真夜中の猫のおでん屋台

yolu(ヨル)

猫のおでん屋台

 聞き慣れた駅名が聞こえた。

 私は飛び起きて、電車を駆け降りる。

 潰れたヒールが踏みしめたアスファルトはしんと静まりかえり、胃のあたりがざわりとする。

 見上げた看板は、いつもの駅じゃない。最寄駅の1つ前の駅の名だ。


「……あー……」


 私が漏らしたうめき声は、2月の冷えた夜中に吸い込まれていく。

 とっくに過ぎ去った電車を睨み、改札を抜けた。


 右と左の出入り口を見たが、どちらに行っても家は遠い。なんとなく左に出てみたが、見慣れない住宅街が伸びているだけだった。


 今日で7日は着込んだスーツのシワを叩き、ポケットからスマホを取り出す。

 家までのルートを調べるが、予定なら、駅前のコンビニで何か買って帰るハズだった。

 すっかり胃のなかになにもない。力ないすり足が耳につく。


 見上げた空には、星が1つ。タクシーもコンビニも見当たらない細い道を歩きながら、握っていたスマホをもう一度覗いた。

 順調に歩けば40分程度で到着するそうだ。

 だが、土日返上で迎えた月曜日、いや、もう火曜日の私には、かなり堪える状況だ。


 不意に、匂いがする。


 スンスンと鼻を鳴らした私は辺りに視線を泳がした。

 空っぽの胃が、ぐうと素直に求めてくる。

 私はスーツを握る。


 間違いない。

 和風出汁のいい香りだ。

 おでんに違いない──!


 だが、近くにコンビニもなく、匂いの発生源がわからない。

 こんな夜中に、家でおでんを煮ているのだろうか。確かに明日には美味しいおでんだが、夜中に換気扇を回してまで煮る強者がいるとは……

 それにしても、だんだんと匂いが濃くなっていく。


 匂いをつい追ってしまう。

 ふと、横を見ると、赤提灯が見えた。

 それを提げているのは屋台だ。

 小さなベンチが見え、白く濁った光から、湯気が上っている。

 赤提灯には、『おでん』と達筆で書かれ、冷たい風がふわりと揺らす。


 私は寒さに手をこすった。

 匂いの発生源を突き止めた嬉しさと、あまりの空腹に、つま先が屋台へ吸い寄せられる。


 それでも私の足は止まってしまう。


 理由は、細い鳥居の向こう側に屋台があるからだ。


 寒さではない寒気が、背中をべろりと撫でたとき、


「あらあら、珍しいお客さまなのよ」


 可愛らしい女の子の声がした。

 足元の声に見下ろすと、猫がいる。

 いや、ハチワレの猫が二本足で立っている。

 赤い着物を着て、白いエプロンをつけて、私を見上げて、にっこりと笑ったではないか。


「さ、寒いから、どうぞどうぞよ?」


 よれたスーツのスネのあたり、そこを爪でひっかけ、ちょんちょんと引っ張ってくる。

 私は糸を伸ばされないようについ足を前へ進ませた。

 ハチワレのがコロコロと口に手を当て可愛らしく笑ったときには、私はすでに鳥居の中だった。


「マジかよ……」

「ほらほら、おでん、お食べなのよ」


 私はどうも奇妙で可愛い客引きにつかまってしまったようだ。

 私は鍵尻尾の可愛いお尻を追って歩いていく。

 木々に囲われた境内は、ほんのりと温かい気さえする。


「桃ちゃん、お客さんかい?」


 着いた屋台の奥から渋い声がかかった。


「そうなのよ。クロさん、お姉さんに美味しいおでん、食べさせてなの」

「はいよ」


 長い暖簾をかきわけ、年季の入った木のベンチに腰をおろした私だが、目の前で「いらっしゃい」とダンディボイスを投げてきたのは、藍色の着流しを着た、恰幅のいい黒猫だった。


