欲しがり過ぎた女王さま
「現場を見ろという伝える側の基本さえ死語になるなんて、終わりだわ」
私のママもテレビで見ていた吉良美和子キャスターが、やっとレギュラー番組が決まった私相手に愚痴を言うなんて。
「紛争も災害も現場から伝えるよりネットなら24時間ライブだもん、かなわないわよ。ほんと、信念が揺らぐわ」
まるで私が原因のように言ってくる。
すみませんと小さく言ったら、あんたなんかのせいじゃないと油を注いでしまった。
最新の情報をテレビが独占していた時代からの美人キャスターは、個人や無人で撮影した映像が誰の許可もなく世界の隅々まで届く情報社会がとにかくお気に召さない。
シワを隠せるメイクや皮膚の張りを取り戻す注射といった身のまわりの変化スピードには衰え知らずの反射神経で受け止めるくせに。
それにしてもこんなに高級な中華のお店に誘うなんて、魂胆はなんだ。
いろいろ注文してくれたけど、苦手なんです八角の香り。なんて、絶対に言えない。
「あなた安上がりね、さっきからクラゲばかり食べて」
「これってクラゲなんですか」
「あら知らないの」
嬉しそうだ。もう少し頑張っちゃお。
「こんにゃくじゃないんだ。これって水族館にいるあれですか」
「そうよ海でぷかぷかしているあれよ。特にメキシコ産が高級なの。歯ごたえが良くてコラーゲンも豊富でね。思い出すわアカプルコ」
出た、海外取材自慢。そんな時は機嫌がいい時だって先輩たちも言っていたから、笑顔、笑顔。ん、どうしたんだ、嫌な事でも思い出したのか、尋ねるべきか、どうしよう、とりあえず笑顔だ。
「なに笑ってるのよ」
面倒だな、ったく。
「これって女性アナウンサーみたいだなって。番組では目立たないように存在感を消して、流れでいじられても返しが淡泊で噛み応えはみんな一緒だし」
「なにそれ、クラゲに身を置いてシャレたつもりだろうけど、歯ごたえじゃなくて手応えの事を言いたいのね」
まさに。あっ、しまった。思わず角煮に箸をつけちゃった。最悪だ。
「あらよかった。肉アレルギーなのかと思ってたわ」
無理、飲み込めない。よし、紹興酒で。
さすが高級店。深みのある年代物だ。やっぱり熟成は樽より甕。中華はワインよりこっちね。
だめだ、角煮がまだ半分残ってる。噛むのもつらい。
失礼して、手酌しちゃお。
「ちょっと、注いであげるわよお行儀悪いわね、寄こしなさい」
彫刻が施してある真っ白なポットに地味だけど高価そうなネイルチップの指が伸びてきた。中指だけ少し長いのは原稿をめくって出来たタコを隠すためだ。
「ここに小舟が彫ってあるでしょ、乗っているのは二人だけなのに変だと思わない、微妙な距離で互いに違う方を向いて座っているでしょ、これには意味があるのよ」
さすがにしゃべりのプロ中のプロだ。問わずにはいられないように語り掛けてくる。
「連想ですね、きっと二人は見えない下の方で手をつないでいますよ、こんな感じで、そういう体のひねりです」
「おじいさん同士よ」
「だから見られたくないんですよ、こんな髪型の時代ですよ。舟なら村人の目を気にせずに二人きりになれる。朝もやの中で、ああ、分かりました。五里霧中ですね。手をつないで次はチュー」
「番組じゃないから頑張らなくてもいいわよ。紹興酒の故郷が越の都だったから呉越同舟なんだけど、そんなのどうだっていいか。だったら聞くけど、今だったら男同士でも堂々と愛し合っても周りは認めてくれるの、そんな時代なの」
「だと思います。だれを好きになろうと自由じゃないですか。カミングアウトしちゃえばいいんですよ」
「本当にそう思うの」
「はい」
「つまり、常識や慣習や社会通念に惑わされずに素直な気持ちが優先される。なにより個人が尊重される。それで間違いない、あなたの意見としては」
「はい。そう思います」
あちゃーどうしたんだろう。潤んでるぞ。酔ったおじさんが誘ってくる時みたいだ。
ん?この目、見覚えがあるぞ。そうだ、ヘアメークの紗季さんと同じだ。私の髪を持ち上げてわざわざ耳元で話してくる、鏡に映ったあの目だ。噂じゃなくて本当だったんだ。だめっ私を口説こうなんて、アナウンサーとして尊敬してます、だから求めないで下さい、女同士なんて無理です、ごめんなさい。
