ただ人数を伝えた罪
「本日は6993人の新規感染者が発表され、先週の同じ曜日より566人減りました」
だから?って言っていると思う。紗季が真向いに居たら。
正面の2カメに伏せ目がちな顔を向けた。ほぼ2年同じことを繰り返している。
専門家の解説も先行きも対策も、毎日同じ繰り返し。
「本当に子どもたちがかわいそうですね」
そう言われても、私はあなたと違って子供も居ないし、他局にディリーのレギュラー番組もあるから実態を調べる時間もない。そもそも子供たちの何がかわいそうだと言っているのか。ちょっと、同意を求めるような目線やめてよ。
「井刈さんが言っているように外で遊ばせたいですよね、友達にも会えないし」
「そうなんですよ。一番楽しい時ですよ、青春が台無しですよ」
やっぱりそうか、浅い奴。
「一刻も早い根絶を目指したいものです」
ちょっと待って、感染症だよ。少なくとも数十年単位の見地から発言してよ、毎日扱うネタなんだから他にも〆のコメント用意しておきなよ。
「はい。続いては、おいしそうなこちらのコーナーです」
90秒のCMになった。
なんとかならないかなこの流れ。一応真顔でコールしたけど、だから冷たい印象だって言われちゃうのよ。
「ねえ、ねえ」
「なんですか」
「もう少し同調してくれないかな僕に。番組内別居ってきょうの夕刊紙に」
「気にし過ぎですよ、取り上げていただいてありがたいじゃないですか」
「主題は不仲説だよ、画面で否定するしかないじゃない、だから仲良くさ」
「女々しいんだよ」
メイクの久保田さんが私の頬を叩きながら吐き捨てるとうつむいて固まった。
「まもなくスタジオです、井刈さん、井刈さん」
フロアDのトラちゃんが笑顔で手を振ると顔をあげた。
さっきまでこの世の終わりのような顔をしていたのに、焼けて滴る肉汁に破顔してワイプに登場した。ステーキは食べて初めて笑顔になるんだって。肉汁なんて指を切った時の味がする。おまえはドラキュラか。
「おいしそうでしたね」
「そうですか」
しまった。本音が出た。
「またまた、お腹鳴ってたくせに」
「聞こえちゃいましたか。つづいてお天気です。さっちゃん外の様子はどうですか」
さっちゃんが局のキャラクター人形と元気に登場した。井刈さんが青のボールペンを振った。
終わったらあそこで。二人で決めた合図だ。
気が重いけど仕方がない。
週末の天気図に切り替わった時、青のボールペンを握ってOKの返事をした。
トラちゃんの明るいお疲れさまでしたで、きょうも終了。
形だけの反省会は五分。すぐにスタッフが明日の準備に入った。
とはいえ、突発事故が発生しない限り2年間流れは一緒だ。全局がほぼ横並びの構成で、コメントだって似たり寄ったり。
どうしてかって。だってネタの狩り場がネットだもん。仕事はウラ取りだけ。
アメリカ発の仮想通貨ネタを扱って、翌日全局がお詫び訂正した時は、さすがに赤面したっけ。
局舎から歩いて五分のビルの二階にその部屋はある。
喫茶ネモヒラに入った井刈さんは奥へ進んで従業員ロッカー室へ。用具入れの左の壁に手をかざせば床が180度回転して扉が開く。階段を下りて二つ目の青い部屋に入り、いつものテーブルに着いた。
私は道路に面したダーシュベーカリーの小麦粉袋が壁になっている通路を抜けて、渡されてあるカードを差し込んでエレベーターに乗った。
「遅い」
開いたら井刈さんが恐い顔で座っていた。
この部屋は、恐妻家の井刈さんが裏金を作って借りている。どこへ行くにもどこに居ても追跡されるご時世に、見られず聞かれず知られない完全プライベートの空間という贅沢は大金が必要だ。
月に平均三回、ニュース番組らしからぬエンタメ項目が入る。通称イカリ物件。
「これ頼まれちゃってさ、取材のOKは取ってるからよろしく」
軽い感じで放送が成立し、これでこの部屋をキープしている。
時間が押してイカリ物件をカットしたディレクターが怒りを買って異動させられたのは知らない者がいない。
すでにテーブルには料理が並べられて2つ揃ったワイングラスの白は水滴が出来始めていた。遅くなりましたと声にならない声で座った。
「同調しろよ」
「すみません」
とにかく俺が言った事にはうなずいていればキャスター契約は続くと、いつものように恫喝され続けた。
水滴が伝って輪を作り始めた。タラのムニエルも冷めてしまった。
「俺の分も食って反省しろ」
乱暴に立ち上がって出て行った。
奥さんの料理がまずいからっておどけながら食べていた二年前が懐かしい。
感染症がすべてをぶち壊した。
番組共演と言ってもニュース番組のMCは打ち合わせから反省会まで放送時間の三倍近くを毎日一緒に過ごしている。
知り過ぎると愛か憎しみが芽生える。
井刈さんは番組が始まって1カ月で私を欲しくなったようだ。
だけど私は子供の頃から他人に興味がまったくない。井刈さんでもそれは同じだ。
男たちが私の気を惹こうとする行動はいつも画一的で、頑張る姿に冷めた。
井刈さんはたぶんテレビ用の弱弱しい印象が本当の姿で、私やスタッフを奴隷化しようとする姿は無理をしている。
あの部屋だって私との危ない恋を妄想してずっとキープしているのは分かっている。一度も座った事のない壁際のソファーはレバーを倒せばベッドに変わるデンマーク製の高級家具だ。
おねだりすればなんでもプレゼントしてくれて、秘密の部屋まで用意してくれた。
パートナーへの礼儀は大切にしなさいって、紗季からもアドバイスされている。
わざわざ呼びつけたんなら恫喝だけで帰らずに、おいしい食事をして、呼びつけた目的を果たせばいいじゃない。数分なら我慢して協力しても構わないって生き方をしてきたから私なら愛なんかなくても平気よ。
この2年で離婚する夫婦が増えたって先週のニュース、結婚した事がないけど私には分かる。
仕事の顔を家で見せられてうんざりしたか、仕事の時は家とは違うはずだと思っていたのに一緒だったのか。裏も表もない人が好きと言っておきながら自分の知らない理想の姿を望んでいたんだろう。大丈夫だって、相手だってあなたに幻滅している。
アナウンサーの同僚は平均的な家庭より裕福に育った人が多い。悩みや苦労は世間と少し乖離している。
だから毎日読んでいるニュース原稿に隠された真実をほぼ想像できない。だって苦しみってだいたいお金が絡んでいるでしょ。
「知らないから冷静に読める事だってあるよ」
番組初日の井刈さんの言葉だ。そしてこう続けた。
「戦争だって知らないから伝えられるんだ、現状を見たら動揺するよ。命がけだからね」
井刈さんは東ヨーロッパの紛争地帯へ取材に行った話をよくする。ジャーナリストは目と足で伝えるべきだといつも言う。私って素直だからその言葉をお手本にして尊敬する人と番組をやれる喜びに満ちて隣に立っていた。
夏だった。井刈さんが自慢していたその番組がアーカイブ特番で再放送された。
第二次大戦後にひとつの国に統一されても民族紛争が絶えず、ショッピングセンターで自爆テロが起こり銃を備えた車で市街戦が展開される様子は、市民が撮影した映像に加え国連によるドローン空撮と防犯カメラで紹介された。
井刈さんは遠く離れた首都のホテルのベランダから、彼方の爆煙を指差して怖ろしいと言い、ネットで指揮官に作戦を質問した。紛争を止めろという言葉はカットしてしまったのか聞かれなかった。警報の鳴るたびに災害時にかぶる局名入りのヘルメットで地下シェルターに逃げ込んで、うす暗い部屋で声を殺して戦いの現状を伝えるだけなら、たぶん私でもできた。
アメリカのキャスターは駅で腕を撃たれた。それでもしゃべっていた。フィンランド人のフリージャーナリストは最前線の兵士たちに戦いは無意味だと説いていた。
シェルターからのレポートとは伝わり方が違った。アメリカのキャスターは後に腕を失ない、フィンランドのフリージャーナリストは帰らぬ人となった。
ニュースはいつも止む事のない愚かな行為を繰り返して紹介しているだけだと思えるのは、取材する側の愚かさが見えるからだ。
感染症が流行しても、紛争が起こっても、災害で路頭に迷い、事故で肉親を失っても同情を伝えているだけなら映像とノイズだけで充分だ。
本当は井刈さんにそう伝えたい。奥さんが恐くて私の出方を待っているだけなんて、安全地帯から様子を伺う腰抜け取材そのものじゃないか。
溺れている人が目の前にいれば助けるのが人の道だ。だけど溺れる様を報じるのが私たちの仕事だって教わったけど、事は時代に合せて変わるものだ。
今なら溺れる人を積極的に助けるべきだ。その様子は誰かが撮って配信され世界中が知り、人命を優先したアナウンサーを讃えるだろう。
だからただ感染者の人数だけを伝えるだけのアナウンス仕事ではなく、素人には知りえない情報を目と足で取材するように、家庭は大事だし妻は怖いので我が家はそのまま温存しておいて、君は番組で俺をフォローするように欲望のはけ口になって欲しいって正直に言えばいいじゃない。
白ワインはオーストリアの高価な輸入品だけど赤は六本入りのネット販売品で鱈のムニエルは喫茶ネモヒラの賄いだって分かっている私に、いまさら何を隠してどんな自分を見せようとしているのか理解に苦しむ。
さすがに二人前は食べられない。
本当は紗季を呼びたいけど、井刈さんを裏切る訳にはいかない。食べ物を粗末にするとバチが当たるって、大好きだった祖母の言葉を信じて生きているから無理をしてでも食べなきゃ。
悲惨なニュースも、きっと食べ物を粗末にした報いじゃないかと思う時もある。
2時間かけてご馳走様。ワインは喜んで2本頂いた。
四時間後には新橋の局入りだ。
ソファーのレバーを引いて現れたベッドは、使った形跡がなかった。
大きな枕を抱いて仮眠のつもりで横になった。
のどの渇きで一度目が覚めて、水を飲んだ時に出て行けば良かった。
起きた時、ここがどこなのか分からなかった。青いドアを見て飛び上がった。
新橋の局の生放送があと15分で始まる。
ダーシュベーカリーの前に停めてあるバイクで向かうか、タクシーで暴走してもらえば間に合うかもしれない。どうしよう。
マスクを涙袋まで上げ直して考えが変わった。
回れ右して店に入った。
本日のランチブレッドとフルーツティーをテーブルに運んでからスマホを見た。
どこに居るんだ、早く来いというマネージャーとスタッフの受信総数32件。
こんな時、ライ麦パンを千切ると落ち着くものだ。
電源を切った。言い訳が必要だ。合鍵を持っているマネージャーの大沢君がマンションに行って確認しているはずだから大捜索されている。正直に言えるぎりぎりまで説明しても誰も納得しないだろう。
早くもネットニュースのトップ項目になっている。九州で年配の男性と車に乗っていたのを目撃。借金2億円。拉致説まであった。
目線を感じてレジを見たとき撮られた気がした。面白おかしい仮説に交じってパン屋で発見されても、生放送にアナをあけたメイン司会がのんびりランチしているなんて逆に本人だと思えないだろう。
明日のこの時間にカメラに向かって謝って言い訳をする前に、きょうの放送がある。
井刈さんと並んで立ったオープニングで、この人が借りている部屋で寝坊してしまいました。なんて言って震源地になってみたい。
良く噛まないと飲み込めないライ麦パンって、こんな時に最適だ。
「どうしたんですか、大騒ぎですよ」
発見したと報告の連絡を入れようとするトラちゃんの首に抱きついた。驚いてテーブルを蹴り上げて、フルーツティーのカップが落ちて割れた。店の客が一斉に顛末を撮っていた。
「ごめんなさい」
思わず出た言葉だったけど、美声と響きで私だと気が付かれた。
トラちゃんの手を取って店を出た。動画で撮ってる素人もいた。
トラちゃんに手を取られ引きづられるように歩かされた。
「痛いから離して」
「だめっ」
「抱きついたから驚いたでしょ」
「酒臭いっすよ」
トラちゃんの恋愛対象は年上の男性だ。抱きついた時、予想通り嫌がって暴れた。
「ねえ、どうしよう」
「新橋大騒ぎですよ。大沢さんがCM明けに出て、連絡が取れないって謝ってました。出演者みんなに責められて可哀そうに。どうしたんすかまったく」
寝坊だと正直に言えば、ADと同等に成り下がると思った瞬間勝手に言葉が出た。
「ぶっ壊したくなった」
強く握っていた手を離してくれた。
「俺も時々そう思いますよ。だから電話にも出なかったんですね、納得っす。いいっすよ、誰にも連絡してないから行ってください。俺は味方っすから」
トラちゃんの背中、かっけー。
「ねえ、どうすればいい?」
盛りが過ぎた神社の藤棚から紗季に全部告白した。
「寝過ごしただけで大騒動になる存在なんだって気分がいいでしょ。今なら謝れば済むし、新橋の局だって番宣になったって許してくれるだろうよ。どうせ私と居た事にすればいいんだろ。熱があったから検査したら陽性だったって言ってやるよ。陽性反応が出た連絡をうっかり忘れていた事にしよう。だからしばらく姿を消せる」
「助かる」
「患者を救うのが私の役目だからね」
紗季は私が大学を卒業する少し前からの主治医だ。病気が治らないからあなたはアナウンサーになれたんだと診断されている。病名は演技性パーソナリティ障害。
「ねえ紗季、やっぱり病気が原因でこんな事になったのかな」
「そうね、あなたは男の気持ちを食べながら生きている。食べ物を粗末にしたからこうなったのよ」
おばあちゃんみたいなことを医者のくせに言った。
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