第5話(つづき)

 土曜日の居酒屋の混み具合は、平日に比べると異常だ。


 接客業とはいえ、いかに裁けるかが大事だった。丁寧に接客しているものの、心の中では、早くしてくれないかとせっかちになってしまう。決まってもいないのに、店員を呼んでその場で注文を決めだしたり、四、五人で別会計を要求してきたりする客は最悪だ。時間がもったいない。

 

 今日もそんな客ばかりを相手にし、料理を運んでとせわしなく働いていると、既に二十一時を回っていた。店自体は夜の〇時閉店なので、あと三時間を乗り切ろうと、なけなしのやる気を振り絞る。


 すると、ピコーンと来店音が鳴った。急いで会計を済ませて、出迎えに上がる。

 

 来た客はいかにも大学生風情の男女だった。もう既に飲んでいるのだろう。気前よく「五人です!」と向こうから言ってきた。


 僕は空いているテーブルを確認し適当に通す。その間にも注文のボタンが数件押されていたので、「あちらの席にどうぞ」とだけ言い残して先に注文を取りに行った。


 注文をさばき終え、先程案内した大学生グループに、おしぼりとお水を渡しに行く。


 男三人、女二人のグループだった。いつもざっと客層を確認するが、顔までは見ない。そんなこと気にしていても仕方ないし、第一、五十席もあるためいちいち覚えていられない。 


 この間にも、注文やら会計やら配膳やら、やらなければならない仕事が山積みだ。さっさと置いて退散しようとしたそのとき。


 「菅谷くん……?」


 女性の声でそう呼ばれた。僕はビクリとして声の方向を見る。


 「久しぶり」

 「え……。あ、小泉さん……」 


 数年ぶりに発した単語。鼓動が早まる。


 「桜の知り合い?」

 「まさか彼氏?」

 「いやいや、彼氏は俺だろ?!」

 「適当言うな!」


 正面に座っていた男子学生が小泉さんに尋ねるようにして勝手に盛り上がっている。


 こんな奴らとつるんでるのか?しかも、桜、と呼んでいることに無性に腹が立つ。


 「うん……。知り合い」

 「ごゆっくりどうぞ」


 僕はその場にいるのが堪えきれなくなり、そう言い残して立ち去った。


 まさか。まさか小泉さんと会うなんて。動揺が抑えきれなかった。どうしていいか分からなかった。


 黒髪だった髪は透き通るような、綺麗な茶色になり、パステルカラーのシフォンを着て、いかにも女子大学生という風貌になっていた。


 態度も、僕といるときよりか、幾分おとなしくなっているようにみえた。綺麗な女性になっていた。でも正真正銘、小泉さんだった。

 


 そのあとのバイトは全く集中できなかった。


 小泉さんがいるテーブルに、注文を取りに行ったり配膳したりしたが、それ以降関わることはなかった。


 僕と別れてからのこと、今何をしているのか、聞きたいことは山ほどあった。僕の唯一の居場所。しかしそれはもう過去のこと。でも、それでもと、この先を考えてしまう。

 


 午前〇時。ラストオーダーも終え、客を退散させる。身体と脳みそがまるで同じ居場所にいないが、気が付けば身にしみた動作を淡々とこなせていたみたいだった。


 店長にあいさつをして店を出る。望月さんにも一応あいさつをする。


 「おつかれさま」

 「おつかれさまです……」


 会話は必要最低限しなくなった。それでよかった。隙を見せれば、またどこからこじ開けられそうになるか分からない。僕は素っ気なく言い、店を出る。


 ガス管やらオイル缶、瓶の箱をよけて扉を開ける。すると、店の入り口に小泉さんが立っていた。


 「おつかれさま。出待ちしちゃった」

 「久しぶり」

 「あのさ、これから時間ある?」


 明日も朝からゴミ収集のバイトだったが、断る理由には値しない。寝る時間を惜しんででも、この誘いは断ってはいけないと思った。


 「大丈夫」

 


 僕らは深夜まで営業している純喫茶に入った。薄暗い店内にカウンター席とソファ席が二席あるだけのこぢんまりとしたところだったが、大人の隠れ家みたいないい雰囲気のお店だった。


 マスターの他に一組お客さんがいたので、僕らは空いている方のソファ席に向かい合って座る。


 「まさか、バイト先で会えるとは思ってなかった」

 「うん、僕も」

 「元気だった?」


 元気だったかと聞かれると、いつもどうだったかと考えてしまう。失った居場所のことばかりを思っていた日々が元気だったかと考えると、答えに戸惑ってしまうが、とりあえず、生きているということでいいのだろうか。