 おでんを煮る鍋のふちに木枠があり、それを2本足で歩きながら、体より長い箸を操って、しらたきをひっくり返すと、たるんとしたお腹をさすって、クロさんと呼ばれた猫はゆっくり目を細めた。


「お姉さん、初めての人だねぇ。ゆっくりしてってねぇ」


 慣れた順路でまな板の横へ立つと、棚からA5サイズの半紙を取り出した。

 呆けた私にそれを手渡し、黒い小さな指で、一番上のおでん屋台の字をなぞる。


「うちはね、おでんと日本酒の屋台なの。大魚おおなの節と波山ばさんの手羽でじっくり出汁とってるのが自慢なんだ。あとね、マンドラゴラと桃源郷の塩が効いてるからね、人の体にも優しいから。紙のそれは、今日のおすすめの日本酒。3つあるんだけど、お姉さんなら、酒呑童子がやってる酒蔵のあかって酒、似合いそうだねぇ」


 でっぷりとした猫に饒舌に語られると、そうしようと思えてくるもの。


「じゃあ、それで、お願いします……」

「はいよ」


 ワガママボディの割に、身軽にシタっと地面に降りたあと、四合瓶を抱えて再び跳び上がってきた。

 青白い透明な瓶に、朱色のラベルがぐるりと回った瓶だ。

 桃ちゃんが私の前に枡に入れたグラスを置いた。

 クロさんがゆっくりと酒瓶を上下に揺らす。

 空気が回ったのを見てから、トントンとカウンターまで歩いてくると、赤い蓋をキュッと外し、ゆっくりと私の前のグラスへ注いでいく。

 グラスからあふれ、枡のフチまで盛り上がった酒だが、ほんのりと黄色みがかっているようだ。


「これ、お通しね。神農大帝さんの九条ネギと、波山のムネ肉のピリ辛和えなのよ」


 桃ちゃんが運んできた小鉢には、ネギと細長く割かれた鶏ムネ肉が和えられているが、ピリ辛という割には、赤色は見えない。ワサビで和えたものなのだろうか。


 ……とはいえ、猫が差し出したそれをすぐに口をつけられるほど、私も寝ぼけてはいない。はずだ。

 いや、寝ているのか……?

 眉毛に唾を塗ればいいんだっけ。

 私は指を舐めてみる。

 すでに消えた眉をなぞってみたが、景色は変わらない。

 ただ、目の前の酒が、たゆたいながら呑めよ呑めよと誘ってくる。


「ほらほら、お仕事終わりなんでしょ?」


 黒い肉球が、すっと酒を指した。


「屋台に来たんだから、美味しくすごしなさいなのよ」


 薄桃色の肉球が、つと小鉢を押し出してくる。


 私は2匹の顔を見る。

 猫だ。

 猫のおでんの屋台など、現実にはありえない。


 きっと私は電車のなかで寝入ったのだ。

 これは、夢の中で迎えた私の願望だ。


 だって、ぽっちゃりの黒猫は実家にいた猫にそっくりだし、給仕してくれるハチワレ猫は祖母の家にいた猫にそっくりだ。


 現実逃避するために現れた夢の猫であり、屋台であり、酒なのだ──!


 それならば、思う存分、いただこうじゃないか‼︎


「……いただきますっ」


 さっそくと日本酒に鼻を近づけた。

 なんともフルーティな香りがする。

 口で受けるように、グラスに唇をつけ、小さく啜ると、乾いた喉と空きっ腹に酒が一気に沁みていく……!


 じんわりと胃が熱くなるのを感じるが、鼻から抜けるのは、白い花に似た華やかな香り。

 ひと口目は甘みが舌を包み、ふた口目は甘みの他にコクがある。さらにスッと味が引いていく潔さが、もうたまらない。少しとろりとした舌触りもいい!


「……なんか、凛とした女性みたいな日本酒です……危ない、飲んじゃうこれ」

「それね、アダムのリンゴの花酵母を使ってるんだって。いい香りで美味しいよねぇ」


 クロさんが丁寧におでんを返す様子を眺めながら、私はお通しに箸を伸ばした。

 小さく頬張ると、ネギのしゃきっとした歯応えととろっとした甘味、噛むほどに鶏の旨味がじんわりと広がるが、逆に辛味も湧いてくる。


「……美味しいけど、なに、これ……唐辛子?」


 箸でつまみ上げたネギと鶏ムネはやはり白いままだ。

 白胡麻油だろうか。胡麻の旨味とほんのりと旨みのある塩の味、そして後から駆け足でくる辛味に、箸が止まらない。


「それ、美味しい? 波山のムネ肉は噛むほどに、辛くていい出汁がでるの知ってた?」


 いつの間にか、横に顔がある。女優並の美しい顔に息を飲む。

 彼女は私の小鉢を眺め、太く紫の舌で、べろりと唇を舐めあげる。


「波山はね、火を吐く鶏でね、胸肉が一番辛い場所なの知ってた? その他はほんのり辛いって感じ? あー、おいしそう……」


 ぬっと寄せられた顔だが、私は顔の続きを見てしまった。

 首が太い。

 いや、牛柄の首……?

 さらに彼女の後ろを見ると、体が牛である。

 枡をひっくり返そうになる私に、カラカラと笑い、ごめんなさいね。と続けた。


「わたし、くだんって知ってた? 予言ができなくってクロさんとこで、屋台引きさせてもらってる感じ?」

「……へぇ」

「おとみちゃんの分、ちゃんとよっこしてあるから、安心してなの」


 桃ちゃんが言うと、おとみちゃんと呼ばれた美人な件は嬉しそうに頬を緩めた。


「いつもありがと、桃ちゃん。わたし、クロさんのネギ和えに目がないって知ってた? ……そうそう、お姉さん、オークの大根、おすすめって知ってた? 出汁の染みた白滝は、玉子と一緒に食べるのが通って感じ?」


 のっそりと離れていったおとみちゃんを見送り、私は勧められた大根を指さした。


「じゃ、その大根とー、玉子と白滝ください」

「はいよ」


 面取りをしていない大根だが、綺麗な黄金色に染まっている。

 平たいお玉で丁寧にすくいあげながら言う。


「面取りしちゃうとさ、角っこ、もったいないでしょ?」


 大根は手のひらサイズ。厚みは5センチはあるだろうか。

 たっぷりと出汁色に染まり、それに小ぶりのゆで卵が一つと結び白滝が乗せられた。


 盆に皿をのせて、桃ちゃんが届けてくれたが、ふわりと深い鰹節の香りと、鶏の香りが立ち上る。


「オークの大根は煮ると甘いのよ。アツアツでお食べなのよ」


 湯気が絶えない大根に箸を通すと、少し固めだ。

 だが火が通ってないわけではない。奥までしっかりと色が染みている。煮ても歯応えが残る大根のようだ。

 添えられた辛子を少しつけ、頬張った。

 ……熱い!

 口元を隠しながらはふはふと咀嚼を繰り返すが、出汁の旨味が舌を覆っていく。さらに辛子が大根の甘みをぐっと一段引き上げる。

 旨味を堪能したくて、酒を口に含む。

 よりじんわりと舌に出汁の味が染みて、旨味の余韻が引き立っていく。


「波山の玉子は、みんな割って、そこの小瓶のみそダレと混ぜて、他のにつけて食べてるんだけど、やってみるかい?」


 そうは言われても、ずっと煮込まれていた玉子の黄身が固まらないわけがない。

 私は言われた通りに玉子を割った。

 ころんと黄身が出てくると思ったのに、とろっとろの黄身が流れ出した。


「……うそ」

「その黄身、少し辛くて、濃厚だから、出汁の染みた白滝と相性抜群なのよ」


 桃ちゃんの言う通りだ。

 少しピリッとする卵黄と味噌ダレがまざり、濃厚さが増す。そこへ白滝をつけて頬張ると、濃厚さもさることながら、じんわりと出汁の甘みが広がって、口の中がおいしいだけになっていく。

