おりのそと
桜江
おりのそと
はじめてあったとき
ずっといっしょにいたいとおもったんだ
ずっとずっといっしょにいられるはずだと
ひろいひろいせかいをふたりで
* * * * *
ある晴れた日の朝。
少年は碧の美しいものであった。
何かのはずみで、住み処にしていた葉っぱからポトリと落ちてしまった。
本来であれば目立つ土の上に落ちてしまえば、少年のその命が尽きる確率はかなり高く、彼の世界の終わりは近くなる。
事実、少年の兄弟姉妹は近くの葉にたくさんいた。同じ場所にいてはたべものが足りず、住み処を変えいつの間にか間引かれ、気付けば少年はひとりきりであった。もしかすれば近くに生き残った兄弟姉妹がいるのかもしれないが、少年にとって大事なことではなかった。
さて。少年が落ちたのは地面ではなく、ある家の窓枠の近くだった。
少年のこれまでの住み処はある家の庭の木。窓枠のすぐそばに生えている屋敷林のひとつだったのは運が良かったのだろう。地面にポトリと落ちていればたちまちのうちに少年はこの世界から消えていたのだから。
運の良い理由として、この窓枠にはたくさんの葉や蔓や蔦が這っていて、窓としての機能は風を通すくらいでしかなさそうだった。だがそのおかげで彼は天敵から逃れ生き延びることができ、新しい住み処とたべものを探すことができた。彼にとってそれは預かり知らぬところだったが。
一所懸命蔓を登り蔦に移り葉の裏で休憩し、なんとか窓枠に着いたところ、分厚い窓硝子の向こうに何かいるのに気付いて彼は歩みを止めた。
それは窓近くに置いてある茶色いもので、蓋はされていない。
中にはなんだか痛そうなちくちくした葉っぱが数枚入れられている。
その上に白くてふくふくとした可愛らしいものが座っている。もっとよく見たくて思わずガラスに張り付くように覗き込む。
この可愛いらしいものは少女であった。
葉っぱの上でぼうっとしていて、中々こちらを見ない。それに少年は焦れたものの、実際目が合ったとしてどう反応してよいのかもわからない。
――ぼくをみてくれたらいいのに
と、ただどきどきしていた。
どれだけの時が経っただろう。ぼうっと遠くを見ていた少女がつと視線を上げ、窓にいる……窓の外側に初めて見るものである碧の少年を視界に認める。
少女の世界にこれまでいたことのないものに驚き目を見開く。生まれて初めて見る少年の碧の美しさに心を震わせたために少女は自分でもそうと知らず微笑んだ。
うっとり見惚れるほどの柔らかな微笑みを向けられ、少年の心はいっぺんに舞い上がり、これから先の人生は白い少女に捧げると決めた。
――このじゃまさえなければなあ
少年は数日窓硝子を這いずりまわり、隙間がないことでこの向こう側、少女の元にどうあっても行けないことがわかっても諦めなかった。
――ここにはたべるものもたくさんある。ゆっくりなかよくなろう
少年と少女の一日はとてもゆっくり穏やかに過ぎる。
硝子に阻まれていても、同じ時間をともに過ごす。
朝になると少女のために新しいちくちくした葉が入れられていて、少女は自分と違う場所にいても飢えることはないようで少年は安心した。
きれいに掃除もしてある。だから少女の白い装いが汚れることもない。
なかなか寄り添えないけれども、ふたりは語りあうようになった。お互いの声は聞こえない、でも身振り手振りとその瞳から不思議と想いが伝わる。ふたりにとってそれは不思議なことではなかったけれど。
――おとなになってそこからでたら、ふたりでとおくにいこう?
そうゆっくり言えば少女は大きく頷いて、嬉しそうに笑って言う。
――うん、ふたりでとおくにいこうね、そしてずっといっしょにいよう?
