雀に鷹と書いて

「管楽器に似た高音の澄んだ声がする雑木林に近づくと、あっ、居ました。右の杉の枝。美しいお腹の模様とこの眼光は、鷹。でも丸い体は鳩にも見えるこの鳥は、ジャクヨウ」

「はい、カット」

デスクの赤ライトが点いて、ヘッドフォンからディレクターの声がした。

「弓香ちゃん、その鳥ね、ジャクヨウじゃなくてツミ。タチツテトのツにマミムメモのミでツミ」

「雀に鷹で。これでツミって読むんですか」

「うん、ちっちゃいけど猛禽類。メスは獰猛でカラスを襲うんだぜ」

かわいい顔しているのに恐いですねと返そうとして、言葉を飲んだ。

愛鳥週間に放送する歩いて五分の野鳥観察シリーズのナレーション原稿にルビがふっていなかった。初めから『ツミ』とカタカナにしておけばいいのだけど、アナウンサーは漢字のイメージで声を出している。

雀のように愛らしいけど本性は鷹。私みたいな鳥だ。

一番遠い記憶は中学のクラス担任。

「水沼、男子生徒を手玉に取るんじゃないよ」

「そんな。好きになられて逆に迷惑です。沢木さんですよね、先生にそんな事言ったの」

「とにかく男どもに色目を使うな。そういう時期だ」

「普通にしているだけです。私だって同じ中学生です」

「そう、中学生はまだ大人じゃないんだ。そう思って行動しろ」

バスケ部のキャプテンで成績優秀だった長沼翔吾が、全国優勝最右翼だったのに区予選でミスを連発して敗戦。志望する高校のスポーツ推薦枠からも漏れた。担任が原因を聞くと、私への恋心。勝手に好きになられて、おまけにクラス最大派閥のリーダー沢木亜音がお気に入りだったから風当たりがハンパなかった。

「優勝したらなんでもして、あ、げ、る」

区予選前に体育館の裏で翔吾の汗ばむ手を指で撫でながらそう言った。

優勝なんてどうでもよかった。長沼翔吾もタイプじゃないし。女子の連中が学校で一番かっこいいって騒いでいるから、そいつを私に夢中にさせたかっただけだ。

本当に優勝したらどうしたのかって?もちろん約束は守ったわ。

女王様気取りでリーダー風を吹かせている沢木亜音が彼を振り向かせようと必死だったからぎゃぶんと言わせたかっただけ。お陰で卒業まで憎しみと嫉妬の目を向けられて、コートを斬られたりトイレで水をかけられたりしたけど平気だった。

思春期の男子だから頭の中が妄想で一杯になったんだと思っていたけど、男の人っていくつになっても長沼翔吾と一緒。

だからあれから何人も。

高校生の時にはピアノの先生とダンス部のコーチ、大学ではゼミの助手と先輩、不動産会社の営業マンと同じ会社の係長は同時に落としたっけ。敷金も礼金も助かった。

この局に入る時だって、映画を撮っていた局員監督が勝手に私の後見人を買って出て

二次面接までパスできた。今はフリーになってCMなんかも撮っている有名人だけど、あの時は私に夢中になって撮影をドタキャンしたりして大問題になっていたっけ。笑っちゃう。

今だってこの狭いナレーションブースから交信しただけのおじさんディレクターをその気にさせるのは簡単だ。

休憩中、長椅子に並んで座った時に少しだけ腰を寄せた。それだけで声の調子がはずんでいた。

野鳥観察シリーズの放送が終わったら、しゃぶしゃぶ屋で打ち上げをしようと約束したてくれた。きっとその日はスタッフみんなでしゃぶしゃぶを食べて、次はカラオケで騒いで解散。ディレクターの行きつけのバーとかに連れて行かれて、帰りのタクシーで口説いてくる。台本はそんなパターンだろう。

二人きりになるとやたらに酒を勧めるのも、おじさんの手だ。

残念ながらか弱く見えても私は酒豪だ。ワインなら二本、日本酒なら一升飲んでも原稿を読める。

だからスキャンダルバージンの珍種アナウンサーと呼ばれた。女性アナウンサーの中で何度狙われても何も出なかったのは私だけだろう。

大学の謝恩会で酔った社会心理学教授から、君はどんな男でも三分で繁殖期のオスにしてしまうオーラを発しているから仕事にだけ活かしなさいと、ありがたくも余計なお世話で迷惑なお言葉を頂いた。見抜かれていた期待を裏切らないようにアナウンサーになった日からガードをさらに固くした。

