第1章 恵梨香 6
街から少し離れると開けた草原となっていた。
エルサはたまに振り返るも、誰も追ってくる者はいない。
街の灯が段々と小さく、ボヤけていく。
街灯もない草原を駆けていく2人を月だけが照らしていた。静かな夜に2人の足音、服の擦れる音、吐息だけが響いていた。雲が微かに月の光を覆う時視界が薄暗くなるのと同時に、心も薄暗く不安が覆う。
今までの生活から抜け出して、何のしがらみもない新しい土地で自由に生きていきたい。そんな気持ちは常に持っていたが、同時に不安も常に持ち合わせていた。実際自分が見知らぬ土地で自由に暮らすことなんてできるのだろうか。ふと心が曇るとそんな不安にかられて怖くなってしまう。
そんな不安な気持ちから握っている手の力がつい強くなる。するとアダムは振り返らず、立ち止まらず、エルサの手を強く握り返した。
エルサは不安から解き放たれるのを感じた。
何も言わなくても、顔を見ずとも、自分の気持ちを、心を理解してくれていると実感した。
もう怖くない。
この人と、アダムと一緒ならばどんな困難でもきっと超えていける。
最愛の人が側にいてくれさえすれば他は何もいらない。
エルサは手をもう一度強く握り返した。
アダムとエルサは夜にとけていった。
後編に続く。
恵梨香は本を閉じてフーッと息を吐いた。
そして座っていたソファーにもたれ掛かって顔を天井に向けて目を閉じた。
目を閉じたのは目が疲れてしまったこともあるが今まで読んだ本の内容を頭の中で再生しようしていたためだった。
読んでいた本は佐伯から午前中に記憶を取り戻すためのトレーニングで紹介された『アネモネ』というタイトルの小説だった。
『アネモネ』はエルサという少女が不遇な生活をしていたところに1人の青年アダムが現れて2人は恋に落ち、自由を求めて旅立っていくといったストーリーだった。
言ってしまえば世間的にはよくある話のような内容だが恵梨香の心には深く残っていた。
世間的によくあるという意味は“世間的にたくさん出回っていてどこかで聞いたことのあるような”ということを指している。恵梨香はその枠には入っていないためこのような話が新鮮に感じられていた。
苦しい状況を誰かが救ってくれる、そんな展開への憧れを自分の未来に投影もしていた。
しばらく自分の世界に入り込み物語を回想していたが、ポーンと響く鈍い音が恵梨香を現実の世界に戻した。
音の正体は壁に掛けられていた時計だった。時計は23時を示していた。
恵梨香はそんなに時間が経っていたのかと感じた。
おやつを取ってからは夕食まではソファーに腰を掛けて読書をして過ごしていた。もちろん読んでいたのは『アネモネ』である。
佐伯が夕食の準備ができるから席についてほしいとお願いした時には、もうちょっとだけ、と切りのいい部分まで読み続けていた。
切りのいい部分まで読み終えると「ごめんなさい」と言って急いでテーブルについた。その様子を見た佐伯はふふと微笑んで「恵梨香さん、すっかり本に夢中になっていますね」と言った。恵梨香は「はい、先が気になっちゃって」と嬉しそうに答えた。
夕食では白身魚のソテー、サラダ、コンソメスープ、ライスが用意されていた。サラダは毎回彩豊かで綺麗に盛り付けられており恵梨香の食事の際の楽しみの一つになっていた。白身魚のソテーは白身魚に綺麗な焼き目がついて口にするまでもなく美味しいのが感じられるようだった。ソースには香草やニンニクが使用されているため香り高くさらに食欲がそそられる料理になっていた。付け合わせのポテトもホクホクに仕上がっており口の中で崩れていく食感が恵梨香を楽しませていた。恵梨香はポテトを口に含んだ状態でコンソメスープをスプーンで口に運び、ポテトに染み込ませて食していた。そんな様子を見ていた佐伯は「次からはスープにジャガイモを入れるようにしますね」と言った。それを聞くと、虚を突かれてつい咳き込んでしまった。恵梨香は自分の恥ずかしい部分を見られた気分になり頰が赤らんでいった。「急にやめてください」と言うと、佐伯はふふと微笑んで「ごめんなさい」と言った。
