第2章 佐伯 3
コーヒーの香りがキッチンからリビングまで広がっていく。
佐伯はじっくりとお湯を注ぎコーヒーを抽出していた。後ろからテーブルについた恵梨香からの視線を感じていたが、気にせずにゆっくりと抽出を続けていた。2杯分のコーヒーの抽出を終えるとカップに注いでいった。カップに注ぐとまた1段と香りが広がった。注ぎ終えるとカップを両手に持ってテーブルへ向かった。
不安そうな表情を浮かべた恵梨香が佐伯を見ていた。恵梨香は佐伯を見てはいたが目線は常に下がっており、佐伯と目は合わなかった。
「どうぞ」
佐伯はカップを恵梨香の前に置いた。そしてテーブルに置いておいた小さなグラスに入ったミルクとガムシロップ、水の入ったグラスを恵梨香の前に寄せた。
恵梨香が佐伯を見上げてまごつきながら「ありがとうございます」と言うと、佐伯は微笑を浮かべて「どういたしまして」と返した。そして恵梨香の向かいの席につきカップをテーブルに置くと、恵梨香をじっと微笑を浮かべたまま見ていた。
恵梨香がもどかしそうにもじもじとしていた。そんな様子が何回か続くと佐伯が声をかけた。
「恵梨香さんはまだお腹空いてませんか?」
それを聞くと恵梨香はビクっと体を揺らした。
「え…いやそんなことはないです…」
小さな声で返し、またすぐに下を向いてしまった。
佐伯はじっと恵梨香を見ていた。しばらくしてから恵梨香が顔を上げて「あの…」と話し始めた。佐伯は一瞬だけ恵梨香と目が合ったが、またすぐに目をそらされてしまった。そして机を見ながら恵梨香は言葉を続けた。
「…ノートを見たのですけれども…」
佐伯は微笑を浮かべて恵梨香に返事をした。
「ええ、僕が介護士の佐伯です」
佐伯は微笑を浮かべたまま恵梨香を見ていたが、恵梨香はおどおどとして視線を泳がせていた。その様子を数秒見つめてからまた佐伯が口を開いた。
「何から聞けばいいのかって感じですよね」
恵梨香がおどおどとしながら佐伯を見る。
「ノートを見てなんとなくご存知とは思いますが、改めて僕から説明させていただきますね」
そう佐伯が言うと恵梨香は佐伯をまじまじと見つめた。
その様子を見ながら佐伯は小さく息を吐いてから話し始めた。
部屋は再び静まり返っていた。
普段なら気付かない時計の音が感じられる程に。
恵梨香は顔を下に向けたまま動かずにいた。佐伯はその様子を微笑を絶やさずに見続けていた。恵梨香は下を俯いたまま次第に震え始めた。静かな部屋に微かにカタカタと椅子が揺れる音が聞こえてくる。
それを感じると佐伯は小さく息を吐いてからまた恵梨香に言葉をかけた。
「急に聞かされても不安で仕方がないですよね。わからないことだらけでしょうけれども少なくとも『今日』心配することはありません。恵梨香さんは今までの記憶を失ってしまっていますが、全ての記憶が失われてしまっているわけではありません。生活する上での記憶は残されています。例えば『会話すること』。こうしてお話しすることができていますよね」
恵梨香が佐伯の言葉から数秒遅れで反応し、口から思わず「あ」と小さく声がもれた。そしてハッとした表情を浮かべて佐伯を見た。
佐伯はその様子を見てふふと微笑み、少し間を置いてそのまま話を続けた。
「こんな風に『食事をすること』、『物を扱うこと』などの『生活すること』に関する記憶はしっかりとあります。安心して『今日』を過ごしてください。わからないこと、不安になることがございましたら私がサポートいたしますから」
恵梨香は唇を少し噛みながら佐伯を見ていた。
恵梨香の顔色が少し明るくなっていた。佐伯はそれを見ると「さあ、不安な気持ちで一杯でしょうが、今は食事を楽しみましょう。冷めてしまっては楽しみが減ってしまいますよ」と声をかけた。