軽く見られている職種なんだと知った。だって番組で共演する男たちから、かなりの率でアプローチされた。

帯番組の大物司会者は打ち合わせにかこつけて毎日迫ってきた。ノリが悪いアシスタントだと降ろされた。人気俳優はマネージャーも私に夢中になって仕事が激減した。宇宙旅行に誘ってきた青年実業家は株主総会で追及された。遊んでいそうに見えて口は堅そうだからと不倫を前提に毎月のお手当を提示してきた政治家もいた。

とにかく私は、同期や先輩のように自滅したくなかった。

ゴールデンのレギュラー番組を任されて局を代表する華だった同期の倉吉メグは、お

笑い芸人と同棲している事が写真週刊誌に掲載されても人気は落ちなかった。芸能人寄りのアナウンサーとして出役たちからも人気があって、メグの番組ならとテレビ嫌いのベテラン俳優もゲストで呼ばれた事があった。そのベテラン俳優と一夜を明かしたのが報じられた。人気者一転、調子に乗るなとバッシングの嵐で同棲も解消。売れていないお笑い芸人に捨てられた印象がついて局を去った。

先輩の澤瀉早弓アナウンサーは熱愛五年で在版球団のエースと結婚した。開幕投手に指名された日に割れたグラスで指を切り登録抹消。ひじにも故障が見つかりシーズンを棒に振った。翌年復帰したものの、結局結婚後一度もマウンドに立たずに引退した。嫁はんもらったらこの始末やとファンの怒りの矛先が先輩に向いた。全国ネットで司会をすれば関西地区の数字が常に首都圏の半分以下。先輩はローカルニュースだけがレギュラーになった。ご主人も投手コーチをワンシーズンだけで解任された。

その澤潟先輩の紹介だった。

あの時私は、人生最悪のショックから立ち直れずに塞ぎこんでいた。

「今からちょっと付き合ってよ」

ご主人のチームが遠征してきたけど台風で試合が中止になったから若手選手たちと食事をするという。

嫌だなと思ったけど断り切れなかった。スタイリストがロッカーに置き忘れたままの特番用の胸が少し開いたタイトなワンピースに着替えて向かった。

選手たちじゃなかった。ご主人の横に小柄な青年がひとりだけ。薄手の黒のトレーナーにジーンズ。お尻が小さな野球選手もいるんだ。そんな印象だった。

私のファンだと言って下を向いて照れた様子で、まんざら嘘じゃないと分かった。

人参、パプリカ、イチゴまで赤色食品を食べられない偏食だけあって栄養にやたらに詳しくて食いしん坊な私と話が弾んだ。

先輩夫婦には楽しさが伝わらない会話だったのか、気を回したのか、私たちを残して先に帰ってしまった。

誘われるタイミングかなと気になったけど、私が五歳も年上のせいなのかそんな空気にならなかった。お互いにプライベートに踏み込んだ質問はまったくせずに、野球選手とアナウンサーのあるあるをネタに閉店まで楽しく過ごした。

翌日先輩からしつこくその後どうしたか取り調べられたけど、期待されている報告はできなかった。だってなにもなかったから。

それからちょくちょくスポーツニュースで彼の活躍を見るようになり、夏の終わりに首位打者になっていた。

《今月最後の週末は横浜遠征なので三連戦最終日の夜は空けておいてください》

唐突な連絡が入ったのは七夕の日だった。夜って、朝までって事ならまたこの人も勘違いさせてしまった。一回ご飯を食べただけなのに積極打法なんだな首位打者は。

先輩に相談するべきか迷ったけど、どっちにしても私は落ちないから内緒にした。だって先輩のご主人は二軍暮らしでチームに帯同していなかったし。

連続試合安打の記録を延ばして首位打者をキープ。三連戦最後のゲームはサヨナラホームランでチームを首位に導いた。そんな夜に、私に会いに来るのだろうか。

指定された店でシャンパンから飲み始めて水割りも三回お代わりをした。これだけ飲めば隣のテーブルの客も、まさか本人だとは思わず水沼弓香アナ似の女だと思ってくれるだろう。

