テレビに映さない世界で

島国日本をクルーズ船で巡って食文化と触れ合う番組『亜麻の日本列島ぐるっと食べ尽くしグルメ』も二年目を迎えた。

着いた港で地元の方々とふれあい、魚や野菜を発酵させて先祖伝来保存してある名物料理を頂く。ただそれだけの繰り返しだけど、いつも無表情でニュースを伝えているアナウンサーが画面から臭ってきそうな発酵食品をパクパク食べるギャップがウケて高視聴率。だけど私は悩みが増すばかりだ。

新型コロナ感染の後遺症で嗅覚と味覚を失いごまかしながら続けて来たけど、隠し通すのもそろそろ限界だ。

熟成期間さえ分かれば見た目で味覚と食感は想像がつく。臭いの微妙な違いはカメラが回っていない時にADの陽介と味見をして、彼の表情から読み取った。私と同じくなんでもおいしく頂ける口と胃袋を持った二年目の新人は、四大陸十七種類の岩塩を舐め分けた舌と鼻を持っている。

その陽介の目の前で大失敗をしでかした。

「おめでとうございます」

五島列島ロケの最終日に福江島の灯台裏に目隠しをされて連れて行かれた。

スタッフみんなで作ったという手作り誕生日ケーキにろうそくが三本。数字の3と0にしない気遣い。ハッピバースデーを歌ってもらい拍手のタイミングで吹き消した。

一年間一緒にロケをして家族のようだという言葉をよく聞くだろうけど、食をテーマに過ごしているスタッフ6人との絆はもっともっと深い。胃袋が満たされて心も解放されお互いの事を知り過ぎている。

朝の帯番組で共演していた若手アイドルと別れた事も、左足首の小さなタトゥーを消した事も、実の妹さえ知らない私をこのスタッフたちにはしゃべってしまった。

みんなの倍のサイズに切り分けられたケーキにはマイクを模ったプレートが載っていた。三十路になった感想でも聞かれるのかなとおいしく頂いてみんなを見ると、アシスタントプロデユーサーの西沢さん、カメラの福元さん、音声の井上さん、照明の中原さん、勝俣ディレクターにAD陽介、みんなと目が合った。

「お味はいかが」

ロケ中はメークも担当してくれる西沢さんがみんなを代表して尋ねてきた。

「とってもおいしいし、うれしい」

私と同じ兎年でひと回り違いの西沢さんはロケ地で私より若く見られる童顔だ。だけど答えた瞬間、姉の表情になった。

「亜麻さ、おいしいってどういう事、そんな表現したことないでしょ、陽介が発案して井上さんの知り合いの加工場から材料もらって私と勝ちゃんで作ったケーキだよ」

「俺も作った」

「たしかに中原さんも、このマイクを焼いた。みんなで作ったケーキの感想がおいしいだけなの」

「なにがどういう風に旨いのか詳しく言ってみろよ亜麻」

勝俣Dのドスの利いた声で場が息苦しくなった。規則正しく回る灯台の明かりが二回みんなを照らしても、西沢さんだけまだ私を見つめていた。

家族以上のスタッフだから逆に言えない。とぼけるか、どうしよう。

「俺は分かってたよ。レンズ越しだと悩みが見えるんだ。亜麻はね、食べ物を口に入れる直前に少しだけ小鼻が膨らむんだよ。ほんの少しだけ、そのタイミングで微妙にズームアウトしていたんだけど、このロケ当初からそれが無くなった。発酵してるから余計に膨らむはずなのに無反応で表情筋の動きも鈍い。だから斜め上からこうして狙ってるだろ、食べる喜びを撮れないから誤魔化してるんだ。食べるのが辛いんだろう、そうだろ」

「俺は福元ちゃんと違って音で変だと思ってた。辛い時と酸っぱい時と苦い時で噛む音が違ってた。前はね、それが一緒になったんだよ。ご飯を噛んでる時みたいになにを食べてもモゴモゴと音がこもるんだ。亜麻は水だって噛んでたのにな。ケーキがおいしいなんて、そんな言葉初めて聞いたぜ。なあ、そうだろ」