恵梨香は自分の前に並んだ食事を見渡した。そして食事を見渡した後に佐伯を見た。佐伯は微笑を浮かべたまま恵梨香をじっと見ていた。恵梨香は恐る恐る自分の前に並んだトーストを手にとり、ゆっくりと口元へ運び、小さく一口噛みしめた。サクっと響きのいいトーストを噛んだ音がリビングに響いた。
「おいしい」
恵梨香がそうつぶやくと佐伯は小さく鼻で息を吐いた。佐伯の体から力が抜けて椅子に背をもたれた。
そして目の前の水のグラスを手に取り、一口飲み込んだ。
恵梨香はゆっくりではあったがテーブルに並んでいた朝食を平らげていった。
佐伯は既に食べ終わり、コーヒーをブラックで飲みながらじっくりと恵梨香が食べている様子を見ていた。
恵梨香がもうすぐで食べ終わりそうなのを確認すると恵梨香に声をかけた。
「朝食を食べ終えたらコーヒーを楽しんでください」
恵梨香はもぐもぐと動かしていた口を両手で覆い、急いで飲み込んでから「はい」と返事をした。
その様子を見て佐伯はふふと微笑んだ。
「コーヒーを飲むときはブラックのままではとても苦いのでミルクとガムシロップを入れて飲んでください。オススメはミルクはそのグラスの量をそのまま入れて、ガムシロップは半分ほど入れてください。それで残り4分の1位になったら残りのガムシロップを入れて飲んでください。きっとお口に合いますよ」
そう恵梨香に伝えると、恵梨香は「わかりました、ありがとうございます」と返事をした。そしてコーヒー、ミルク、ガムシロップの入ったカップやグラスを見ながらまた食事を続けた。
佐伯はそんな恵梨香の様子を微笑を浮かべたまましばらく見ていた。そしておもむろに「ごちそうさま」と言って立ち上がり、空いた皿をまとめてキッチンのシンクへ運んでいった。水道の蛇口をひねり、スポンジを手にとると洗い物を始めた。キッチンからリビングへ水道から流れる音と食器の重なる音が響いていく。シンクへ運んだ食器を全て洗い終えて後ろを振り返ると、恵梨香が朝食を食べ終えてコーヒーにミルクを入れていた。佐伯は水道で手に付いた洗剤を洗い落としてから蛇口をひねり、タオルで手を拭きながらテーブルへ向かった。
恵梨香はガムシロップの入った小さなグラスを傾けて少しずつコーヒーの入ったカップへ入れていった。少し入れるとグラスを水平にしてどのくらいガムシロップが入ったかを確認し、また傾けて少し入れることを数回繰り返していた。そして半分ほど入れるとテーブルへもどってきた佐伯をじっと見た。佐伯はグラスを持ったままこちらを見ている恵梨香を見てふふと微笑んで「そのぐらいです」と言った。そう言うと佐伯はテーブルに置かれたお箸やスプーンが入っている食器ケースからマドラーを取り出し恵梨香に手渡した。恵梨香はマドラーを受け取るとコーヒーのカップに入れぐるぐるとかき混ぜ始めた。
黒かったコーヒーに明るい白のミルクが混ざっていく。
佐伯はそんな恵梨香の様子を微笑を浮かべて横目に見ながら、残りの空いた食器を持ってキッチンへ向かい洗い物を始めた。
全ての食器を洗い終わり、最後にお湯を沸かした小さな鍋を洗った。洗い終えて洗剤を水で流していると、小さな鍋の側面が鏡面となって佐伯の顔を写した。
鏡面に写った自分を見ると、佐伯はそのままピタッと動きを止めた。
鏡面に写った佐伯は微笑を浮かべていた。
それを見た瞬間、佐伯の表情から微笑が消えた。そしてそのまま目をつぶり、唇を噛んだ。
流れてくる水道の水を手で受けながらしばらくそのまま動かずにいた。
その後長いため息を吐きながら、ゆっくり目を開いた。
そして鍋の洗剤を洗い落とし、水切り棚に置いた。
食器と鍋がぶつかり、ガシャンと音が鳴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます