烏の木
それは、まだ夏の暑さを鬱陶しく思うより、少し前のこと。
僕は毎朝、住んでいるアパートの前にある公園のベンチで、缶コーヒーを飲む。
西日の差す窓では、朝日を感じることができないからだ。
缶コーヒーでも、せめて朝日は注ぎたて。その眩しさと、ほろ苦い味で、まだ寝ぼけている目を覚ます。
緑色は目に優しい。だから、目の前にある葉の生い茂った木を眺めていると、鋭い目線に気がついた。
『あぁ、カラスか』
一瞬は驚くが、熊や猪に出会ったわけでもないから、その目つきにも、すぐ慣れる。けれど、睨み返すのも何だから、目を逸らして負けたふりをする。
しかし、そのカラスは、羽ばたいて僕の側に寄って来ると、ベンチの背もたれに爪を掛けて止まった。
そうなると、流石に恐怖を覚えた。その鋭い嘴で頭でも突かれたら、ひとたまりもない。だから、相手が大人しいうちに僕の方から退くと、カラスはまた、羽を広げて追ってきた。
『おい、おい、勘弁してくれよ』
こういう時には、どうすれば良いのか……そんなことも思いつかずに僕は走り出すが、この方法は多分、逆効果だろう。でも関係ない。逃げ切ればいいだけのこと。そう思いながら早朝の町を駆け抜けるが、あいつはまだ、追ってくる。
振り返ると、日常の悪魔は弄ぶような距離を保ちながら、僕を見ている。
縋るように僕は、目についたコンビニエンスストアの中に逃げ込むと、自動ドアに早く閉まれと念じながら、ガラス越しに外の様子を伺った。
あいつも常識はあるのか、それでも迷惑なことは変わりないが、中までは入って来ずに、向かいの家の塀に止まり、待ち伏せをしている様子。
「どうか、しました?」
背後から話しかけてきたのは、コンビニの店員だ。それはそうだ、息を切らしながら入ってきた男が、買い物もせずに外を見ていたら、怪しむのも仕方ない。
「いや、ちょっと追っかけられていて」
「え、大丈夫ですか?警察に通報しましょうか」
「いや、多分、捕まえられそうな、相手でもないので」
僕が塀に止まっているカラスのことを指差すと、店員は『どこ?誰?』と探すように目を動かしていたが、その存在に気がついて、クスクスと笑った。
「いや、笑い事でもないんですよ」
「あぁ、すみません。そうですよね、あんなのが追いかけてきたら、怖いですよね」
理解のある店員に助けられて、逃げる隙を伺いながらカラスの様子を窺っていると、カラスは待ちくたびれたのか、気だるそうに羽を広げて、空へ飛んで行った。
僕は安心して息を吐くと、店員と目を合わせて、苦笑いを見せる。
「あ、本当にすみませんでした。ちょっと待って下さいね」
店員からすれば、つまらない理由で店の中に入ってきたのだから、はい、それではなんて出来るはずもなく、僕は商品の陳列された棚を見回すが、目的のないコンビニに、手に取るような物もなく、持っていたのを忘れるほど、慌てて飲み干したコーヒーの缶を見て、ちょうど良く買うものが決まった。
レジ前に立ち、プルタブの空いていない新しい缶コーヒーを差し出すと、店員は『ありがとうございます』と、言っている。とんでもない、そう言わなければいけないのは、僕の方だ。
「大変でしたね、あ、それ、空き缶なら捨てておきますよ」
「え、あぁ、大丈夫ですよ、そんなことまで……自分で捨てますから。本当に、すみませんでした」
また、ここに来るのは、少し気恥ずかしいな……なんて思うが、僕の生活サイクルならば、きっと、また立ち寄らなくてはならない場所。気まずさを誤魔化すように頭を下げてレジから離れると、自動ドアはコーヒーの缶で両手の塞がった僕を、逃すように開いてくれた。
それから数日、あの恐怖を覚えたことから、公園内には立ち寄らずにいたが、毎朝のルーティンは変えることなく、朝日を浴びに、外へは出ていた。
すると、公園の景色が少しだけ変わっていたことに気がつき、数日ぶりに立ち寄ると、森のように茂っていた木の葉が、さっぱりと刈り取られていて、園内は、木漏れ日で明るくなっている。
馴染みのベンチに座って、カラスのいた木に目を向けるが、どうやらいない様子。
『あいつ、ほかの人にも悪戯ばっかりして、追い出されたのか』
上手いこと共存すればいいのにと、このことが、何かの童話のように思えたが、安堵した気持ちで考えてみると、少し切なさが込み上げた。
『あいつ、もしかすると、ここに巣があったのかな』
巣があったとすれば、そこには雛がいて、それを守ろうとしていたのかもしれない。
そうなると、巣を駆除されて、その雛たちはどうなったのか……それを考えると、胸を締め付ける思いになった。
きっと、あのカラスは人間から排除されたことが、一度や二度とではないのだろう。
だから、あの時の僕からも、大切なものを守ろうとしていたのかもしれない。
上手いこと共存すればいいのに……なんてカラスに聞かせたら、きっと、こう言ってくるだろう。
『こっちの台詞だ、馬鹿野郎』と。
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