「じゃあ言うけど」
見つめられたままだった目を逸らした。小舟の老人たちそっくりの体勢になった。
「好きになっちゃったの、ごめんなさいね」
やっぱり。
落ちつけ落ちつけ、初めてじゃないから大丈夫だぞ。高三の時だって後輩に付きまとわれて誕生日にキスをねだられたじゃないか。駅地下のハンバーグ屋のおねえさんに告白された事だってあるだろう。愛は自由だ、落ち着け私。
一辺倒な男たちと違って女性の愛の表現はそれぞれだ。上司以上で恋人未満な関係でいいなら、時間を掛けて受け止められるかも、うーん。
「驚かせちゃったわね。本当にごめんなさい。でも勘がいいあなたの事だから気が付いていたんじゃないの」
そんな素振りなかったじゃないか。そんな事より女同士が愛するのは自由だとしても、不倫関係にならないか、不倫はアナウンサー生命の危機だぞ。
「ご主人がいらっしゃるじゃないですか」
「ああサシャ、彼とはもう終わってる。でも好きになっちゃったの。若かったら待てるんだけど私には今しかない。お願い、譲ってくれる」
「えっ、譲る」
「正直に生きたいの。アナウンサーを辞めてもいいわ。あなたはこれからの人だからできる限りサポートしてあげる。だからお願い。譲って」
そういう事か。
「優斗とはいつからですか」
「一週間後に返事って約束で今日返事をもらって。あなたがいるからって」
あいつ、一週間前は編集で徹夜だって、ちくしょう。そういえば徹夜でも眠そうじゃなかったし、このところやたらにお土産を買ってくるようになった。くそっ勘違いしちゃった自分にも腹がたつ。
「どうぞ」
「えっ」
「だからどうぞ」
「それだけ」
「それだけってなんですか」
「条件とかないの。番組やりたいとか、経済的援助とか、もう少し待ってとか」
黙り込んだ私に、条件を次から次へ提示してきた。
でも、もういいの。好きになるのは自由だし、優斗だって私だけのモノじゃないって何度思った事か。踏ん切りつけるタイミングかも。
「また結婚する気ですか」
「ずいぶんな言い方ね。でも日本人は初めてよ」
アメリカ人を挟んでフランス人と二回、合計三回の離婚歴。全員ジャーナリストで全員年下。優斗なら二十近く違う。
小舟の老人がベテランアナウンサーと若いディレクターになってゆらゆらと。
少し傷心。だって吉良美和子アナウンサーは、自立した憧れの将来像に見えていたから。よりによって私のを欲しがるなんて。
たぶん二カ月前のあの日だろう。
一緒に居ればすぐに迫ってきた優斗が、帰って来てすぐに食事に誘ってきた。しかも
予約もしていないという。私はノーメークでも目立つ方なので、腰にタオルを巻いたり暑苦しいヴィッグが面倒で出来れば行きたくなかった。
大衆居酒屋のカウンター席なら回転すし屋のテーブルの方がまだ良かったのに、向かい合って座ると気まずかったのだろう。言いたい事を結局言えずにやたらにしゃべるあの日のあの違和感。シャツのボタンを上までしていたのも首の跡を隠すためだったんだ。
「じゃあ、いいのね」
そう言いながらテーブルのボタンを淫靡なネイルで押した。
画面から何十年も真っ当な事をしゃべり続けた同じ口が、部下のアナウンサーと同棲している男を下取りする提案をしているなんて。
部屋に来た支配人に渡したカードは傷だらけだった。大切なものだけど自分の物は自由に扱うベテラン女性アナウンサーの一環がうかがえた。
いきなり実家に帰っても、父はいつものようにビールと私の好きなホルモン刺を出してくれた。なにも尋ねず、まあ飲めとコップに注いでくれた。
出かかった涙を一気飲みでごまかした。
「泊まって行こうかな」
私の部屋はそのまま残っている。番組で共演しているアイドルの卓上カレンダーも三年前のままで、サボテンの寄せ植えも手入れをしてくれていた。
電車で四十五分の実家からしばらく通った。
優斗が代理母問題の取材でアフリカに行ったタイミングでマンションへ戻った。
私の靴だけになった寂しい玄関。折半したオーブンレンジの中に、ごめんねとメモ。なんのつもりだ。
