第1章 恵梨香 5

恵梨香は椅子に深く腰を掛け、天井に顔を向け、目を閉じて大きくため息を吐いた。そして目の前のコーヒーの入ったカップを手に取り一口飲み込んだ。恵梨香はまたコーヒーをちょっとしか飲めなかったが、今はお腹が一杯というわけではなかった。昼過ぎに行った運動で疲れてしまっていたのだ。そこまで激しい運動ではなく健康のためのエクササイズといったものではあったが、2時間近く運動を行ったためそれなりの疲労を恵梨香は感じていた。


恵梨香は朝食を食べ終えてゆっくりした後に記憶を取り戻すためのトレーニング、昼食、そして運動を行い、現在はおやつを取りながら休憩していた。

トレーニングの前に恵梨香は一度部屋に戻りパジャマから洋服に着替えていた。洋服はベッドの下の引き出しにしまってあると佐伯から説明されていたので引き出しを開けてそこから適当に選んだ洋服に着替えた。

脱いだパジャマは洗濯をするから廊下にあるカゴに入れておいてほしいと言われたのでカゴに放り込んだ。そのためのカゴか、と恵梨香は自分の中で納得していた。

記憶を取り戻すためのトレーニングでは恵梨香が昔見ていたというアニメ、漫画、本などを見ていた。

恵梨香と佐伯は朝食を取ったテーブルから移動し、前に大きなテレビとローテーブルがあるソファーに腰を掛けた。そして佐伯がローテーブルの引き出しに入っている漫画や本、アニメのDVDやそれらに関するキーホルダーやシール、小さなぬいぐるみなどのグッズを取り出して机一杯に並べた。

アニメ、漫画は女の子が好きそうな目の大きくて、髪の毛の色がカラフルな可愛らしいキャラクターが元気に動き回っているものだった。ストーリーもコメディチックな部分が多く、所々で愉快でおもしろくて恵梨香はクスクスと笑っていた。

こうして恵梨香が今までに楽しんだ昔懐かしいものに触れて記憶を取り戻すためのトレーニングを2時間ほど行っていった。だが面白いとは感じていたものの、懐かしいという感情は覚えず恵梨香の記憶とは結びつかなかった。

ただ小さなクマのぬいぐるみは手にとってからずっと太ももに乗せていた。小さな服を着た可愛らしいぬいぐるみであったが、少し年季の入ったものなのか、ぬいぐるみの毛は擦れてしまって手触りはゴワゴワとしていて色もくすんでいた。着ている小さな服も少し汚れて黒くなってしまっていた。

恵梨香がテレビやアニメを見ていて夢中になってしまっていたのかもしれないし、触り心地が気になって手持ち無沙汰になっていた両手を埋めるためだったのかもしれない。

ただ、手にとってからはずっと太ももに乗せていた。


そしてその後はテーブルに戻って昼食を取った。昼食はナポリタン、サラダであった。サラダは朝食に続いてまた彩豊かで綺麗に盛りつけられていた。ナポリタンは玉ねぎ、ピーマン、ソーセージ、マッシュルームなどの具材をケチャップで炒めたいわゆる昔ながらの喫茶店で食べるような一品であり、香ばしい香りが恵梨香の鼻をくすぐった。

朝食ではすぐに食事を楽しむような気分にはなれなかった恵梨香だが、昼食では佐伯が席に着くのを待ってからすぐに「いただきます」と言ってフォークを手に取った。ナポリタンを一口ほどの大きさにフォークで巻いて口に運ぶとケチャップの甘酸っぱさが口の中に広がった。恵梨香は思わず目を閉じて食の感動に興じていた。そしてすぐにもう一口、もう一口と食べ進めていると、佐伯からスッと紙ナプキンを差し出された。夢中で食べているうちにケチャップが恵梨香の口の周りを橙色に染めていた。恵梨香はそれに気づくとハッとした表情を浮かべた。口ごもりながら「すいません」と言って、紙ナプキンを受け取って口の周りを隠すように拭いた。その様子を見て佐伯はふふと微笑を浮かべていた。

食後にはまた佐伯がコーヒーを恵梨香の前に差し出した。小さなグラスに入ったミルクとガムシロップを隣に添えて。恵梨香はコーヒーをおいしいと感じながらも、今回もお腹が一杯で苦しくて少しずつしか飲めずにいた。佐伯はそんな恵梨香の様子を見てまたふふと微笑を浮かべた。恵梨香は恥ずかしそうに顔を背けて俯いた。そしてそれを紛らわすかのように「佐伯さんは料理がお上手なんですね」と言った。佐伯はまたふふと微笑んで「お口に合ったようで幸いです」と答えた。

少しゆっくりすると佐伯は運動不足にならないためにエクササイズを行うと恵梨香に言った。今は外に嵐が近づいているから室内で行うことにするといい、続けてそのため窓は全部シャッターを閉めていて家は閉め切った状態になっているということを説明した。

そしてリビングの床に佐伯はマットを敷き始めて佐伯と恵梨香2人分のエクササイズするスペースを作った。簡単にできるエクササイズではあったが2時間ほど行ったため恵梨香は疲労を感じてしまった。そんな恵梨香を見て佐伯は「お疲れ様でした、疲れましたね。おやつでもとって休憩しましょう」と言った。