 そこへ日本酒を流せば、香り豊かに口の中がリセットされる。


「こんなおでん、初めて……」


 思わずつぶやいた私に、クロさんは笑う。


「そうでしょ、そうでしょ。ゆっくりお食べ」


 残りの大根を頬張ったとき、暖簾がめくられた。


「いいかい?」


 そう言って横に座ったのは、銀髪を肩まで伸ばした大層美しいお兄さんだった。

 陶器のように白い肌に、すらっとした鼻筋の横顔は、魅入ってしまうほど。

 少し光沢のある白い着流しをさばきながら座ると、襟を指で少しだけ整え直す。

 すぐにクロさんから半紙を受け取ったが、字を視線でなぞったあと、私の枡に指をさした。


「同じの。おでんも全部」

「相変わらず、檳榔子びんろうじさんは、めんどくさがりだねぇ」

「決めるのって、面倒じゃん。ね、姉さん?」

「……はぁ」


 私はつい飲み干してしまったガラスを傾けると、クロさんが、「同じのにするかい?」そう言われたので、こくんと頷いた。

 にっこり笑ってゆっくりと注がれた酒は再びたっぷりと枡のなかで揺れている。

 ふと、私は思う。

 これほどにゆっくりと酒を、おでんを味わったのはいつぶりだろうかと。


「……久しぶりだなぁ……おいしい……」


 残った白滝を頬張り、酒で流したとき、ふいに漏れてしまった。


「姉さん、忙しいんだねぇ。オレもなんだよねぇ……」


 グラスの酒を一気に飲み干し、枡でちびりとやりだしたビンロウジさんが続ける。


「みんなさ、自分のことしか考えてなくね? なんで人生とか、恋愛とか、オレに言うのかなぁ……」

「相談、しやすんじゃないんですか……?」

「それがさ、毎日相談にくるとかなら考えなくもないけど、ふらっと寄ってきてさ、たった5円投げて、一方的にお願いだけってさー」


 小さな疑問が、ビックリマークに変化する。

 この人、きっと神様だ。

 なんかの神様なんだ……!

 夢の中でだが、神様に会えるなんて嬉しくなる。


 ……だが、彼の言う通りだ。

 神社での願い事は、投げっぱなしが多い、かも……

 いや、むしろ、投げっぱなしだ。


「……大変、ですよね。なんか、いつも、すみません……」


 小さく頭を下げる私に、彼はカラカラと笑いながらも、ため息混じりに言葉が転がる。


「いやいや。まあ、だからもうさ、なんか考えるのが面倒になってさー」


 それを聞いて私の喉が詰まる。

 追加のがんもが喉に詰まったわけじゃない。

 という言葉が、喉を無理矢理通って、胃に落ちていく。


「……もう、そのままに、しててもいいんじゃないですか」


 ゆらゆらと揺れる酒に、提灯の赤みが刺さる。

 私の言葉は沈まずに、酒の上を漂っている。


「考えるの、やめた方が、楽なこと、いっぱいありますし」

『お前、考えるのやめろ。上司のオレの言うこと聞いてりゃいいんだよ』


「みんながやってるんだから、大丈夫ですって」

『みんな、やってるから。みんなのために、お前も頑張ろうな!』


「逃げたら、負けですし」

『ここからいなくなって、お前、どこに行くんだよ? あぁ? なんもできねーくせに』


 ビンロウジさんは、ぐっと酒を飲み干し、トンと枡を叩く。

 すかさずそこへ桃ちゃんが朱の日本酒を注いだとき、ゆっくりと私に向いた。


ねぇ」


 そっとビンロウジさんが私の額に手をかざす。

 笑いもせずに私を見て、うんと頷く。


「オレは、あと300年後ぐらいには、もうすこーし偉くなってたらいいな、ってビジョンがあったりすんだけど、姉さんは今の仕事しながら……そうだな、1年後、なんでもいいから、なんか成長できてる、とか、なんか楽しんでる、とか、そんなイメージってある?」


 私は、酒をひと口飲み込み、これからの自分をイメージしてみる。

 ……これから怒涛の年度末に入り、落ち着いた頃にゴールデンウィーク前の仕事の追い込み、さらに7月の連休前の仕事の片付け、学校の夏休み期間は先輩たちの家族が過ごしやすいように先回りで仕事をして、自分は休む間もなく年末年始に突入……

 ようやく回った来年の2月だが、今日よりもヨレたスーツを着て、真っ黒な隈で目を覆いながら、最寄駅からコンビニでご飯を買って、ダラダラと歩く背中が見えてきた──


「……もし、仕事じゃなくても、趣味でもさ、楽しめてる姉さんになってんなら、それもいいんじぇねぇかなってオレは思うけど?」


 肩にいきなり重しを乗せられた気分だ。

 潰されそうだ……


 だって、私には何もない。


 大卒から気付けば4年もの間、何も私は身に付けずに、ここまで来たのか……


 リアルな現実が、私の視界を真っ暗にする。


 ポンと肩を叩かれた。

 ビンロウジさんの手だ。長い指に、白い長い爪が肩に見える。


「今までのこと、無駄とか思った? 誰がなんと言おうと、過去も、今の時間も、1年後の時間も、姉さんのもんだから! 何も無駄なんてないって」


 見透かされた言葉に、なぜか涙がぼろぼろと落ち出した。

 今まで溜めてきた、色んな諦めた感情が、涙になって流れ出している。

 止めたくても止められない。

 あまりの感情の波に、涙を拭うこともできず、私は俯いて、歯を食いしばる。


 ひょいっと桃ちゃんがベンチに乗った。

 しっとりしたピンクの肉球で私の頬を撫でる。


「泣かないで。可愛い顔が台無しなのよぉ。もう今日は、全部、檳榔子さんの奢りなのよ!」

「なんでだよ、桃ちゃん」

「女の子、泣かせた罰なのよ」

「それとこれは関係ないでしょ」


 軽く舌打ちして、続きの酒を飲みこむビンロウジさんに、桃ちゃんがシャー‼︎ と唸った。

 あまりの剣幕に、ビンロウジさんの首が縮む。


「わ、わーったよ。オレの奢りでいいよ! 好きなの食べて、忘れるくらいたくさん飲んじまいなっ」

「だって! せっかくだから、手羽と、〆のラーメンも食べていってなの」

「いいねぇ。うちの〆は相当おいしいからね」


 そっとクロさんから差し出された手羽先は、皮がほろほろに崩れている。ほんのりと黄金色の肉に箸を当てるとほぐれてしまう。


 私は上着を脱ぎ、腰に巻きつけた。

 今日は、吐くまで飲む。絶対に飲む!