そうだろと振られた陽介が、申し訳なさそうに私を見た。

陽介がゆらゆらと揺れた。灯台の明かりがみんなを順番に照らしてパッと私に向いた時我慢しきれなくなった。

涙は出るけど言葉がなかなか出ない。

「泣くなよ。みんなももういいだろう、本当は嫌なんだよな、番組だから我慢して食ってんだよな、発酵食品なんて腐ったもんよりケーキはうめーよな」

中原さんがいつもライトを拭いているバンダナを渡してくれた。汚れてる、でもうれしい。拭こうとしたら西沢さんがきれいな手ぬぐいを渡してくれた。

みんながみんなをそれとなく気にして一緒に船で島や港を巡った一年。

つき通したと思っていた嘘をみんなはそれぞれなんとなく知っていたんだ。

「陽介食べてみろ」

勝俣Dに命じられて一口食べて、フォークを手にしたまましゃべり出した。

「甘さは皆無です。よくぞケーキに仕上がったなと感動します。ちゃんちゃん焼きに近い風味で生地と混ざり合っているというよりは分離して味を感じます。エビっぽい後味なのはプランクトンの関係でしょうか、亜麻さん、これって井上さんの知り合いの魚の加工場から水イカのはらわたをもらってそば粉と練って椿の酵母で膨らませて作ったんです。おいしいなんて、絶対に亜麻さんなら言いません。だって素材の味が全部ぶっ壊れていますから。そっちの中原さんが作ったマイクは照明の熱で焼いたからすみですから、それだけは褒めてくれると思ってました」

「ごめんなさい皆さん。新型コロナで味が無くなりました。でも言えなくて、怖くて怖くて。本当にごめんなさい。私どうすれば」

「そうやって陽介の感想からヒントをもらってやりくりして一年も誤魔化したつもりだろうけど、わたしゃ腹の中に隠し通してくれたスタッフに頭が下がるよ。みんな亜麻のうそに付き合ってくれてありがとう。で、この事は篠崎Pも編成の笹島さんも吉良アナウンスセンター長も知らない。だからこれからどうするか、みんなの意見を聞きたい。『亜麻の日本列島ぐるっと食べ尽くしグルメ』の継続は決まっている。内容を変える選択肢もある。どう思っているのか自由に好きに正直に言って欲しい。普通は年長者からだけど、ここでは下から。じゃあ陽介」

「俺は今のまま亜麻さんにアドバイスして続けたいです。それだけっす。あと、先月井上さんの酒を飲んじゃったのは俺です、ごめんなさい」

「ごめんじゃなーよ。面倒くせーから金払ったの俺だぞアホ、買って返せ」

「まあまあ中原さん、お金は立て替えますから、井上さんもすみませんでした。じゃあ福元さん」

「俺は今のままだと限界が来ると思う。番組の評判がいいのは小森亜麻アナウンサーの本気度だ。野菜を育てた人や漁師や畜産に関わった人、餌や肥料を作る人まで見えるようにしゃべってくれる。それは正しい味の評価があって初めて成立していた。あの小鼻が膨らんだ時に、なにをしゃべってくれるんだろうってドキドキが無いんだ。陽介のアドバイスを自分の言葉にするのはさすがだけど亜麻がアナウンサーとして他の仕事も辛くならないかなと思ってさ」

「福元さんが亜麻の今後も考えてくれている事は分かりました。で、どうしますか、続けるのか止めるのか」

「やるよ。やれてるんだからやろうよ」

「分りました。じゃあ勝っちゃんは」

「俺って臭いの苦手だから実は編集の時も食レポはスルーで、ほぼまんま放送していたんだけど、そこがウケて続投って、じゃあ俺ってDじゃないのって悩んでしまう訳で、むしろ交代するべきは俺じゃないかって。でも番組は続く限りは続けたい。フリーだから生活もあるし、陽介も一人前にしたいし、俺ってひとりっ子で引きこもり気味だったけどみんなと一緒にこうして旅をしながら、仕事がウッウッ、できるなんて、ウッウエーン」

「分った。勝ちゃんは続投するって意見でいいね。じゃあ中原さん」

「ちょっと西沢ちゃん、はげてても俺の方が年下だよ。入った時は中原さんはもう一人前だったんだから」

「その先輩に向かって酒を盗んだろうって濡れ衣着せて金を巻き上げるんだから、たいした後輩だぜ、井上も偉くなったもんだなまったく」

「すいませんでした」

AD陽介が土下座した。

「陽介ももういいから。井上さんはどう思います」

「俺は福元と違って亜麻ちゃんが食ってるように伝えているんならいいと思うよ。アナウンサーってそういうもんだろ、味覚がないなら陽介に聞けばいいさ、あとは俺たちが上手く撮ればそう見える」