「お待たせしちゃってごめんなさい」

疲れも熱気も持たずに流行りのTシャツで弾むように現れた。

「予約してあるんで行きましょう」

席を立とうとした時、隣のテーブルでスマホが私を追った。

まずい。

「一杯だけ付き合ってください」

座って水を飲んでくれた。この店から近いマンションに住んでいる同期入社でスポーツ局にいる中満ディレクターに連絡を入れた。すぐに行くねと返事がきて五分。

首位打者が居るので驚いていたけど、すぐに打ち解けて三人でしゃべり出すと、隣のテーブルのスマホの動きが止まった。

予約してくれていた美味しい鉄板焼きの店に移動した。

彼、中満、私という並びのカウンター。このスタイルがそれからもずっと続いた。

公園でも、映画館でも、レストランの個室でも、ずっとだ。

中満亜美には申し訳ない事をしたと思っている。国体準優勝の実績でソフトボールの全日本チームにも入っていた中満はベリーショートでいかり肩、申し訳ないけど利用させてもらった。デートを重ねるごとに彼女の存在が空気のようになった。両側から愛を語られるのだから挟まれて修行に等しかっただろう。彼が両親にあいさつに来た時も島根の空港まで同乗してくれた。

お陰で噂にものぼらなかった。スポーツ紙にも局の誰にもバレなかった。

首位打者で盗塁王でシーズン最多安打記録に十六連続打席安打と最高出塁率やら打撃部門の勲章だらけのシーズンオフに、カメラの前に中満亜美抜きで二人で並んで座った。

すでに離婚していた葛西早弓先輩こと澤瀉投手元夫人の紹介だった事には触れず、なれそめから相手の魅力や将来の夢までたっぷりのろけた。

スポーツ各紙に活躍の原動力が私だと称える記事が並んだ。交際中のツーショットは新聞各社に公平に配った数枚が掲載された。全部中満が撮ってくれたものだ。

案の定、週刊誌のスクープ探しが始まった。

滞在ホテル周辺のすし屋、焼き肉店、クラブ、どこに行っても二人だけでの来店情報はなし。ドラフト六位入団の努力家で野球ばかりの彼は友人や自宅周辺の評判も面白みがなし。親兄弟も一般人。同じチームにはアナウンサーと結婚した甲子園の優勝投手でオリンピック銀メダルの立役者澤潟投手もいたが、同じ道は歩んで欲しくないと余計なお世話で記事を締めていた。

私の周辺も探られた。地元松江と都内で元カレを大捜索された。

収穫はないだろう。出てくるわけがない。だけど、正直祈った。

そもそも彼と知り合うきっかけになったあの日、私は人生初の失恋の中に居た。

あの事実が明かされれば、嫉妬深くて甘えん坊で私しか知らない彼は怒り狂うだろう。女性アナウンサーたち垂涎の結婚も白紙になる。

どうして人生で私の方から好きになった初めての人も次の人も、よりによってプロ野球選手なんだ。

スポーツマンの知られざる才能を紹介する番組企画を編成局に提出したのは入社二年目の中満亜美だった。同期の私を司会に想定した対談形式の三十分番組。

異例の早さで成立したのは、彼女と全日本でチームメートだったキャッチャーの父親が大手製薬会社の創業一族だったからだ。

手芸で文部大臣賞になったお相撲さんやシーズンオフは鰤の繁殖を副業にしているJリーガーに出ていただいた。中小企業診断士や無線通信士など国家資格を七つも持っているプロ野球選手の回だった。いつものゲストたちが発する明るい雰囲気がない方だというのが第一印象。でも少し気になったのは、普段着だというファッションセンスが私に似ていたからだ。紹介VTRでは、知的で控えめな性格そのままにチームプレーに徹し正確な犠打と堅い守りで監督からの信頼も厚く、理論派なので将来はコーチか監督になる器だと番組ならではのよいしょナレーションだったので、話半分で受け取った。スタジオトークでは、今は公認会計士の資格を取るために勉強中だと明かし、分かりやすいしゃべり方でまじめさが伝わる三十分だった。

