「夏とハイヒールと私の足」―星海くじら
ハイヒールは、中世のヨーロッパで道の糞尿を避けるために生まれた。なんて眉唾な話もあるが、実際にはそんなことはなく、ファッションのために生まれたものであるらしい。
ここで大切なのは、ハイヒールがファッションのために生まれたという点である。ファッションのために生まれたというのならば、なぜ華やかすぎないことが求められる就活の為に履かなければならないのだろうか。そんなことを考えながら、夏の夜道を歩いていた。
朝の七時に家を出て、インターンシップを乗り越え、ストレス解消のために夜十時まで友人と飲んで遊んでいた。後半は自業自得だが、一日中ヒールを履くというのは慣れていない人間にはかなり辛い。足は随分前から悲鳴をあげており、正直今すぐ裸足で駆け出したい衝動に駆られている。限界を迎えかけた足では、足どりは途轍もなく重く、家までのあと十分の道のりが果てしなく長く感じられた。
そんな時、視界に飛び込んできた光はコンビニのものだった。
「あー……アイス食べたい」
誰に言うまでもなく呟き、誘蛾灯に引き寄せられるように店内に足を踏み入れると、ピロピロリンというチャイムと若干投げやりな店員の挨拶に迎えられた。ひんやりとした冷気に心地よさを感じながら、わき目もふらずアイス売り場に直行し、良いブツがないか物色する。
定番でいくか、新商品に挑戦してみるか、値段も加味しながら暫し逡巡し、結局新商品がハズレだった時の怖さに負けて、定番のモナカアイスを手に取りレジへ向かった。
「ありがとうございましたー」
店員の挨拶を背中に受けながら店を出ると、一瞬でむわっとした熱気が身を包む。この暑さでは、アイスは家に帰る間に溶けてしまうだろうし、食べてしまおうと近くの公園へと足を向けた。
コンビニから一分ほど歩いた場所にある公園は、夜ということもあり人気はなく、セミの鳴き声だけが響いている。近くにあったベンチに腰掛けると、徐にパンプスを脱いでみた。
「あ゛~~~」
我ながら汚い声だとは思うけれど、窮屈な靴から足を解放すると、暑さも気にならなくなるほど気持ちがいい。そこに美味しいアイスが加われば、気分はもう天国である。北海道には締めラーメンならぬ、シメパフェという文化があると聞いたが、酒を飲んだ後のアイスは三割増しに美味しい気がする。
しばらく無心でアイスを頬張っていたが、至福の時間というものは瞬く間に過ぎ去ってしまう。五分も経てば、手元にはアイスの袋だけが夢の残滓として残るばかりだ。
そして、夢の時間というものには弊害も存在している。具体的に言うと動きたくなくなることだ。家まではあと十分を切っているが、その道のりは箱根駅伝くらい長く感じられる。
ここから一歩も動きたくない。そんな一心でいたが、人の心ほど移り変わりやすいものも無い。数分も経てば、今度は暑さで居ても立っても居られなくなってきた。
「エアコン……エアコンが無ければ死んでしまう……」
人は立ち止まってばかりはいられない。エアコンの効いた部屋でごろごろするためには、歩いて家に帰らなければいけないのだ。またヒールのあるパンプスを履かなければならないのは憂鬱ではあるが、背に腹は代えられない。アースマラソンのように思える長い道のりも歩かなければならないのである。
「帰るぞ!」
なんとか決心して勢いよく立ち上った。しかし、それが災いしたのか、ストッキングが何かに引っかかったような感覚と、小さく何かが破けるような音がした。
ヤバい、と思ったときには既に手遅れ。右脚のストッキングにできた小さな穴に触れて溜息を吐く。せっかく出たやる気が急激に萎んでいくのが分かると同時に、ネガティブな思考が堰を切って溢れ出した。
朝五時に起きて身だしなみを完璧に整え、七時には家を出て満員電車に揺られ、夕方までインターンシップに勤しんだ一日の締めくくりにストッキングも破けるなんて、私の一日は何だったのだろうか。ああ、就活なんて糞くらえだ。そもそも、なぜ就活しなければならないのだろうか。働かなければ生きていけないからだ。では、なんで働かなくては生きていけないのだろうか。というか内定貰える自信が無い。周りみんな凄そうで自分がゴミみたいに思える。
酔いとストレスと夏の暑さが相まってか、思考はまとまらずに頭の中をぐるぐるとまわるのみ。少し前まで友人と散々愚痴りあっていたのに、まだこんなに溜まっていたのかと、どこか他人事のように思う。
行き場のないフラストレーションを発散させようとしたのか、気がふれたのか、どちらなのかは自分でもわからないが、気がつけば穴の開いたストッキングを自分で破いていた。
一瞬、正気に戻って(やっちまったなあ)なんて思ったものの、どうせ捨てるのだからと、開き直って破り捨ててしまうことにした。
ビリビリと引き裂いていく感覚と、締め付けられていた脚が解放される感覚は、何とも言えない快感がある。そのまま、できるだけスカートをずり上げないよう注意してストッキングを脱いだ。一日中ヒールを履いていたこともあり、脚はパンパンになっていて、生ぬるい外気であっても心地よく感じる。
一日中押し込められていた足の指をストレッチ代わりに動かしていると、またパンプスを履くのが非常に億劫に思えた。
靴はカバンには入れられないので、左手にまとめて持つ。素足で踏みしめるアスファルトは、夜であってもまだじんわりと熱をもっていた。ごつごつしているので痛くはあるが、家に帰るまでなら耐えられそうだ。
誰もいない夜の道を、裸足でぺたぺたと歩いていく。酔いがあるからかもしれないが、リクルートスーツに身を包んでいることは変わらないのに、ストッキングとパンプスを履いていないだけで、なんだかとてつもなく自由な気分だ。
足どりと共に軽くなった心だと、明日からも頑張れる。少しだけ、そんな気持ちになった。
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