんて、そんな虫のいいこと言えません。でも、アカネさんの音声をお渡ししたいんです。会っていただけませんか?」
このまま通話を切って、連絡先を削除し、忘れればいい。それが一番安全なのだ。アカネの記録や記憶をかき集めても、アカネはもう戻ってこない。戸田と吉持のことは、警察に任せればいい。
しかし、怯える俺をあざ笑う俺もいる。なにをこわがってるんだ? 女と電話しているだけだ。女と会うだけだ。
賢くて臆病な俺。考えなしで衝動的な俺。どちらも俺で、どちらも芯がなく、空っぽだ。
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