茶色い箱の中が世界の全てである少女にとって、少年のいる向こう側の世界は自分がいる世界より素晴らしいものに思えたし、あの少年と手を取り合って生きていくことはとても希望に満ち溢れていたからだ。そして大事な未来への約束もできた。
少年と少女にとって幸せな時間は過ぎていく。
季節は過ぎ、ふたりにおとなになるための準備が始まりつつある。
世界は色を変えていた。
風が冷たくなってきて、たくさんの蔓や蔦や葉の緑に埋もれていた窓枠は茶色い枯れた葉ばかりになっている。
太く勢いのあったそれらが今はか細く、頼りない。
もう少年の姿を世界から隠しきるものではなくなってしまっていた。
けれど同じくしてその美しい碧の身体も枯れ葉たちに合わせたのかのように色褪せていき、柔らかで瑞々しかったものが固くなっていく。枯れ葉が多くて良かったのかもしれない、少年を隠しきりにはしないけれども、同じようなものとして見逃せる程度にはやはり運良く残っていた。
彼はそこでおとなになることにした。もっとも彼女の元から離れるという選択肢は最初からないのだけれど。
彼の思考は茶色いさなぎの中で緩慢に溶けていく。
また彼女も彼の変化と同様、白い糸を紡ぎ身を守るようにまとわせ始めていた。
彼女もその白い繭の中でゆっくり融けていく。
彼も彼女も誰かに教わったわけではない、どうなるのかなんとなくわかるだけ。
自分たちはおとなに生まれ変わるのだと。
――おとなになればじゆうになれる。
――おとなになるとはねがもらえるのね。
――このひろいせかいをきみとずっととんでみたい。
――このせまいせかいからとびだしてあなたととんでみたい。
解けてほどけた外と内の、身体と心の境界が曖昧なふたりは同じ夢を見ていた。
* * * * *
――はっきりと彼の意識が戻ったときには、既に立派な翅を持っていて、身を守っていたあの固いさなぎはもう用済みとばかりに足元で小さくしょぼくれたものになっていた。
――ああ、自分が大きく感じる、飛べる今すぐでも。
感動と自信に満ち溢れた気持ちですぐにも飛び出したい彼は逸る気持ちで震える身体を抑え、窓の中を見やる。
白い繭が見えた。彼女の姿は見えない。
――ということは彼女はまだあの繭の中にいるということ。
無事彼女は出てこられるだろうか、と彼は不安になる。一方であの白い繭もまた彼女にぴったりの美しい器だと感心もしていた。
久々の世界は暖かい。色褪せた世界はまた柔らかな緑に覆われ始めていたし、あちこちから花の蕾が開いて良い匂いもする。
彼はおなかがすいていることに気付いたけれども、彼女がいつ出てくるかわからない。出てきたときに自分がいなければ寂しく思うだろう、僕は幸せだ、彼女より先におとなになれたことで彼女を見守ることができる、と破顔した。
彼女と無事再会したら一緒に食事をしよう、おとなになるとあの葉を食べたいと思えない、あのいい匂いのする花がいい。彼女もきっとあれのほうがいいだろう、ふたりで飛んで色とりどりで楽しげな花のところへ行こうとあれこれ考えていた彼がその変化に気付いた。
彼女の白い繭の端がじわじわと濡れ、ゆっくり彼女が出てきている。濡れそぼった翅と身体を震わせてゆっくりと外の世界に出てくる。
――彼女だ!
窓にしっかと張り付いて見つめる。
彼女は泣いているように見えた。
悲しみではない、おとなになるという新たな生を喜んで泣いているように見えた。
彼女はずるりと繭から這い出た。身体はずっと繭を溶かし続けたことで疲れきっている、けれどその瞳は新たな生への感動にうち震えていた。
ふたりはおとなになることで生まれ直したのだ。この世界に。暖かい柔らかな希望しかない祝福された世界に。
彼は歓喜した。彼女は真白き女王のよう、気高さと美しさに溢れたおとなの姿に再度恋したことに。彼の唯一、彼女と出逢えたことに。
彼女は生まれ落ちた喜びと共に少しばかりの不安を抱いて彼の姿を探して窓を見やれば、そこには美しき碧の王に相応しいおとなの彼がいた。翅は大きく周りが黒く輝き、出逢った頃を思わせる碧の模様がきらきらと煌めいている。
彼女もまた改めて恋に落ちた。眩しそうに彼を見つめ頬をわずかに朱に染める。
ふたりは硝子越しに見つめ合う。
それでもこの硝子が隔てている問題は大きい。
ただ、暖かい季節になったからなのか天気が良いためなのか風を入れるためだろうか、これまで閉ざされていた窓は室内側に倒れるように少し開いていた。