 「うん、元気だったよ。小泉さんは?」

 「大丈夫。なんとかね」


 そこで頼んでいたコーヒーが運ばれてきた。茶色の水面に小さな明りが反射している。少し沈黙が続くが、この沈黙の居心地の良さも懐かしかった。


 「今は大学生?今日来てたのも同じ大学の人?」

 「そう、お茶の水の大学通ってる。菅谷くんは?」

 「僕は板橋区の大学」

 「そっか、お互い大学生になれて良かったね」

 「うん」


 そう言って小泉さんはコーヒーをすすった。それに合わせて僕も一口飲む。


 「その……あの時は、突然いなくなってごめん。ずっとそれを言いたかったの」

 「いいよ、生きててくれてよかった」

 「大袈裟だよ」

 「いや、本当に」


 本心だった。あんな家庭環境の話をされた直後にいなくなってから、僕は心配でたまらなかった。家も知らないし、学校も転校したと聞いていたし、電話も通じなかった。


 あれほど苦しく、そして自分の無力さを嘆いたときはなかった。もう生きててくれれば、そして幸せになってくれていればそれでいい。そう思っては眠りにつく日々を送っていた。


 「あれから、大丈夫だった?」

 「うん。塾はすぐ辞められたから良かったんだけどね。高校はずっと、不登校だった」

 「そっか……」


 カップを両手で握りしめながらうつむきがちにそう言った。ずっと近くにいたことを知らされて、僕は悔しさを覚えた。高校の残り一年半、行動にでていればもっと早くに会えていたかもしれないことに。



 それからしばらくお互いの身の上話をした。小泉さんはずっと不登校だったけれど、それでも通えるときに通い、自力で受験勉強をして進学し、今は上京して一人暮らしだという。今は教育学部で、先程のメンバーも同じ学部の人たちだという。

 

 それはまるで、この数年間の空白を埋めるかのようだった。

 

 穏やかそうな生活を送っているようでよかったと、僕は安堵する。

 しかし、それと比例して、僕の小泉さんへ対する思いがどんどんと湧き上がってきた。


 僕がどれだけ小泉さんのことを想っていたか、心配していたか、辛かったか、全てを話したかった。どうしてあのとき僕を捨てたのか、あれから僕は小泉さんがいない日々の中で、死んだように生きてきたと言うことを伝えたかった。


 「……小泉さん」

 「ん?」

 「僕はずっと会いたいと思ってた……」


 その瞬間、ダムが決壊したように全てが溢れた。


 「また昔みたいに会えたら嬉しいなって思ってて、ずっと。僕も小泉さんといる時間がずっと続けば良いなと思ってたし一緒にいるときだけが救いだったし今でもその気持ちは全然変わってなくて……。あ、なんか気持ち悪いこと言ってたらごめん。だけど、そのずっとそれを伝えたくて……」


 思い切って伝えた。身体中が熱い。気持ちが昂ぶり過ぎて、気持ちに言葉が追いついてこなかった。全然こんなのじゃ足りないのだけれど、それでも僕の本心だった。人に対してこんなにさらけ出したのは初めてだった。


 「菅谷くんはさ、今、幸せ?」


 あのときのような質問―――もう失敗しないように、誠意を持って、自分の気持ちと向き合ってまっすぐに答える。


 「僕は今こうして小泉さんとまた会えて幸せだよ」

 「そっか……ありがとう」

 「うん……だからさ―――」


 小泉さんもきっと、僕と同じ気持ちであると思っていた。だからこうやってバイトが終わるまで、僕を待っていてくれたんだと思っていた。


 「あのね、私はね、今すごく幸せなの。大学に入ってちゃんと友達もできたし、過去の話をしても受け入れてくれるし。それにね……そういうのも分かってくれる恋人もできたんだ」


 ―――あ、そうなんだ。


 「高校生の頃は、自分の環境を憎んで、なんでこんな、私ばっかり苦しい思いをしなきゃいけないんだろうって思って、自分が幸せになれないのは周りのせいだってずっと思ってたんだけど。でも自分から行動すれば人生変れるんだって、良い方向にいけるんだって―――」


 ―――待って。


 「友達もそうなんだけど、児童施設行ったりボランティア行ったりして、辛い思いをしているのは自分だけじゃないって気が付いたとき、あ、私って、悲劇のヒロインぶって自分をかわいがってただけだって―――」


 ―――やめてくれ。


 「確かに私を悪く言った人たちのことは許せないし、今でも良い思い出ではないけど、でも、そういう経験があったから、今は人に優しく出来るし、そういう人の気持ちが分かるし、私と同じ経験をした子供達を助けてあげたいなって。だから、今はね、教育学をやっててね、あ、心理学とかもやってるんだけど、周りは先生になりたい人とかがやっぱ多いんだけど、私はね―――」


 「じゃあ僕はもう必要ないってこと?」


 ずっと、小泉さんと僕はどこかで繋がっていて、二つの孤独を一つの世界に丸め込んでそれでいい思っていた。おかしい。僕らは二人でいればそれでよかったじゃないか。


 「……そうだね。でも、菅谷くんといた時間はすごく楽しかったし、救われたし―――」

 「もういいよ」


 これ以上聞きたくなかった。


 目の前できちんと座って綺麗な未来を語っているのは、僕の知らない人だった。 

 事実をつきつけられて、僕らの世界は音もなく瓦解した。いや、僕らの世界ではない。僕が一人でずっと大切にしていただけで―――小泉さんはもうとっくの昔に抜け出していたのだった。


 「ごめん……。菅谷くんも、幸せになって」

 「うん―――」

 「絶対、から」

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