 明日、二日酔いで死んだなら、高熱が出たと休んでやる……‼︎


 鼻をかみ、半分残っていた朱を飲み干して、私は手羽先にかぶりついた。

 噛むほどに、目の当たりがじんわりと汗をかき始める。

 いや、首筋にも汗がにじむ。

 辛い。辛い‼︎

 かなり辛いけど、おいしい‼︎‼︎


「あらあら、今日の手羽はだったみたいだねぇ。辛いの得意でよかったよぉ」


 クロさんはのんびり笑う。

 ししとうの当たりに似たようなものだろうか。これはこれで面白い。


 朱をもらおうとグラスを傾けた。

 はいよ。クロさんが再び瓶を持って注いでくれるが、するんと蓋がテーブルに転がった。


 私はそれをつまんだ。

 瓶のなかに挿す場所はコルク、てっぺんは鉄の土台だ。さらに、くるみボタンのように朱色の和紙が貼り付けられている。


「コルクで、和紙って珍しい」

「変わってるかい? もう、瓶も空いちゃったし、蓋が珍しいならあげるよ」


 私はもう一度眺めてから、ズボンの深いポケットに押し込んで、再び酒をぐびりと飲み込む。


「いい飲みっぷりだねぇ。こりゃ、奢りがいがある」


 ガハガハとビンロウジさんは笑い、私の背をバシンと叩いた。

 それだけなのに、体の疲れがポンと飛んでいった気がする。


 ──それからは、他愛のない話が始まった。

 いつの時代も、金、恋、仕事の悩みばかりだとか。おでんのちくわぶは邪道だ、邪道じゃないとか。恵比寿天が釣り上げる鯛は超高級だとか。ろくろ首の美人は詐欺師が多いとか。関東のぬらりひょんは玉露派が多いとか……


 3本目の四合瓶が空き、胃袋の余裕が消えかけたとき、ビンロウジさんが言う。


「〆のラーメン、お願いすっかな」


 思えば〆があったと、お腹をさする私に、ビンロウジさんは笑う。


「大丈夫。スルスル入っちゃうから。あー、ハーフにしてもらったら?」

「それは助かります」

「はいよぉ」


 クロさんは別のガスで鍋を沸かしはじめた。

 まな板の上に、小どんぶりと、普通のどんぶりが並ぶ。そこに塩と、とろりとした黄色い液が注がれた。


「その塩、赤いんですね」

「そうなの。桃源郷の塩はね、薄紅色なんだよ。可愛いでしょ? それと、うちの特製鶏油をひと垂らし……と」

「もう、それだけで美味しそう……」


 覗き込む私に、桃ちゃんがクスクスと肩を揺らす。


「ちゃんと食べてから言ってほしいのよ?」


 細めの縮れ麺をザルに落とし、タイマーがかかる。火の玉を模したタイマーはチリチリと移動していく。

 クロさんはタイマーの進み具合を見て、おでんの汁を碗に注いだ。箸で汁をカラカラと回し、麺をくるくるしていると、ジリンとタイマーが鳴る。

 素早く、ふかふかの腕にザルを引っ掛け、慣れた手つきで麺が湯切りされていく。

 湯が切られた麺は、汁が張った丼へ、そっと寝かされた。


「……はい、〆の波山ネギラーメン・桃源郷仕立て、だよぉ。お待ちどう」


 そっと置かれた小どんぶりだが、澄んだ黄金色のスープに、縮れた細麺が綺麗に並んでいた。

 その上には今日のお通しで出された、神農大帝さんの九条ネギと波山の鶏ムネの和物がこんもりと乗っている。さらに脂がスープの温度を下げないように、一面を覆い、そこへすりごまがたっぷりと振り掛けられていて、あれだけお腹がいっぱいだった筈なのに、思わず喉が鳴る始末。


「うちは、こってりピリ辛の塩ラーメンなのよ」


 そっと湯気に顔をくぐらせてみた。

 ピリッとした唐辛子の刺激と、ほんのり胡麻の香り、そして濃厚な鰹出汁が鼻腔をくすぐる。

 ビンロウジさんと私は、同時に麺と具をつまみ、冷ます時間も惜しくて、熱々を啜り込んだ。


「……ヤバい」


 語彙力が消える旨さとはこのことだ。

 スープのコクはもちろんだが、野菜の甘みと塩の甘み、鶏油のコク、さらにごま油の旨みと鶏ムネの辛味が絶妙にマッチ!

 見た目は単純に見えるのだが、味の奥深さがたまらない。

 おでん出汁を注いでいるのもあり、旨味の広がりが海産物の風味、鶏の風味が混ざり、鼻を抜ける香りが舌へと広がっていくよう。

 塩の旨味も素晴らしく、塩の辛味を喉で感じるが、それがいやらしくない。ちゃんとミネラルのある塩の辛味なのだ。それが麺に絡んで、味が濃いながらも、スッキリとした後味にしてくれて、お酒の〆にちょうどいい。