おやつはフルーツタルトが用意された。いちごやベリーが乗っていて見た目でも楽しめる美味しそうなタルトだった。恵梨香はフルーツタルトを一口分フォークでとって口に運ぶと思わず目を閉じて口元が緩んでしまった。フルーツの甘酸っぱさが口の中一杯に広がって運動で疲れた身体に沁みていった。昼食で食べたナポリタンとはまた違う食の感動に浸っていた恵梨香であったが、ハッと我に帰る。

目の前に座っている佐伯が微笑を浮かべてこっちを見ているのがわかった。急に恥ずかしくなってまた顔を背けて俯いた。

「…あんまり見られると食べづらいですね」

恵梨香がそう言うと佐伯はいたずらっぽく微笑んだ。

「ごめんなさい」

恵梨香はふふと微笑んだ。

2人がおやつを食べ終えると佐伯はまたコーヒーを入れた。恵梨香はミルクとガムシロップを入れて飲んでいた。


そして現在に至る。

壁に掛けられた時計は15時30分を過ぎていた。

恵梨香は天井に顔を向けて、目を閉じてため息を吐いた。そんな姿を見た佐伯は「だいぶ疲れてしまったようですね」と声をかけた。恵梨香は「ちょっと疲れてしまいました」と眉を八の字にして困り顔をしながら微笑んで返した。

恵梨香はふと疑問を感じたので佐伯に質問をした。

「…私はいつも同じことをしているんですか?」

佐伯の表情が真顔に戻ったそして「どういう意味ですか?」と聞き返した。

「今日行ってきたことが今日だけのことなのか。それとも昨日の、今までの私はいつも同じことをしているのかがふと疑問に思ってしまって」

佐伯はなるほどといった様子で軽くうなづいてから「そうですね、基本的には同じような毎日を送っています。細かい内容については今までの様子などを踏まえて変えていってはいますけれども」と説明した。

それに対し、恵梨香は「そうなんですね」とだけ返した。その声は下り調子であり、最後の「ね」はほとんど消え入りそうな声だった。

「恵梨香さんはとても優しいですよね」

恵梨香の目線が佐伯から机に向こうとした時、佐伯がそう言った。

恵梨香は突然の佐伯の発言に思わず「え」と声が出て佐伯に目線を戻した。

恵梨香がまじまじと佐伯を見つめていると佐伯は言葉を続けた。

「恵梨香さんは毎日僕のことを褒めてくれるんです。料理のことだったり、言葉であったり。自分のことで一杯になってしまった時も僕を気遣って自分の心の中だけに留めたり。恵梨香さんは心優しい人なんだなって毎日感じています」

そう優しげな表情を浮かべながら佐伯はさらに言葉を続ける。

「他にも食事の時にいただきます、ごちそうさまをしっかり言ってくれたり、僕が席に着くのを待っていてくれたり。自分じゃ気づけないかもしれないですが恵梨香さんの心遣い、人柄が色んなところで表れているんです。自分がわからなくなっても1人で抱え込まないで下さい。僕を頼って下さい。そのために僕はここにいるんです。恵梨香さんのことは僕がわかっていますので」

恵梨香は心を見透かされたようで驚いたが、それ以上に佐伯の言葉が恵梨香に安らぎを与えていた。

恵梨香は「ありがとうございます」と目線を下げながら小さくお礼を言った。目線は下げていたが、気分は高揚していた。恵梨香の口元は緩ませながら唇を甘噛みしている。

恵梨香は毎日同じ生活をしていることを聞いた時、急に現実に引き戻されそうになっていた。昨日も、いや何日も、それまでの1ヶ月以上も同じ毎日を繰り返しているのに何も覚えていない。

自分が何者でもないことを改めて実感したのである。放っておけばいくつもの考え、疑問が頭を過っていき、そのどれもが自分を追い詰めるものであり、恵梨香の心はまた黒く染められていたはずだった。

そんな最中に佐伯は恵梨香に言葉を投げかけた。

佐伯の言葉が恵梨香の思考を遮ったことによって恵梨香の心は黒く染められず、不安と恐怖に押し潰されずに済んでいた。恵梨香は佐伯の言葉と気遣いに癒されていた。

恵梨香の様子を見た佐伯は微笑みながら話しかけた。。

「恵梨香さんの僕が接していくうちに知った内面的な部分はもちろん、他にも特技や癖とかもご家族から伺って知っていますよ」

「く、癖?」

恵梨香は思わず声の調子が上がり、わかりやすく驚いた様子を示した。

「はい」と答えながら佐伯はふふと微笑を浮かべている。「例えば…」と恵梨香の手元の方を見ながら続ける。「人見知りするタイプで初対面だと、どうしよう何を話そうと悩んでしまって下を俯いて目線がキョロキョロしてしまうとことか、手癖で膝の上で手をもじもじとさせてしまうとこだとか」

恵梨香はビクッと体を揺らした。そして虚を突かれたように固まってしまった。まさに今この時、膝の上で手をもじもじとさせていたのだ。そして少し遅れて恵梨香の表情が赤らんでいった。

その様子を見た佐伯はふふと微笑んで、さらに付け足す。

「あと恥ずかしがると唇を甘噛みしてしまうとことか」

恵梨香はまたビクッと体を揺らしてからすぐに両手で口元を覆って隠した。そして下を俯いて「わ、わかりました。わかりましたから!」と大きな声で恵梨香は返した。手で覆ったことで少し籠もった声を聞いて佐伯は「ふふ、ごめんなさい」といじわるく微笑んでいた。

その様子を恵梨香は俯いた状態で佐伯を軽くにらみながら「もう…」と自分にしか聞こえないくらいに小さな声で呟いた。

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