「お疲れさまでした」

「ありがとうございました。水沼さんはプロ野球には興味がないんですね」

バレていた。

「来週の今日、食事しましょう。日比谷のメレンタ、分かりますよね。野球の話とパクチーは抜きにしますから。八時に待ってます」

「あ、はい」

今度食事にでも。なんて番組終わりの別れの常套句ではなかった。返事はハイしかないように持っていかれた。中満にだけは言っておこうかと思ったけど言いそびれた。

だって、彼女が大ファンだからキャスティングした選手だったから。

一般客とは違うエレベーターに案内されて着いた個室で向かい合って話し込んで、初めて経験する熱さをお腹の奥で感じた。

人生で初めて私の方から好きになって、人生で初めて朝まで一緒に過ごした人。

なのに、別れもちゃんと告げられない情けない男だった。高価な結婚指輪、マンションの契約、両親にあいさつにまで来たのに、結婚式の打ち合わせまでしたのに、監督に会う約束の日にやっぱり結婚はできないと一方的に別れを告げてきたきり連絡も出来なくなるなんて。

その後いろいろ噂を聞いたけど、本当の理由は分からない。

二の舞はごめんだ。今度こそ決めてやる。

ハイエナと異名を持つフリーの芸能記者や女性誌の編集長が嗅ぎまわり始めようとしていた。

「式はオフでいいけど、籍は誕生日前に入れたいの」

五歳年上をいい事にすぐに結婚した。

嬉しさが何倍にもなった。中学の時に沢木亜音の悔し涙を見た時のように快感に満たされた。私を捨てたあいつにも究極の仕返しを完結させられた。

だけど私はその後、歩いて五分圏内に雀鷹がいるのは人間の世界なんだと知ることになる。


「来シーズンの目標とか言ったりするの?」

局を辞めた私に、スポーツ局の先輩アナウンサーが久しぶりに連絡をよこした。

三年連続首位打者で他にも数々のタイトルを獲得した夫は、家で野球の話相手は愛犬のひでよしだった。

「一緒にアメリカに行くか」

「ワン」

偏食を何とかできないかと通っていたクッキング教室から英会話教室にチェンジしたた。カレーしか食べないので腕を披露する機会がない習い事より、実現しそうな未来に供えねばとこっそり通っている姿が女性誌に載ってしまった。

メジャー行きを迷っている夫に、挑戦こそ美学だと説いた。

本当は息が詰まる私生活から解放されたかっただけだ。

夫はアメリカでも活躍した。

私は球団の完璧な守りでプライベートを謳歌した。選手夫人たちとボランティア活動をするのも中心的な存在になり、セレブと知り合い美容の世界で仕事を持った。

夫が遠征する州都のほとんどに私の店を開いた。

メジャーでも首位打者になって日本人初のMVPを獲得。公私ともに絶頂。

球団オーナーが盛大なパーティーを開いてくれた。

グラミー賞歌手が歌っている時、夫婦で別室に呼ばれた。

「困った事になった」

広報担当と球団弁護士がいた。私と彼の結婚に至るまでのノンフィクション本が刊行されるという話だった。取材を受けた記憶はなかった。

「ミスナカミツを知っていますか?」

私と夫の交際中、いつも透明のパーテーションになって座っていたディレクターの中満亜美。結婚して専業主婦になった私と一緒に局を辞めて、今はどこでなにをしているのか分からなかった彼女。

「来週全米で発売予定ですでに日本語にも翻訳されている。私のスタッフが書かれている内容のウラを取ったところ、ほぼ事実に基づいていた。あなた方ご夫婦がお互いに知らない方がいい内容も詳しく書かれている。発売させないための処置を球団に任せてもらえるか、その返事が欲しい」

隣で握った拳をプルプル振るわせている夫を見られなかった。ミスナカミツが綴ったお互いに知らない方がいい内容とは、私の過去のあの事だろう。

「球団で処理って」

「入団契約の際に交わした私生活保護の第三項に基づいて、新刊本の権利を予想される売り上げに応じてミスナカミツから買い取ります。もちろん球団が保険会社を通じて払い、二度と公表されないように約束を交わし本は原作を含めすべて廃棄します」

「お願いします」

夫は打席に立つ時の落ち着きでそう言った。


生涯の贅沢を保障してくれるほどの大金を手にした中満亜美は、日本のあるトップリーグで活躍するスポーツチームのオーナーにおさまってハワイで暮らしている。

雀と鷹でツミと読む。ルビをふられた知らない漢字はそれなりの意味を持っている。

中満亜美が球団との交渉で最後まで譲らなかった条件を聞いて私は恨みの深さを知った。

夫が野球と関わっている間、私が日本に戻らない事。

究極の仕返しは継続中だ。太平洋で中満亜美という雀鷹が私を見張っている。














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