 ……懐かしい。


 私は口に出しそうになる。

 でも、なぜ、そう思ったんだろう。

 もうひと口啜ったとき、記憶に笑顔が咲いた。


『ばあちゃんはね、塩ラーメン食べたら、何倍も元気になるのよ』


 祖母だ。

 祖母の笑顔だ。


 母に内緒で、よく行ったラーメン屋さん。祖母はいつもそこで、ネギ塩ラーメンを頼んでいた。

 本当ならラー油がまぶされたピリ辛ネギ塩なのだが、祖母から分けてもらう私のために、辛いネギ塩と、そして私用のネギ塩をいつも小皿で出してくれた、とても素敵な中華屋さん。


 ラーメンスープを丼ごと持ち上げ飲み込んだとき、幼い私の声がした。


『ばあちゃんは塩ラーメンだけど、あたしはパフェ食べたら、元気になるよ!』


 笑う私に、祖母は頭をそっと撫でる。柔らかいしわしわの手の感触がこそばゆい。


『好きな食べ物は、元気にしてくれるよねぇ』


 すっかり忘れていた。

 私の好物は、パフェ


 学生時代はカフェでバイトをして、さらにはパフェの名店を探して食べ歩きだってしていた。むしろ、県をまたいで食べ歩きに行ったことだってある。

 だから、就職をし、月に1回も食べられない日は辛くて辛くてたまらなかった……。

 なのに、入社して3ヶ月もすれば、そんな辛さなんて忘れ、仕事の方が辛くなった。

 そのうちに好きなパフェを探す暇も、時間も、パフェの存在すらも、忘れていた──


 残り少なくなった麺を持ち上げ、私は頬張りながら頷く。


「……やっぱ、好きな食べ物って大事」

「そりゃそうだねぇ。元気にしてくれるからねぇ」


 クロさんがのんびりと言う。

 その言い方が、祖母の口調に似ていて、笑ってしまう。

 思えば、2月に入り、もうすぐ祖母の命日が近い。

 今年こそは墓参りに行こう。


「お腹いっぱいになったかい?」


 クロさんに言われて、私が笑いながら頷くと、みんなも笑う。

 ビンロウジさんも、クロさんも、桃ちゃんも、おとみちゃんも、笑ってくれてた。

 それだけで、心の底から楽しかった。

 とってもとっても楽しかった!


 なのに、耳元で、けたたましい音が響いている──


 頭をあげると、そこは見慣れた私の部屋だった。

 ……部屋だ。

 あの屋台じゃない!


 右手に掴んでいたスマホが大音量で震えて騒いでいる。見ると、会社の2文字がある。


 慌てて通話を押して、立ち上がった私に、


『何やってんだお前ぇ! みんなに迷惑かかるだろうがぁっ!』


 頭蓋骨に反響した声に、私は顔を歪めたが、腕時計を見ると、朝の8時。完璧な遅刻だ。怒声から罵声へと変わり、すいません、という言葉を挟む暇もない。

 焦りながらウロウロと部屋を歩く私は、何かを踏みつけた。


「……いっ!」


 屈んで取り上げると、朱色の酒蓋だ。

 コルクの栓に、和紙が貼られている。

 私はそれをギュッと握る。


 ゆっくり目を瞑り、叫び続ける上司の1年後をイメージしてみた。


 ──今年より後退したおでこと、お腹がぽよんと出てきた姿。


 思わず笑ってしまったことで、さらに上司の声が甲高い奇声にクラスチェンジしたとき、


「今日の時間は、私の時間なんで」


 通話を切って、スマホの電源を落とした。

 私は、埃が積もったパソコンをざっと手で拭き、久しぶりに立ち上げる。


 ネット検索で打ち込む文字は『退職代行』だ。

 別タブで『近く おいしい パフェ』も打ち込んでおく。


 今は散らかった部屋で、ゴミと洗濯物の中に小さなテーブルが沈んでいる。

 だが1年後の私は、昔みたいに片付いた部屋で、休みの日には熱いコーヒーを飲みながら、美味しいパフェを探しているんだ。


 私には、その未来がある。

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