今度の土曜に帰って来る優斗と局で顔を合わせる事を思うと気が重くなった。あの日からアナウンスセンターに行く時は誰が居るのか、いや、吉良さんが居ないのを確認してから行くようになった。
賞味期限切れの食材を処分して、カップや茶わんやお箸とかペアの大きい方を全部捨てた。置いていった本やがらくたを段ボールにまとめた。
変わらなきゃ、もっと自由に生きるんだと自分に思い込ませながら掃除を続けた。
クィーンサイズのベッドカバーを乱暴に剥がして、名案が浮かんだ。
考えただけで気分が晴れた。
そうだ、私ってそういう人間だ。やってやろうじゃないか。アナウンサーは職業用でもっと自由に生きればいいんだ。
丸めたベッドカバーを思い切り床にたたきつけた。
「前は何色だったの」
どこで買って来たのか茶系の革製ベッドカバーを掛けながら紗季さんが聞いてきた。
「いろいろ」
男が替わる度に変えていた。ピンク、グリーン、ペールオレンジ、滲みもたくさんあった。
見慣れている鏡の中の紗季さんと左右逆に見えるだけで、やさしい雰囲気に思えた。
ベッドカバーのしわを私も掌で整えてから並んで寝た。
一緒に暮らしませんかと誘ったのが一昨日。
いつも運んでくるメイク道具が入ったスーツケースとボストンバックだけで来たので、暮らすというより数日間の様子見だったと思う。
「あなたのような美しい方とは初めてよ」
「隠さなくてもいいですよ。まだ続いているんですよね」
「なんだ、知ってたんだ。だったらかなりまずいでしょ、お互いに」
「でも私、紗季さんのこと」
身体の向きを変えて肩に額を当てた。長い前髪で顔が隠れた。
これで落ちなかった男は一人もいない私のキラーコンテンツ。
そのまま始まっちゃうのが男どものパターンだけど、まずはみんなキスしてくる。
ほーらやっぱり。女だって一緒だ。
「長いんですよね、吉良さんと」
「うん。専門学校を出てアシスタントだった時から。今のメイク室あるでしょ、あそこがもっと奥まであったの。トイレに行く廊下に鏡があるのはその名残り、私もまだ二十歳そこそこだった。あっちは大スター。女性で初めて夕方ニュースのメインキャスターになって新聞や雑誌の取材も多くて、専属メークでいろいろ同行したわ。ちょうどロバートさんと二度目の結婚をした頃だったから、家に行くと私が居てもお構いなしにいちゃいちゃしてた」
「へえ、あの吉良さんが。想像つかないな」
「うん、密着ドキュメントで自宅におじゃまして、取材クルーが帰って私だけ残ったの。そういういちゃいちゃはアメリカ人は普通かもしれないけど長崎で育った私はHな本でちょっとしか知らなかったから心臓がバクバクしちゃって」
「それってはじめちゃったんですか、きついですね、どうしたんですか」
「おいでって言われた。ミワに」
あの吉良美和子をミワと呼ぶひと回り年下の女性のさらにひと回り下の私が、家に来ませんかと誘った巡り合わせ。運命ってこういう事だ。
「二人は裸で私は服を着たまま。その私に何かするのはミワだけで、ロバートさんは見てるだけっていうか、とにかくロバートは私には触れなかった。でも私はそういう経験がなくて」
「普通ないですよ」
「三人でとかじゃなくて、私は経験がなかったから、ただただ人形のようにミワにされるままにいろいろと。正直にいうけど、実は未だに男性はなくて。ごめん、そんな事どうだっていいわね」
「吉良さんってロバートさんと別れてまた結婚しましたよね」
「ミワは一人の男とたくさんの女を愛したいんだって。だから何度も結婚するんだって。でもサシャさんとはそういう事はしなかったわ。お宅にも呼ばれなくなったの。局の宿あるでしょ、アナウンサーが使うあのホテル、メークが呼ばれるのって不自然じゃないでしょ。ミワとはもっぱらあそこで」
「やだ、あのバスタブが大きいあの部屋でですか、もう、紗季さんったら」
事件事故の緊急取材や終わりの見えない収録の日、アナウンサーのために常にキープしているビジネスホテルを使っていたなんて。特別な人だけが持てるカードを持っているくせに、仕事の延長のように便利に呼びつけていたんだ。
紗季さんは横でずっと私の手をさすっている。こうしているんだろうかホテルでも。