まるで世界は彼らの味方だと言わんばかりにふたりの良いように動いているよう。
彼はぐるりと窓を見渡す。普段と違って開いている場所を見逃さなかった。
もう彼はあの小さな彼ではない。進む時にあちこちよじ登り、這いずりまわらなくてよいのだから。美しい翅を羽ばたかせることで高く飛べる。
そうして初めて窓を越え内側に滑り込んだ。これで彼と彼女は同じ世界に息づくものであるのに隔てられていた場所はとうとうふたりにとってひとつになった。
彼女は彼の飛ぶその美しい姿に、瞬く間にふたりを隔てていたものを越えてやってきた彼の自分をぎゅうと抱きしめる温かさに涙が出た。
「ずっとこうしてみたかったんだ」
「あなたってきれいで温かいのね、すごく心地いい」
ふたりはしばらくそのまま抱き合っていたけれども、このままここにはいたくない。彼は彼女の手を恭しく取ると言った。
「では白き女王様、わたくしとともに冒険はいかがですか? まずは外へとご案内致します」
かしこまった話し方に彼女は笑った。
「ええ、美しき碧の王様! ご一緒させて頂きますわ」
悪戯めいて彼女が言ってみせると彼もまた笑った。
「さあ、一緒に飛ぼう」
彼がふわりと浮くけれども、彼女は動けない動かない。途端彼女の顔からさっと笑みが消え、恐れるような震える声で小さく訪ねた。
「……ねえ、どうやって飛ぶの? 翅はどうしたら動くの?」
「……え?」
彼は説明できない。説明したり練習してできるものではない。歩くのと同じだからだ。おなかがすいたら食べる、眠くなれば寝るのと同じでこうしたらよいというものではないから。
彼女の白い美しい翅はふるふると揺らめく。けれど飛ぶための動きとはなにかが違う、と彼は感じた。
「もしかして、わたし何か失敗しちゃったのかな。出てくるときに傷つけたのかな」
あまりにも悲しいその声に彼は胸が痛くなる。それを表情に出さずにほんの少しだけ考える。ふたりにとっての希望を考える。
「大丈夫! すぐ飛べるようになるよ! 君は僕と違う葉っぱをたくさん食べていたし、住んでる場所も違っていた」
「……うん、そうだね……」
その視線はうろうろとして定まらない彼女が頷いた。不安で仕方ないのだ。
彼は彼女を現実に引き戻したくて、繋いだ手に力を込めた。
「だから飛び方や翅の違いがあるのかもしれないよ、でも大丈夫。僕がここから出してあげる。ここでは僕たちは生きていけないもの。ここはいい匂いもしない。隠れる場所もない」
「そう……そうだよね」
彼に優しい笑顔で言われて彼女はほっと息をつく。確かに目に見えて自分と彼の姿かたちが違うのだし、おとなになる前も気にしてなかっただけで思い返せば彼との違いはいくつもあった、と少しだけ安堵した。
けれど心の奥の不安は完全には消えない。だからといって彼とともにここを出て行かないという選択肢はなかった。
彼がそっと握っていた手を離した途端、ふわりと彼女の身体が浮いたのに驚いて小さく慌てた声が彼女の小さな口から零れる。彼は彼女を横に抱き上げていた。
「僕の首に手を回して、そう上手。今から飛ぶから」
「一緒に飛ぶの? 落ちない? ふたりで飛ぶなんて大丈夫?」
「任せて! といってもふたりで飛ぶのは初めてだから。でも君を絶対落としはしないから安心して」
そう言って笑う彼の瞳は翅と同じくきらきらしていて、とてもきれいだな、と彼女は思った。
彼は長く彼女の住み処になっていた箱を越え、ふたりを隔てていた窓硝子を越え、とうとう外へと飛び出した。
ふたりは初めて飛んで、初めて見た景色に心が踊る。箱のなかが全ての彼女と窓枠の周囲が全てだった彼。
世界はなんと広いのだろう。上を見ればどこまでもどこまでも続く遮るもののない世界だった。
そして花のいい香りに誘われて、彼はその上に止まると彼女を腕から降ろした。
「とても美味しそうな匂いがするよね、おなかがすいちゃった。これをぜひ君と一緒に食べてみたかったんだ」
「そうだったのね、わたしに構わないで食べて。おなかがすくのは大変だもの」
彼女が笑顔で言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。
「きみは? おなかすいてないの?」
言われた彼女も首を傾げた。
「うん、そうなの。こどものとき、わたし夜もずうっと
食べていたでしょう? おとなになったらおなかがすかないのかもしれない」
「僕とは違うってことなのかな?」
「食べてたものは似ていたけど……それにあなたは碧の王様でわたしは真っ白だもの、うん、ちょっと違うのかもしれない」
「確かに翅の形も違うもんね、でも君が綺麗な真白き女王様なのは間違いないけど」
そう言ってふたりは笑いあい、彼は花の蜜を堪能した。久しぶりの食事、しかも初めての花の蜜は甘くかぐわしく美味しかった。
できれば彼女にも食べてほしかったがそれは仕方ない。
そうしてあちこち飛び回り日々は過ぎていく。
彼女はじわじわと弱り始めていた。
彼と同じ場所で動けない。彼は明るい太陽の下、飛び回りたい。けれど彼女は明るいとつらい顔になる。
それでもできるだけ彼といたい、彼もまた彼女といたい。少しだけ陽の光を遮る場所で彼女はじっとして動かなくなった。
彼が花の蜜を飲むよう誘っても首を横に振るばかり。
体力も落ちてきた。それでも汚れなき白の女王の姿は変わらない。動かない彼女を狙ってやってくる黒い小さなこびとたちから守るため、彼は彼女を抱き上げあちこちと逃げていた。
「何も口にできないの」
ある日とうとう彼女は彼に打ち明けた。
せめて水でも、と夜露朝露を掬って飲ませようと必死な彼に彼女は言った。
「飲み込めないの、なにも」
おとなになってからこれまで何日も経ったのに彼女だけ何も口にしていない。
眠る時間が増えてきた彼女は常に朦朧としていて、もう彼の姿も見えていないのかもしれない。うわごとのように彼を呼ぶのだ、手を握って側にいるのに、まるで遠くに行ってしまったかのように切なく呼ぶのだ。
「此所にいるよ、君の側にいる、離れないよ」
「……ああ、あなた、碧の王様……どこにいるの……見えないの……」
彼は彼女を抱き締めるしかできない。
彼女の黒いつぶらな瞳には彼がしっかり映っているのにそれは彼女に何も見せやしないのだ。
とうとう彼女は話すのもつらいのか、起きている間に時折はらはらと涙を零すだけになった。
それでも彼は彼女に声をかけ続けたし手を握ったり、抱き締め頬に口づけもした。
ある月の綺麗な夜のこと。
彼女は彼を久々にその瞳にはっきりと映した。
「あなた、碧のあなた」
「気高き白の女王よ、君の
「……あなたに出会えてよかった。わたしを見つけてくれてありがとう、世界を教えてくれてありがとう」
彼女が彼の手を握り返す。
「どうか、碧の王様、しあわせになって。わたしはきっとあの箱の中で寂しく生きて死んでいくだけのものだった。憧れも何も抱かないままただ箱の中で檻の中で……」
「――待って! 置いていかないで! 僕をひとりにしないで、いっしょに、ずっといっしょにいようと約束したよね」
彼女はにこりと微笑んだ。
「ずっといっしょに、ずっといっしょ。わたしはあなたとずっと、……いっしょ、あなたのしあわせを願うものなの、ずうっと……」
言いながら瞳から色が失われていく。彼女の身体は動くことをやめようとしている。彼はその事実から目をそらすように泣き叫ぶ。彼女の命の灯火が再び燃えてほしくて。側にいてほしくて。いかないでくれと。
きみがいないとぼくはしあわせになれない、と悲痛な叫びが辺りに響いた。
* * * * *
ある晴れた日の朝。
白い蚕の成虫がその命を終わらせ、自然に還るためにその身を花壇近くの土の上に投げ出していた。
そしてその隣にはアオスジアゲハの成虫が寄り添うように止まっていた。
庭には何種類かの蝶々が飛び回っている。
少年は外にいる蝶々たちに興味があって庭に出てきたのだけれど、庭で自分が大事に育てていた蚕が死んでいたのを見つけ驚いていた。
彼のしらぬ間に繭から出て消えてしまっていたことを残念に思っていた。ところが飛べないはずの蚕がいつの間にか外に出て、こうやって彼の目の前でそっと死んでしまっているのだから驚くのも無理はない。
そして蚕のそばにいるアゲハ蝶を見て、この二匹を部屋に持ち帰ることにした。
運が良かったのか蚕には蟻も集っていない。
虫かごに蚕の死骸を入れるとそれに付き添うかのようにアゲハ蝶がくっついてきたので、手間が省けたと彼は笑む。
この二匹は綺麗に残そう、きっと並べて部屋に飾るのはとてもすてきだ、と少年はうきうきして家に入っていった。
ずっとずうっといっしょ
おりのそと 桜江 @oumi-nino
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