第2章 佐伯 5

段ボールから野菜を取り出して冷蔵庫へ入れる作業を終えた後、佐伯は浴室で乾燥させていた洗濯物を取り込んでいた。取り込んだ洗濯物は種類別に畳んで並べてタオルや自分の下着、パジャマは浴室の棚や引き出しにしまった。佐伯は恵梨香の衣服や下着、自分の洋服を手に抱えて風呂場のある部屋を後にした。リビングに戻り、廊下へのドアを音を立てないように閉めると、テーブルの近くへゆっくりと向かった。移動しながら恵梨香がアニメのDVDに夢中になっているのを確認すると、そのまま足を進めてゆっくりとあまり音を立てないように階段を登り、2階へ向かった。

2階に着くとまず自分の部屋へ向かった。ポケットの中からキーケースを取り出してまだ使用していなかった鍵を取り出した。それを使って自分の部屋のドアの鍵を開錠した。そしてドアを開くと足を踏み入れず自分の部屋の前からベッドに向かって自分の洗濯したての洋服を放り投げた。畳まれていた洋服が崩れながらベッドの上に着地した。佐伯は自分の部屋のドアを閉めるとまた鍵をかけた。そしてドアを引き鍵がかかっていることを確認すると恵梨香の部屋へ向かった。

恵梨香の部屋のドアを開けて入ると部屋からカビ臭さを感じた。佐伯はベッドの下の引き出しを開け、手に抱えていた衣服や下着を丁寧にしまった。そして引き出しを閉じると机に向かった。机の引き出しを開けると中には消臭除菌スプレーが入っていた。佐伯はそれを取り出し、部屋中に吹きかけていった。吹きかけた後に周囲を嗅ぎ回すとスプレーの香りであまりカビ臭さが気にならなくなった。佐伯は除菌スプレーを引き出しに戻し、恵梨香の部屋を出てドアを閉めた。

部屋を出ると階段を通して1階からアニメのエンディングの音が聞こえてきた。佐伯が1階に降りると恵梨香がソファーに腰を深く掛けてくつろいでいる姿が目に入った。佐伯は恵梨香に近づき、また「いかがでしたか?」と声をかけた。恵梨香も同じく、また笑みを浮かべて「面白かったです」と答えた。佐伯はふふと微笑んで「そうですか、よかったです」とまた同じように返した。

ふと時計を見上げると時計は11時30分を指していた。

佐伯は恵梨香に「アニメはここまでにしましょう。こちらの本や漫画は手に取りましたか?」と尋ねた。恵梨香は「アニメに夢中になっていて全然見ていませんでした」と苦笑いを浮かべてた。佐伯はふふと微笑んで「そしたらこちらの漫画や本を見て見てください。これから昼食の準備をしますので出来たら声をかけますね」と言った。恵梨香は笑みを浮かべて「はい、わかりました」と返事をして、机の上に並んだ漫画や本を見渡した。恵梨香は少し首をかしげながら1冊の漫画を手に取り、読み始めた。その恵梨香の様子を見て、佐伯はDVDプレイヤーからディスクを取り出し、パッケージにしまった。そしてテレビの電源を切るとキッチンへ向かい、昼食の準備に取り掛かった。


佐伯は手慣れた手つきで昼食をスムーズに作っていった。

昼食を作り終えてテーブルに並び終えると、ポーンと時計が鈍い音を立てて12時を知らせた。時計を見上げ、時刻を確認して目線を下げると恵梨香がこちらを見ていた。昼食のナポリタンの香りが恵梨香の興味を引いていた。佐伯は微笑を浮かべて「昼食の準備ができましたよ」と恵梨香に声をかけた。

恵梨香は手に持っていた漫画を机に戻し、太ももの上の小さなクマのぬいぐるみを横にどけてソファーから起き上がりテーブルへ向かってきた。テーブルのそばに来ると「すごくいい香りですね」と嬉しそうに言った。佐伯はふふと微笑んで「お口に合えばいいんですが」と言いながら恵梨香にテーブルの席へ促した。

恵梨香は席に着くとテーブルの上に並んだナポリタンとサラダを見て笑みを浮かべていた。そして佐伯が席に着くとすぐに「いただきます」と言って、フォークを手にとった。ナポリタンを一口ほどの大きさにフォークで巻いて口に運ぶと、恵梨香は目を閉じて口元を緩ませていた。

佐伯はすぐに食べ出さずに恵梨香が食べている様子をじっと見ていた。幸せそうに食べている恵梨香を見て佐伯は『自然と』微笑を浮かべていた。

すぐにもう一口、もう一口と食べ進めている恵梨香の口周りが橙色に染められていくのを見て、佐伯は紙ナプキンを差し出した。すると恵梨香はハッとした表情を浮かべて口ごもりながら「すいません」と言って、紙ナプキンを受け取って口の周りを隠すように拭いた。その様子を見て佐伯はふふと微笑を浮かべた。そして佐伯もフォークを手に取って食事を始めた。




昼食の洗い物を終えた佐伯はカーテンの方へ向かった。カーテンの横には丸められた薄手のクッションマットが立てかけられていた。そのマットを持ってソファーとテーブルの間まで運び、そこに転がした。その様子を恵梨香は不思議そうにじっと見ていた。

恵梨香と目が合うと佐伯は「お昼は運動不足にならないためにエクササイズをしましょう」と声を掛けた。恵梨香は顔をしかめて「…エクササイズ?」と言いながら首をかしげた。

「はい、今運んできたマットの上で体を動かしていきましょう。柔軟とか簡単な体操ですよ」

佐伯はそう言うと床に転がしたマットを広げた。

「本当は外でやりたいのですが、今は外に嵐が近づいて来ているので室内で行いましょう。あ、窓見られましたか?嵐の対策用に今は家中の窓のシャッターを全て閉めているんです」

佐伯はマットを広げながら恵梨香を見ずに言った。

恵梨香は「あー、そうなんですか」と返事をしながらカーテンを見渡していた。

恵梨香が残っていたコーヒーを飲み終えるまでの間に佐伯はテレビの電源を入れ、DVDプレイヤーにエクササイズのDVDを入れて準備をしていた。

恵梨香はコーヒーを飲み終え、口直しに水の入ったグラスを一口飲みこむ。そして席を立ち上がり、小走りでマットの上にあがった。佐伯は恵梨香に「では始めますね」と言いながら再生ボタンを押し、自分もマットの上にあがった。

テレビの画面には複数の男女が並んでいた。中心にいる男性が体を動かしながら説明をし、それに続いて周りの男女が動かしていた。それを見て佐伯はテレビの男性と同じように体を動かした。恵梨香も続いてテレビと佐伯を交互に見ながら体を動かしていった。

エクササイズを2時間ほど行なうとDVDは終わった。佐伯はテレビへ向かい、DVDプレイヤーからディスクを取り出してパッケージにしまった。振り返って恵梨香を見ると恵梨香は疲れてしまってマットの上で座り込んでいた。そんな恵梨香を見て佐伯は「お疲れ様でした、疲れましたね。おやつでもとって休憩しましょう」と声をかけた。恵梨香をソファーに案内すると恵梨香はソファーにグタッと深く座り込んだ。佐伯はその様子を見てふふと微笑んだ。それを見た恵梨香はムスッとした表情を浮かべて佐伯を見た。だがすぐにふふと微笑んだ。

佐伯はマットを丸めて畳み、カーテンの横の元にあった場所に戻した。その後キッチンへ向かい、おやつの準備を始めた。冷蔵庫からフルーツタルトの入った箱を取り出し、ナイフで8分の1にカットして皿に乗せた。そして小さな鍋に水を入れ、コーヒーの準備のためにお湯を沸かし始めた。

時折キッチンからソファーに座っている恵梨香を見たが、変わらず深く座り込んでいた。

抽出したコーヒーをカップに注ぎ、そして小さなグラスにガムシロップとミルクを注ぐとそれらを持ってテーブルへ運んだ。それらを先にテーブルへ運んでおいたフルーツタルトの皿の横に置くと佐伯は恵梨香を呼んだ。