食事を終えると恵梨香の前に水が入ったグラスが出された。まじまじと佐伯を見つめる物寂しそうな恵梨香の表情を読み取ったのか、佐伯は「夜は眠れなくなってしまっては困るのでコーヒーはやめましょう」と言った。恵梨香はなるほどと思って「はい」と答えてからグラスの水を一口飲み込んだ。
その後少しゆっくりしていると佐伯から「お風呂の準備ができているので入ってください」と言われ、恵梨香は佐伯についていき風呂場へ案内をしてもらった。風呂場は一階にあり、リビングを出て右手にあるドアを開けた先にあった。恵梨香はこの日初めてリビング以外の一階の場所へ移動した。トイレは何回か使用したが、全て二階のトイレを使用していたため一階はリビングの先に行く機会がなかったからだった。
リビングの扉を開けて廊下に出ると恵梨香はつい周りをキョロキョロしていた。特に壁やドアに飾り付けなどはしておらず簡素な廊下だった。風呂場の他にドアが一つあり、廊下をさらに進んだ先には玄関が見えていた。玄関には一足だけ靴があり他には靴はなかった。そして一際目立っていたのが段ボールと発泡スチロールの箱であった。合わせて10箱程度の箱が置いてあり、恵梨香はなんだろうと疑問に感じつつも佐伯に案内されて風呂場のある部屋に入った。
そして佐伯は恵梨香に風呂場のシャンプーやボディソープ、タオルの場所などの簡単な説明をしてから出て行った。恵梨香は着ていた服を脱いでカゴに入れ風呂場に入っていった。シャワーを浴び、髪、体を洗うと恵梨香は湯槽に浸かった。暖かい湯に包まれて気持ちの良さを感じていた。だんだんと力が抜けていき、湯槽に全身浸かるとフーッと息を吐いて顔を天井に向けて目を閉じた。
目を閉じると、夕食前に読んでいた『アネモネ』の内容を思い出した。物語を回想し、この後どうなるのだろうと想像を膨らませる。すると登場人物のエルサとアダムを自分と佐伯で想像していることに気づき、ハッとして目を開いて湯槽に顔を沈めた。
恵梨香にとって想像できる顔のレパートリーが乏しいため仕方のない当然のことではあったが、恵梨香は何してるんだろうと恥ずかしくなってしまっていた。
その後恵梨香は湯槽から出てシャワーを浴びて風呂場を出た。そして置いてあるタオルで体を拭き体を乾かすと準備してあったパジャマに着替えた。朝着ていたパジャマと色違いのパジャマであった。そして髪をドライヤーで乾かしてからリビングへと戻っていった。リビングに戻ってからはまた『アネモネ』の読書を始めた。
そして現在に至る。
思い返すと2時間以上を夢中で本を読んでいたのだなと恵梨香が感じていると後ろから佐伯の声が聞こえてきた。
「恵梨香さんまた本に夢中になっていましたね」
恵梨香が声に気づき、振り返ると佐伯が微笑を浮かべてこちらを見ていた。
「そうなんです、夢中で読み進めてしまって1冊読み切ってしまいました」恵梨香の声は明るく顔にも笑みが浮かんでいた。
「ふふ、それはよかったです。おもしろかったですか?」と佐伯が尋ねると、恵梨香は嬉々として「はい、おもしろかったです!もう続きが気になってしまっています!」と答えた。それを聞くと佐伯はふふと微笑んでから「そうなんですね。でももう夜も遅いので続きは明日にしましょう」と答えた。
恵梨香はそれを聞くと笑みの浮かんでいた表情が段々と曇り始めた。