「おれも井上と同じ。うまく影作ってうまそうにしてやるよ」

「じゃあ、五人は全員現状の継続でいいわね」

中原さんが首を傾げた。

「西沢はどう思うんだよ。下から順番なら俺の前だったくせに」

「私は福元さんが言ったように亜麻が心配。今後もグルメ系番組に起用されるだろうし食のプロたちからも注目されている。いつも陽介が居る訳じゃないから。グルメ番組ってタレントの大雑把な誉め言葉に慣れているから味を分析する亜麻が差別化されて番組の続投も決まったしスポンサーになりたい企業も多いんだって。アイドルよりはベテラン俳優の方がおいしい物を食べているから味の表現が適格だって篠崎Pが言ってたけど、医学的には加齢で味覚は鈍感になる。両方の難点をカバーしているのが亜麻だと思う。新型コロナで味が消えたって事は加齢による減退も止まっている状態かもしれない、だから味覚が戻れば最強の舌になる。じゃあ全員一致って事で誓いのケーキを一気しましょう」

「亜麻おめでとう」

一気食いしたケーキを、勝俣Dと井上さんが吐き出した。


篠崎プロデユーサーの大学の同期の計らいで、全国紙の夕刊に週一で『グルメンジェルが行く』という番宣を兼ねた紀行レポートが掲載される事になって、有名な料亭に呼ばれた。

「小森亜麻です」

「小比類巻誠一郎です。今はここの編集局長ですけど」

名刺を受け取り、サラッとする感触で裏を見たら経木に手書きの汚い文字。

顔を近づけたら、二年後には国会議員になっていますと書いてあった。

「なっ、凄いだろう」

何て答えていいのか固まっていたら、篠崎Pの呼びかけに小比類巻さんが感心した目を私に向けた。

「やっぱり分かりましたか、桜だって」

名刺の事か。

「薄くても香りますから」

ほらなこのアナウンサーの嗅覚は特別なんだと篠崎Pの自慢が止まらない。

「失礼します」

入って来た女将の美しさに委縮した。

きれいな人はたくさん見ているけど、仕草のひとつひとつから色香が漂う。テレビじゃ見られない所にまだまだ凄い人が埋もれているんだな。

後ろにやばそうなボディーガード。

「小森さんに是非お会いしたいと申しまして、板前頭の井上を供させました」

「いつも拝見して勉強させていただいています。貝をお出しする際は仲居たちが小森さん方式でキモをこうくるりとやっております。ありがたい技です」

「私も隠岐の島ロケで地元の海女さんに聞いたんです。でも番組を見ていただいてありがとうございます」

「もし、出来ればでいいんですか、ちょっと試作を召し上がってご意見をいただければと、そう思って女将に無理を言って参じました」

まずい展開だ。でも篠崎さんが居るから上手に断ってくれるはずだ。この手には落とし穴がある。東光放送の小森亜麻からお墨付きをもらった料理だと仲居たちが客に説明するステルスマーケティングに発展しかねない。ねっ篠崎さん。

「そりゃいい。なんたって業界一の舌だ。女将の舌と一緒だ」

「それもタンと記事にしようかな」

なんだ、このオヤジたち。こんな奴が二年後に国政なんて間違っている。

「こちら様のように格式の高いお料理の味見なんてめっそうもない。私の舌は発酵食品用ですから」

あらまあと愛想笑いをしながら女将が襖を開けると、仲居が赤い膳を運んで来た。

白足袋の足の運びが映画のようだ。

店の名前が入った掛紙がさわさわと揺れていた。

「正直に言ってくださいね」

板前頭がひざのままにじり寄って掛紙を外した。

わっと湯気。

紅白の練り物が澄んだ汁に沈んでいる。赤い方は球体で白い方はサイコロ。味の違いを形にしてるのか、味が同じだから形を変えているのか。味が違うなら同じ汁には入れないはずだけど汁が白湯なら別だ。料亭で白湯の椀を出すだろうか。板前頭の体格から濃い味好みだろう。錯綜する推理で言葉が出ない。

「さすがです」

「まさに」

小比類巻さんが板前頭に同意を求めると唸るように返事をした。

なにが私がさすがなんだ。あせるな、そうだゆっくり数を数えろ。1、2、3。

「そうやってまずは目で味わう小森さんと違って、私なんてすぐに食べちゃったから どっちが鶏でどっちが魚なのか、この井上に聞かれても分からなかったわ」

そうか、鳥と魚ならコンソメに違いない。

両手で椀を包み込んで吹かずにスープを頂いた。四角い練り物を二口で食べてスープ。丸い方は一口で食べた。

動きをずっと見られていた。女将だけは私が椀を置いたタイミングで篠崎Pにお酌を始めた。

いつまでも噛んでるふりをして、誰かのヒントを待った。

「やっぱり残りますか皮が」

「いいえ、お魚の方は擦り過ぎているかもしれません。身は多少荒い程度に押さえた方が食通の皆さんには季節も分かって楽しめるかと思います」

気が付かなかったけど、仲居さんがメモを取っていた。

「鳥の方はどうでしょう」

「これを東京で食べられるなんて驚きました」

「今朝熊本から航空便で」

なるほど。ダメ押しをしておくか。

「つなぎの卵白も天草大王にこだわる必要はないと思います。それよりスープです。お出汁をとった野菜は廃棄せず他のお料理に利用されているんですか」

「目いっぱいエキスを出まていますから賄いにもなりません」

野菜は何だろう、もう少しヒントが欲しい。

「これで通すつもりですか」

「いや、今はカブですけど次はレンコンと、旬にこだわろうと思っています」

「レンコンだったら薄切りを下皿代わりに欲しいですね。椀と接してる練り物の下と上で噛み応えが違っていました。お出汁の味は申し分ないです。特に最初の湯気のインパクトは和食の醍醐味です」

「頭、そのへんで、あとは来週のお楽しみってとこで」

「ご教授料をお支払いしたいですわ」

「じゃあ、これをあと二本」

篠崎Pが女将に言うと目くばせされた仲居が部屋を出て行った。

「いやあ驚きました。料理で板場まで見えるなんて小森さんには脱帽です」

板前頭が真っ白い頭を下げた時にスマホが鳴った。

絶妙のタイミングでAPの西沢さんから連絡が入った。約束通り篠崎Pのスマホに。

「亜麻、西沢がナレーションの直しがあるから至急戻れって。悪いな食べたかっただろう」

「仕事優先です。だから行かなくてもいいですか」

「食べる方が仕事ですもんね小森さんは。私も二年後は国の事ばかり考えるようになっているんだろうな」

小比類巻さんもこれでなんの疑いも持たないだろう。

料亭を出ると西沢Pが待っていた。

ちょっと付き合えとタクシーに乗せられ、浦安のテーマパークに向かった。

華やかな音が漏れる外周を通って、小型ヘリコプター2機だけの小さな会社に着いた。都会の夜を45分間ロマンチックに楽しんでホテルまで送ってくれるコースで一人七万円。女同志なら二割引きだと西沢さんが教えてくれた。

テイクオフしてすぐに、少しだけあごが出た横顔が私のタイプのパイロットが瓶入り発泡酒を渡してくれた。

栓を開けたら溢れた泡が青かった。もちろん飲んでも味を感じない。

夜の大都会はきらびやかで美しいと、今まで原稿を読んでいたけど違うような気がした。

ヘリから降りた時ふわふわした感覚があった。海なら嵐でも平気なのに。

「西沢さん、私酔ったかもしれない」

「ヘリに、あの酒に、分かった、パイロットでしょ」

スィートルームだと説明されていた中途半端に広いだけの部屋に入って、私はいつものようにカメラやマイクが仕込まれていないかチェックをした。その間西沢さんがルームサービスを頼んだ。

「ドレッシングは別料金だってさ。スィートなのにね。亜麻、具合は治ったの」

「ふわふわした感じは無くなりました。今は眠いわ」

「効いているのね、じゃあ黙ってそこに座って」

イスに座ると目隠しをされた。

「やだ、なに」

「いいから両手を後ろに」

バスローブのヒモで後ろ手に縛られた。何が始まるのか、眠気が飛んだ。

ルームサービスが来たのは音で分かった。サービスワゴンが大きく跳ねた音がしたのは、サラダだけを凝視しようと頑張ったウェイターが私の脱いだヒールにつまずいたそうだ。

「でも西沢さんって女王様には見えないでしょ」

「おだまり、言う通りにおし。じゃあ口を開けて。はい、あーんして」

キュウリだ。青い味が鼻に抜けた。一年ぶりの懐かしい味。

嚙むたびに喜びが沸いてイスごと跳ねた。

分かる。ついに戻った。

「ドレッシングはたまねぎベースでビネガーに白ごま、オリーブオイルはシチリア産で塩味は麹なのね、深みが残るわ」

「正解。じゃあ次。あーんして」

ヤングコーン。

「ブルーチーズに溜り醤油とゴマ油、はちみつじゃないわね、メープルね。ゆずも入れているけどチーズに負けて香りが死んでるわ」

「正解。これってホテル自慢の特性らしいわよ、じゃあラスト、あーんして」

トマトにフレッシュバジル。

「あとはただの卓上塩でしょ」

目隠しを外されて抱き合った。味覚も嗅覚もある。むしろ発病前より鋭敏になっている気さえする。

テレビの世界は様々な専門家と出会う。放送できない領域をフィールドにしている皆さんと知り合う事も多々ある。法に触れる研究をしている方とか、常人の考察を超越した趣味を持つ方とか、悪影響や後遺症お構いなしに行動する方などだ。

照明の中原さんがアンデス取材で意気投合した通訳のペルー人から紹介されたのがヘリコプターのパイロットだった。彼は浦賀水道に入る直前のコンテナ船に潜んでいる密航者を上陸させる本業の隠れ蓑としてナイトクルージングをやっていた。先月上陸させたラオスの闇医者が処方した薬草で音声の井上さんが四十年間悩まされていた蓄膿症が嘘のように治ったという話を西沢さんにしたところ、耳鼻咽喉医学特別研究所にその粉末の分析を依頼した。葉緑素を持たない植物由来の物質が蓄膿症の原因菌を経口薬の六万倍というスピードで分解する事が分かった。気象予報士の資格を持つ西沢さんのアイデアで気圧の低い上空で炭酸水で飲めば吸収力が増すだろうと、ヘリで飲まされた。

その結果、わずか2時間で私の嗅覚は甦った。

驚くべきはその二日後。お昼のニュースを担当した日だった。

佐川隆之介アナと交互に原稿を読む予定だったけど、放送直前アメリカから三十年ぶりの円安ドル高水準の一報が入り、頭からニューヨークの中継を入れた。カットする項目や変更などバタバタして下読みをしなかった原稿を読む羽目になった。

途中で血の気が引いた。

「昨夜千葉県浦安沖の東京湾にナイトクルージング中のヘリコプターが墜落しました。メインローターの折れ曲がった機体からパイロットの石渡一生さんほか外国人とみられる男女十四名が見つかり全員死亡が確認されました。墜落の原因は現在調査中ですが、ヘリコプターの定員は五人で、夕方離陸した時は石渡さん一人だったと会社側が話しており、大掛かりな密航組織の存在を視野に海上保安庁も捜査に乗り出しています」

途中で画面に映った石渡一生さんという犠牲者の写真は先日のイケメンパイロットだった。

スタジオから報道局に直行して担当記者に事故の様子を詳しく聞くと、亡くなった14名は東南アジア系で全員粉が入った小袋を体に巻き付けていて、墜落した衝撃で袋が破れて海水を含んで機内いっぱいに膨らんで脱出できなかったそうだ。

全国紙の夕刊でもグルメンジェルが行くと同じ紙面に事故の記事は載った。

テレビも新聞も犯罪を前提に報じた。その粉が私が服用した物と同じだったら、新型コロナ後遺症に苦しむみんなの力になれたのに。密航しなければならない国に生まれたばかりに命を落とした14人と、人として手助けをしたパイロットの石渡さんに対して悼む言葉は微塵もなかった。

なにが正しいのかどう生きれば幸せなのか、小森亜麻はアナウンサーとしてまだ嗅ぎ分けられない。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る