恵梨香は気だるそうに立ち上がりテーブルへとゆっくり向かってきた。疲れてしまって眠気が出てきたようでまぶたを重そうにして、うとうとしていた。そんな恵梨香の様子を見て佐伯はふふと微笑んだ。

「お待たせしました。召し上がってください」

恵梨香は「はい」と返事をした。その声は元気とは言い難い調子だった。ゆっくりと席に着き、少し間を置いてため息を吐いてからフォークを手に取った。フルーツタルトを一口分フォークでとって口に運ぶと目を見開き、先ほどまでと変わって急に表情が明るくなった。そして目を閉じて口元が緩んでいった。

そんな恵梨香の一部始終をじっと佐伯は見ていた。恵梨香の様子を見て佐伯も自然と、口元が緩んで微笑を浮かべていた。

恵梨香は急にハッとした表情を浮かべ佐伯を見た。佐伯と恵梨香は目を合わせた。恵梨香は佐伯と目が合うと唇を少し噛んで恥ずかしそうに顔を下へ向けた。

「…あんまり見られると食べづらいですね」

恵梨香が顔を下へ向けたままそう呟いた。

それを聞いた佐伯は少し間を空けてからいたずらっぽく微笑んだ。だが先ほどまでの微笑とは違い、瞳はどこか物憂げな様子であった。

「ごめんなさい」

そう佐伯が変事をすると、恵梨香は顔を上げてチラッと佐伯を見た。そしてすぐにまた顔を下げ、ふふと微笑んだ。

その様子を見て佐伯はコーヒーのカップを手に取り一口飲み込んだ。口の中に苦味が広がっていった。

一口飲んでからまた恵梨香をじっと見つめた。そして目をゆっくり閉じて、もう一口コーヒーを飲み込んだ。

先ほどよりも顔を傾けて。

カップで恵梨香が見えなくなるくらいに。


苦味が深く広がっていった。




恵梨香のコーヒーが残り4分の1ほどになり、グラスに残っていたガムシロップをコーヒーのカップに注いだ時に佐伯は恵梨香に声をかけた。

「恵梨香さん、午前中のトレーニングの続きとして本を読んでください」

恵梨香は「本ですか?」とマドラーでコーヒーをかき混ぜながら言った。

佐伯は微笑を浮かべながら「ええ、午前中に机に並べていた中の1冊です。『アネモネ』っていうタイトルの本なんですけれども、恵梨香さんのお気に入りだった1冊なんです」と言った。

そう言い終えると佐伯はソファーの前に行き、引き出しの中から『アネモネ』を取り出した。恵梨香も佐伯についてソファーの前に行き、佐伯から『アネモネ』を受け取った。受け取った『アネモネ』の表紙をじっと見ながら恵梨香は「…瀬能…秀介」と、書かれていた作者名をつぶやいた。

佐伯はビクッと体を揺らし、つばを飲み込んだ。

そしてグッと唇を噛んだ。

恵梨香が顔を上げて佐伯を見ると、佐伯は強張った顔からすぐに微笑を浮かべて「きっと気に入りますよ」と言ってソファーへ手を向けた。

恵梨香はテーブルからソファーへ移動して腰をかけ、また少しの間表紙を眺めてから『アネモネ』を開いた。佐伯は振り返ってテーブルへと向かった。テーブルへ着くとまた振り返って恵梨香を見た。恵梨香はソファーに深く腰をかけて本を読み始めていた。佐伯は目を細くしてしばらくその様子を見ていた。そして目を閉じてテーブルへ振り返り、恵梨香の飲みかけのコーヒーのカップを恵梨香の前のローテーブルにそっと置いた。恵梨香は佐伯に「ありがとうございます」と言った。

佐伯はテーブルの方へ振り返り、背を見せながら「いいえ」と返事をした。

そしてそのままテーブルに向かい、カップやグラスをキッチンへ運んで洗い物を始めた。

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