「明日…」
忘れていた訳ではなかった。
ただ他のことに隠れて埋もれていて意識から外れていた。
『明日』、それは普通の人にとっては当たり前のように時間の経過で得られるものである。だが恵梨香にとっては違う。
恵梨香はその事実に再び直面していた。
『今日の私』は『明日の私』とは違う。
『明日の私』は『今日目覚めた時の私』。
つまり『今日の私』は…。
恵梨香の顔は下を向き、表情は暗く沈み、心の中は再び黒く染め上げられ始めた。
そんな恵梨香の様子を見て佐伯は恵梨香の肩に手を置き、「恵梨香さん」と声をかけた。恵梨香は手を置かれたことに気付きはしたが、反応はしなかった。
そして手を置かれたことで自分が震え出していることに気づいた。
『今日の私』がこれから行き着く先を想像して恐怖が自分を包み込んでいるのだ。今朝自分のことを聞かされた時にも恐怖は感じていたが、現在のものとは比にならなかった。
この大きな違いは経験と時間であった。
今朝自分のことを聞かされた時の恐怖は、自分が何者かも全くわからず自分がこれから何をしても意味がないのではないかという虚無感からくる恐怖であった。
だが、現在は1日を過ごし記憶が出来てしまった。
読書や食事などの生活での感じたこと、思ったことなどの経験の。
自分にとって唯一すがることのできる記憶が。
ほんの少しではあるが、『私』が。
そしてそれはまさに間も無く失われようとしているのだ。
恵梨香の現在の恐怖は喪失感への恐怖であった。
自分が恐怖に包まれていることを実感してから恵梨香はさらに恐怖を感じていた。
佐伯は震える恵梨香のソファーの横に座り、両肩をがっしり掴んで自分の方へ体を向かわせて「恵梨香さん!」と大きな声で呼びかけた。
恵梨香は体の動きの反動で体を揺らしながら佐伯の顔を見つめた。恵梨香の目には涙が浮かんでいた。そして唇を強く噛み締めていた。
佐伯はそんな様子の恵梨香を見つめて「恵梨香さん」と小さな、落ち着いた調子で声をかけた。
恵梨香は顔を下に伏せてから「こわい…」と呟いた。
佐伯は何も言わずに恵梨香の両肩を掴んでそのままでいた。
「このまま明日になってしまうことがこわいの…」
恵梨香の目から涙が溢れ落ちた。すると堰を切ったように恵梨香の口から抑え込んでいた言葉が溢れ出てきた。
「私は明日に行くことができない。このまま眠ってしまったら『今日の私』は残らないで消えてしまう。今いる自分は眠りに入ることで消えてしまう。それって『今日の私』はこれから死んでいくってことでしょう。そんなの…こわくてたまらない!」
取り乱す恵梨香。次第に声を荒げていき、声量も大きくなっていく。そして言葉にすればするほど恐怖が増していく感覚に襲われながらも、言葉を吐き出さなければ恐怖で押し潰されそうになる。そんな葛藤にかられてもう自分ではどうしようもなくなってしまっていた。
声を荒げていたのと涙の影響で息も過呼吸気味になってきた。恵梨香は顔を下に向けているのが苦しくなって顔を少し上げた。するとそれと同時に佐伯の両手が肩から背中に移動して、恵梨香の体は引き寄せられるように佐伯の腕の中に包まれた。
恵梨香は急な出来事にびっくりして思わず呼吸を忘れてしまっていた。
恵梨香は佐伯の首筋に額がつくような形で抱きしめられていた。
「恵梨香さん」
佐伯は囁くような声で呼びかける。恵梨香は佐伯のその囁くような声を耳元で聞いた。
恵梨香はドキッと心臓の鼓動が大きくなったのを感じた。そしてそれと同時に思わず小さく息が漏れた。そこで呼吸が止まってしまっていた自分に気づきハアハアと大きく、しっかり呼吸を始めた。
「僕は1ヶ月以上こうして恵梨香さんと一緒に暮らしています。その上で今日の恵梨香さんなら大丈夫とは言えません…。絶対大丈夫だなんて何の確証も約束もできないことは言えません。恵梨香さんもきっとそういう気やすめにしかならないことは本心で求めていないんだろうと思います」
恵梨香の両手は佐伯のシャツの裾をギュッと握った。唇を噛み締めながら佐伯の首筋に当てていた自分の頭をうずくまるようにさらにぐっと押し当てた。目を瞑るたびに涙が溢れ落ちていた。
「でもこれだけは約束します」
そういうと佐伯は再び恵梨香の両肩を掴み抱き寄せていた体をゆっくりと引き離した。そして顔を正面で向き合うような形でお互いがお互いを見つめ合った。恵梨香は目は赤くなり、涙で潤んでいた。鼻もヒクヒクさせて自分でもひどい顔をしていると鏡で見なくてもわかるぐらいだった。しかし佐伯は真剣な眼差しで恵梨香の顔を真っ直ぐに見ていた。その真っ直ぐに自分を見つめる瞳に応じるかの様に、恵梨香は自分の顔を手で覆ったり、涙を拭ったりすることはせずに真っ直ぐに佐伯の顔を見ていた。体は離れたが恵梨香の両手は佐伯のシャツの裾を握ったままであった。
「恵梨香さんのことは僕がわかっています。恵梨香さんのことは僕が覚えています。たとえ今日眠りについて明日起きた時に記憶がなくなってしまっても今日あったことは僕が絶対に忘れません。『今日の恵梨香』さんのことは『明日の恵梨香』さんに必ず繋げます」
恵梨香のシャツの握る手の力が強くなる。
それに呼応するかの様に佐伯の恵梨香の肩を掴む手も力強くなっていく。
「…そうして積み重ねていけばきっと光が見えてくるはずです。今日の努力が明日を作るんです。明日は今日が作り出す希望なんです」
恵梨香は数秒経ってから息を一飲みして小さな声で、消え入りそうな小さな声で「希望…?」と呟いた。
「そうです。明日のために…。明日を光を見つけ出す希望の日とするために今日は眠るんです」
「…」
恵梨香は何も言わずに佐伯を数秒見つめてから顔をうつむかせた。
そしてギュッと握りしめていた佐伯のシャツの裾をゆっくりと手放した。それを感じた佐伯は掴んでいた恵梨香の肩から手を下ろした。
恵梨香は大きく鼻で呼吸をしてから立ち上がった。顔はうつむかせたままであった。佐伯も立ち上がり恵梨香の背中に手をやった。
恵梨香は佐伯と一緒に2階の自分の寝室へと向かっていった。恵梨香と佐伯はその間言葉を交わすことはなかった。
ギシギシと鳴る廊下の音だけが響いていた。
部屋のドアを開けると恵梨香は真っ直ぐにベッドに上がり布団に入り込んだ。そしてパジャマの袖で拭ったばかりの涙の跡で腫れぼったくなった目で部屋のドアを開けて立っている佐伯を見つめた。
「おやすみなさい」
佐伯も恵梨香を見つめていた。
「おやすみなさい」
佐伯はゆっくりと部屋のドアを閉めていく。恵梨香は廊下から部屋に入り込む光を物憂げな表情で見ていた。恵梨香は光が消え去る瞬間を見るのが嫌になり、ドアの隙間が佐伯の体の幅より狭くなると目を閉じた。
恵梨香が目を閉じた時、佐伯が「恵梨香さん」と声をかけた。
恵梨香は目を開けて佐伯を見つめる。
佐伯は微笑を浮かべた優しい表情で呟いた。
「また明日」
恵梨香は唇を噛み締めて、一息飲み込み、震えた声で呟いた。
「また明日」
佐伯はそのまま部屋のドアをゆっくり閉めた。
廊下から入り込んでいた光が消えていき、部屋は暗くなっていった。ドアの隙間から廊下の光がほんのりとこぼれていた。
恵梨香はじっとその儚い光を見つめてからゆっくりと目を閉じた。
そして数分後に睡眠に入っていった。
恵梨香は『明日』に行くことはできなかった。
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