第1章 恵梨香 3

席についた恵梨香は机に並んだ料理を見回していた。焦げ目がついていない綺麗なハムエッグ、トマトやパプリカなどが添えられた彩り豊なサラダ、こんがりと小麦色に焼けたトースト。どれも美味しそうでつい手が伸びてしまうような料理が並んでいた。だが、恵梨香はそんな気分にはなることができなかった。

恵梨香は視線をあげる。その視線の先にはキッチンに立っている男がいた。男はじっくりとお湯を注ぎコーヒーを抽出している。コーヒーの香りがキッチンから机まで届き、恵梨香の鼻をくすぐった。

男はコーヒーを2杯分抽出するとテーブルへ向かってきた。「どうぞ」と言いながら恵梨香の前にコーヒーの入ったカップと小さなグラスに入ったミルクとガムシロップ、水の入ったグラスを置いた。

恵梨香は男と目を合わせることが出来ず、男の腰元に目線をやりながら少し間を置いて「ありがとうございます」と小さな声で言った。それを聞くと男は微笑を浮かべて恵梨香に「どういたしまして」と返した。そして恵梨香の向かいの席の椅子を引き、コーヒーのカップと水のグラスを置いてからそこへ腰を下ろした。

男は微笑を浮かべながら恵梨香を見ていた。男の優しい表情に対し、絵梨香は不安を露わにした表情を浮かべていた。恵梨香はチラチラと視線を上げて男を見るが、すぐに視線を逸らして下を見てしまっていた。膝の上で手をもじもじとさせ、話を中々切り出すことができない状態にもどかしさを感じていた。頭の中でなんて言葉で切り出せばいいのだろうかと自問自答を繰り返す。言葉を考えついては却下をする。その度に口も小さくもごもごと動かしていた。そんなことを何回も繰り返してまた下を向いた時に男は口を開いた。

「恵梨香さんはまだお腹空いてませんか?」

恵梨香はビクッと体を動かし、男を見た。「え…いやそんなことはないです…」と小さな声で返し、またすぐに下を向いてしまった。

『エリカ』…そう頭の中で反芻していた。


しばらくしてから恵梨香から男へ話しかけた。

「あの…」

顔を上げ、男を見た。だが男と目が合うとすぐに目をそらしてしまい、机を見ながら恵梨香は言葉を続けた。

「…ノートを見たのですけれども…」

それを聞くと男は微笑を浮かべて恵梨香に返事を返した。

「ええ、僕が介護士の佐伯です」

恵梨香はそれを聞くとまた口をもごもごと小さく動かし、視線を泳がせていた。次の言葉を探していたがなかなか見つけ出せずにいた。

佐伯と名乗った男は恵梨香の様子を見ながら「何から聞けばいいのかって感じですよね」と言いながら首を傾げた。続けて「ノートを見てなんとなくご存知とは思いますが、改めて僕から説明させていただきますね」と言った。

恵梨香は目線を上げ、佐伯をまじまじと見つめた。


「恵梨香さんは5年ほど前に交通事故にあったんです。意識不明の重体でした。そして搬送された病院で入院をして、身体の治療は順調に進んでいったのですが、意識がずっと戻らないままでした。その後、3ヶ月ほど前に奇跡的に目を覚まされたんですが、恵梨香さんは事故の後遺症で記憶喪失を患っていました。そしてさらに不幸なことに長く意識不明の状態であったことも起因して、その日の記憶が新たに定着できなくなってしまったんです。今日の記憶を明日に持っていくことができない、つまるところ、記憶の更新ができない毎日を現在3ヶ月間送っています」

恵梨香は不安げな表情を浮かべ、再び顔を下へ向けた。目線が安定せず瞳が揺れる。重くごくりと生唾を飲み込んだ。

恵梨香は自分が置かれている状況が自分の常識からかけ離れてしまっているために理解が追いつくことができなかった。

自分の記憶がない。

たしかに昨日までどのように暮らしていたのかを思い出すことができない。それどころか自分がどんなところで育ってきたのか、どんな風に育てられてきたのか、どんな人と関わってきたのかも思い出すことができない。そしてかけ離れていると認識した自分の持っている常識そのものが正しいのかがわからなかった。

まず自分の名前を自分と認識することができていない。そのため「恵梨香」という響きに違和感を感じてしまっていた。この場にいるのが佐伯と恵梨香の2人であるため、女性の名前が出れば自分のことを指しているのだとかろうじて理解している状況であった。

自分の記憶が全て失われてしまっていると聞かされてすぐに受け入れられるわけがない。そもそも話を信用するために必要な常識が自分には欠落してしまっているのではないかと考えてしまう。恵梨香は整理しようのない情報に溺れてしまっていた。

『エリカ』…そう頭の中で反芻していた。


佐伯はそのまま続ける。

「そのため、今は治療のために新しい情報を入れないようにして人里を離れて落ち着いた場所でゆっくりと生活をしているんです。私はそのサポートと身の回りの世話をさせていただいています。家族や知人の方とは記憶が戻った際に思い出す情報量の多さに恵梨香さんがパニックになってしまわないように今は接触を避けていただいています。これが恵梨香さんの今の状況です」

佐伯はそう言い終えるとまた微笑を浮かべた。

だが恵梨香は佐伯の表情を見てはいなかった。恵梨香は顔を下げたまま少し間を置いて、また重い生唾をごくりと飲み込んでから「はい」とだけ答えた。

答えはしたが、正直恵梨香の耳には佐伯からの説明は入っていなかった。

ノートで予め知っていた内容ではあったものの、改めて自分の境遇を聞かされて心の中が不安と恐怖で満たされて真っ黒に染め上げられてしまっていたからだった。

記憶を全て失ってしまって自分の中身が空っぽになってしまったような喪失感。それと同時に、明日へと『今日の自分』を連れて行けないことへの絶望感に苛まれていた。もし仮に今日1日を生きたとしても『明日の自分』に『今日の自分』は存在していないのだ。言ってしまえば、『今日の自分』は今日の内に死ぬのだ。そしてそれは毎日繰り返されていく。『明日の自分』もまた今日と同じように心の中を真っ黒にしていずれ死んでいくのだろう。そう恵梨香は悟っていた。

恵梨香の暗く沈んだ様子を佐伯は顔色を変えずに見ていた。恵梨香が次第に絶望感に苛まれ、体を震わせ始めた。すると佐伯は微笑を浮かべたまま、また口を開いた。

「急に聞かされても不安で仕方がないですよね。わからないことだらけでしょうけれども少なくとも『今日』心配することはありません。恵梨香さんは今までの記憶を失ってしまっていますが、全ての記憶が失われてしまっているわけではありません。生活する上での記憶は残されています。例えば『会話すること』。こうしてお話しすることができていますよね」

恵梨香は数秒遅れで反応し、口から思わず「あ」と小さく声がもれ、ハッとした表情を浮かべて佐伯を見た。

佐伯はその様子を見てふふと微笑み、少し間を置いてそのまま話を続けた。

「こんな風に『食事をすること』、『物を扱うこと』などの『生活すること』に関する記憶はしっかりとあります。安心して『今日』を過ごしてください。わからないこと、不安になることがございましたら私がサポートいたしますから」

恵梨香は唇を少し噛みながら佐伯を見ていた。不安な気持ちから少しだけ、自分が何者かわからずどうしようもなく不安な気持ちから少しだけ救われた気がしていた。

「さあ、不安な気持ちで一杯でしょうが、今は食事を楽しみましょう。冷めてしまっては楽しみが減ってしまいますよ」

そう佐伯が恵梨香に声をかけると、恵梨香は自分の前に並んだ食事を見渡した。見渡してから佐伯を見ると微笑を浮かべてこちらを見ていた。恐る恐る自分の前に並んだトーストを手にとった。焼き立ての温かさが手に伝わってくる。そして芳醇な香りが恵梨香の鼻をくすぐった。いい香りだ、美味しそうだ、と感じた。ゆっくりと口元へ運び、小さく一口噛みしめた。サクっと響きのいいトーストを噛んだ音を耳で感じた。

「おいしい」

そう小さくつぶやいた。

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