心を見透かされているようで怖かった。
くじけるな、計画を貫け、弱気になる自分を励ました。
手を振り払った。
「何が好きですか、私作ります」
ベッドから起き上がった。
「うれしい。ワイン買って来たわよ」
鶏肉を解凍してガーリックと玉ねぎと炒めてからトマトと適当なスパイスを混ぜ込んで煮込んだ。
ぐつぐつと赤く沸く鍋で半身の鶏が踊っていた。
紗季さんと暮らして二カ月が経った。
メークの器用な手先は料理上手で、使っていなかった貰い物の食器に合った料理をいろいろと作ってくれた。中でも温かい五島うどんはアゴ出汁の絶品。何度もリクエストした。
革製のベッドカバーは二つの人型にへこんだだけで滲みはない。持って来たボストンバッグ以上に私物も増えず、朝シャワーの後で朝食がっつり系とか生活リズムも分かってきた。
メーク道具の中に、吉良さん専用のルージュが四本あった。微妙に濃さが違う同系色の中に、ラメが密集して熱帯の甲虫のような一本。これだけリップブラシの跡がないから直塗りしている私用に違いない。
となりで寝ている紗季さんの首や胸に、このラメが光っている朝が二度あった。
アナウンスセンターの出勤簿と照らし合わせて吉良さんの行動パターンは分かっている。優斗の方も番組スタッフに聞いてある。
読み通り二人が休みを合わせた日の前日に、紗季さんのキャリーケースからラメ入りルージュを抜き取った。
洗面所でゴム手袋をして、鏡の裏に隠していた銀紙に包んだシャーレの蓋を取った。寒天にいくつもの赤い点。その上で口紅容器を一回転させた。
私が朝食の担当だったけど、起きて来た紗季さんをオープンしたばかりのパンケーキの店に誘った。
お皿のソースまできれいに食べた紗季さんに言った。
「私、好きな人が出来ちゃった。彼氏」
「やったじゃん。嬉しい」
私を見ないで紅茶を飲んだ。
「だから一緒に暮らすのはもう無理です」
「どうして、彼が来る時は出ていくよ。ミワみたいな事はしないから」
「そうじゃないの、もう好きじゃないから出て行って欲しいの」
ほんの数時間前まで手をつないで寝ていたのに。
あなたに好きな人が出来たら私は親友って事で紹介してね。そう約束していたのに。
泣き言を、生い立ちを絡めてしゃべり疲れるまで聞かされた。
ベッドカバーをはがそうとしたら、いらないと言われた。
来た時と同じキャリーケースにボストンバックを載せて出て行った。
それから一週間で成果があがった。
番組スタッフの宇田川ちゃんが、内緒ですよと優斗が入院した事を教えてくれた。
お腹が痛いからと打ち合わせ終わりで病院に行ったらそのまま入院させられて今は面会謝絶。どうやら病名は伏せられているのだろう。入院先の総合病院には性病科もしっかりあるから安心だ。女性は発見しにくいけど男性の場合は症状が目に見える。トイレで驚いた事だろう。焦った時の優斗の慌てぶりが目に浮かぶ。ざまーみろ。
絶対に私とは結びつかないだろう。あの菌だって常温48時間で死滅する。
紗季さんが私についた嘘はひとつだけだ。私には分かっていた。ロバートさんで目覚めて以来サシャさんとも、その後何人かの男性も含めて吉良さんの欲望は三人でなければ満たされない事を。
時代に合せたアクセントで原稿を読む半人前の後輩アナウンサーの男をモノにするのなんて知的な美魔女にとって朝飯前だったろう。
私が理系出身でSTI研究所に出入りしている事を優斗に聞いていれば、こんな事にならなくても済んだのに。
「ラメ入りルージュを触った指がまん延させたのよ。吉良さん」
今日も紗季さんのヘアメークでばっちり決めた画面に教えてやった。
あらっ珍しく噛んだわ。
アップになると目立って来たわね、唇の端のポツポツ。明日からはしばらく沢井アナにでも代わるのかしら。そしてそのまま画面から消えてしまったりして。
とりあえずいつものように紗季さんを呼んで、三人で仲良く入院治療してね。
「さて、仕事に行くか」
私はひとつの番組をやり切った充実感に満たされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます