第2章 佐伯 4
飲んでいたコーヒーも4分の1になり、恵梨香はグラスに残っていたガムシロップをコーヒーのカップに流し入れた。マドラーで軽く混ぜてから口に運ぶと恵梨香は目を見開いて驚いた表情を浮かべた。
それを向かいのテーブルで見ていた佐伯はふふと微笑を浮かべて「甘さにびっくりしましたか?」と尋ねた。「思っていたよりも甘くて」と言い終えると恵梨香はつばを一口飲み込んだ。そしてすぐに「でもおいしいです」と付け足した。
佐伯は「それならよかったです」とまた微笑を浮かべた。
その後ゆっくりとした時間が流れ恵梨香のコーヒーもあと2、3口になった頃、佐伯はテーブルから立ち上がった。
「恵梨香さん。飲み終えて落ち着いたらパジャマから洋服に着替えて来てください。洋服は恵梨香さんのベッドの下の引き出しに入っていますので。それで、脱いだ洋服は後で洗濯をするので部屋の外に置いてあるカゴに入れておいてください。」
そう佐伯が言うと恵梨香は「はい、わかりました。ありがとうございます」と言いながら佐伯をじっと見ていた。佐伯はテーブルに椅子を戻しながら「あ、あとお手洗いに行きたくなった時には2階の恵梨香さんの部屋の近くにトイレがありますのでそちらを使ってください」と言った。恵梨香はまた「はい、わかりました。ありがとうございます」と言いながら佐伯をじっと見ていた。
佐伯は恵梨香の視線には気づいていたが特に気にすることはなく振り返ってキッチンへ向かっていった。そしてキッチンに自分の飲んでいたコーヒーのカップと水のグラスを置いてリビングのソファーへ向かった。
佐伯はソファーに浅く腰をかけると前にあるローテーブルの引き出しを開けた。中には漫画や本、アニメのDVDやそれらに関するキーホルダーやシールなどが綺麗に整頓されて収納されていた。佐伯はそれらを手際よくローテーブルの上に並べていく。机一杯に並べ終えると、ソファーから腰を上げ本棚に向かった。本棚には特に本が並んでいるわけではなく、観葉植物や小さなぬいぐるみが置いてあった。その中のぬいぐるみをいくつか適当に選んで手に取り、左手で抱えた。3つ4つ取り上げて左手が一杯になると最後に小さなクマのぬいぐるみを右手で取り上げた。そしてまたソファーに戻り右の肘掛がある方へぬいぐるみを並べていった。ちいさなクマのぬいぐるみが手前になるように配置した。
記憶を取り戻すためのトレーニングの準備を終えて振り返ると、パジャマから洋服に着替えた恵梨香がテーブルのそばに立っていた。何をしているんだろうと疑問に感じたのか、首をかしげて佐伯のいる方を見ていた。
佐伯は恵梨香と目が合うとまた微笑を浮かべた。そして恵梨香に近づいていき、声をかけた。
「恵梨香さん。これから記憶を取り戻していくためのトレーニングを行なっていきます。」
恵梨香はキョトンとした表情を浮かべて「…トレーニングですか?」とかしげていた首をさらにかしげていた。佐伯はふふと微笑を浮かべて「急に言われてもわからないですよね。説明させていただきますね。まずはこちらのソファーに来てください」と言って右手をソファーのある方へ向けた。恵梨香は戸惑いと不安の表情を浮かべながら佐伯についてソファーへ向かった。ソファーにつくと佐伯は右側を恵梨香に案内し、座らせた。佐伯も左隣に座りトレーニングの説明を始めた。
「トレーニングなんですけど、昔見ていたとか遊んでいたものをご家族にお聞きしまして、それを見たり遊んだりして記憶を取り戻すきっかけを作ろうというものです。こちらを見て何か気になるものとかありますか?」
そう言いながら佐伯はローテーブルに手を向けた。恵梨香はソファーから身を前に出し、ローテーブルに広がった様々なものを見渡していく。
だが、これといって気になったり惹かれるものがなく、徐々に不安な表情に変わって言った。その様子を見ていた佐伯は「まずは適当に選んで見て見ましょうか」と言ってDVDを一つ手に取ってテレビへ向かった。テレビの電源をつけると真っ黒な画面が表示された。佐伯はディスクを取り出してDVDプレイヤーへ入れ、再生のボタンを押した。すると数秒後に、今まで生活音だけだったリビングに明るい音楽が響いた。そして髪の毛の色がカラフルな可愛らしいキャラクターたちが登場して動き出した。
佐伯はソファーに戻り恵梨香を横目で覗いた。恵梨香はじっとテレビの画面を食い入るように見ていた。そんな恵梨香に佐伯は「他にも気になったものがあったら手に取ったりしてみてください。見たいアニメがあったら言ってくださいね」と声をかけた。恵梨香は佐伯を見て頷きながら「はい」とだけ返事をして、またテレビの画面に目線を戻した。佐伯は10分ほどそのまま恵梨香と一緒にアニメを見ていた。横目に恵梨香を見ると、アニメに夢中になっているのがわかった。アニメのコメディチックなシーンではクスクスと笑っていた。その様子を見た佐伯はそっとソファーから離れた。
佐伯はテーブルの上に残っていたグラスやカップを手に取りキッチンへ運び、洗い物を始めた。アニメの音を邪魔しないようにあまり音を立てずにゆっくりと洗い物をした。度々恵梨香を見て様子を確認したが、恵梨香はアニメに夢中になっていた。
洗い物を終えると1階の廊下のドアをゆっくりと開けた。そして玄関へ向かい玄関の前に置かれていた段ボールを持ち上げ、冷蔵庫の前へゆっくりと運んだ。段ボールを開くと中にはレタスなどの野菜が入っていた。それを冷蔵庫の野菜室に音を立てないように入れていった。その作業を何回か繰り返す中、度々恵梨香を見て様子を確認したが、恵梨香はアニメに夢中になっていた。その様子を見て佐伯はまた作業を続けていた。
また段ボールを冷蔵庫の前に運んだ時、アニメはエンディングを迎えていた。佐伯は作業を止め、恵梨香に近づき「いかがでしたか?」と声をかけた。恵梨香は笑みを浮かべながら「面白かったです」と言った。佐伯はふふと微笑んで「そうですか、よかったです」と返した。続けて「どうしますか。次はまた同じシリーズのものにしますか、それとも違う種類のものにしますか」と尋ねた。すると恵梨香は机の上に広がったものを見渡しながら数秒悩んでから「違うものにします。そのためのトレーニングですよね」と質問口調で答えた。佐伯は「そうですね」と言って机の上に並んでいた先程とは違う種類のアニメのDVDを手に取った。そして「でも焦ったり不安になったりしなくていいですからね」と微笑を浮かべて恵梨香に言った。恵梨香は「はい、ありがとうございます」と笑みを浮かべて返した。
佐伯がテレビの前へ行きDVDを取り替えて恵梨香の方を振り返ると、恵梨香は自分の隣に置いてあった小さなクマのぬいぐるみを手に取ってじっと見ていた。
その様子を見た佐伯は目を細めた。そして唇を少し噛み締めた。
数秒間その恵梨香の様子を見ていたが、またテレビの方へ振り返り、再生のボタンを押した。
リビングにまた明るい音楽が流れ始めた。
佐伯はテレビから離れテーブルへ向かった。そしてそこから恵梨香を見つめた。
恵梨香はテレビをじっと見ていた。その太ももの上にはクマのぬいぐるみが置かれていた。その様子を見てまた佐伯は目を細めていった。そしてそのまま目を閉じた。
流れている明るい音楽で隠すように深いため息を吐いた。
「よし」
そう小さく呟いて佐伯はまた目を開き、冷蔵庫へ向かい作業を再開した。
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