第5話
バシッと膝を叩かれる。
「終点ですよー」
不意のできごとに、驚いて目を開けると、車掌さんがそう言って走っていった。
どうやら眠っていたらしい。まだ半開きの目で周囲を見渡すと、いつもの池袋駅だった。重い腰をあげて電車を降りる。
ぼんやりとした頭を稼働させようと、ペットボトルの水を飲む。冷たい水が胃に染みこみ、少しだけ目がさえる。
山手線に乗り換えて新宿のごみ収集のバイト先まで向かう。車内はちらほらと乗客が座っていた。スーツ姿のサラリーマン、部活動に向かう高校生、横柄な態勢で眠っている若者―――。
今度は寝過ごすといけないと思い、イヤホンを差し直し、音量を可能な限り上げ、スマホの明かりで無理やり目を覚ます。
時刻は午前五時。画面の左上から通知画面をスライドして降ろしてくる。天気予報や今日のニュース、ZOZOTOWNのタイムセールの通知やらメルマガやら二十件も溜まっていた。
続けてTwitterにも目を通す。二桁のフォローで構成されたタイムラインは、昨晩見てからというもの、あまり更新はされておらず、アプリゲームやマッチングアプリの広告が流れているだけだった。
結局、ほとんど目を引くものはなく、スマホをポケットに突っ込む。僕にとって重要なことなど、電子世界にはないのだ。
池袋から新宿まで、なんとか眠気を耐えて電車を降りる。改札を出て、華金の名残りに酔いつぶれる人々を横目に、シャッターが閉まりきっている駅構内を通り過ぎて東口へ出る。
空はまだ日が昇っておらず、新宿にしては閑散としていた。とはいってもこれがあと三時間もすれば人でごった返すのだから驚きである。
歌舞伎町内にある事務所までは、ここから徒歩五分。まだ出勤まで時間があるので一本吸うことにした。
喫煙所もほとんど人はいなかった。左奥のスペースを陣取る。右端には、夜職をしていそうな男女が煙草を吸っていた。イヤホンをしているにもかかわらず、会話の内容が聞こえてくるほどの大声で話している。
「だってスタッフ全然コール入れてくれないし、でも自分から帰らせると次ないかもしれないし、まじやってらんない」
話している女の方は、僕と同年代ぐらいだろうか。髪の毛を明るい茶色に染め上げ、ぐるぐるとカールを施している。目には、バサバサとしたつけまつげと、カラーコンタクトが付いており、元の顔はほとんど想像がつかない。白い襟の付いた黒のワンピースに、高級そうなバッグ、ほとんどつま先にしか重心がなさそうな高いヒールのサンダルを履いている。
「まいちゃん頑張ってるもんね。偉いよ、偉い偉い」
そう共感の意を述べている男は、ストライプの入ったワインレッドのワイシャツに、黒のベストを着ていた。センタープレスの付いたパンツと、先のとがった革靴がきまっていたが、女性と同じく茶髪に染め上げ、ワックスでテカテカに固めた髪型から、ホステスと察しが付く。
「でも担当の誕生日来月だからそれまでに稼がないと、他の子に一位取られちゃうし。売上もあともうちょっとって言ってたからなぁ」
会話の内容が全く分からなかったが、僕とは別世界のことだと思い聞き流す。こういう世界で息をしている人たちもいるんだな、と。この人たちは一体何のために生きているんだろうと聞きたくもなったが、そんなできもしないことを、煙草と一緒に灰皿に押し当てて捨てた。
歌舞伎町の繁華街を通り抜けたところに事務所が入るビルがある。
普通のオフィスのようだが、寝床とシャワールームが完備されていて、仮眠を取ってからごみ収集にいき、シャワーを浴びてから帰れるようになっている。
セラミックの階段を上り、二階の事務所へ向かう。一日のスケジュールを確認した後、寝られることを考えると、少し安心する。
「おつかれさまです」
重い鉄の扉を開けながら事務所へ入る。
「おう、菅ちゃん」
そう僕を呼ぶのは、同じくここでバイトをしている笹原さんだ。
三十代前後の気前のいいお兄さんで、僕がバイトに入ったときに指導を担当してくれた人だ。月に二、三回しか顔は合わせないが今でも仲良くしてくれている。しかし、本職が何なのか、未婚なのか既婚なのかという個人情報は知らない。
他の人も皆そうだった。なんとなく、ここの人たちの詳しい情報を聞くことはためらわれた。
「今日も、いつも通り七時から同じルートだから。よろしくね」
そう、事務デスクでパソコンをたたきながら言ってきたのは常務の河合さん。笹原さんと同じく萌黄色のつなぎを着ているが、顔にかかる銀縁眼鏡と、ワックスで固めたオールバックから、この人だけは他の人とは違う威厳を感じる。
「分かりました」
それだけ言って僕は仮眠室へ向おうとすると、
「菅ちゃんさっそく寝ちゃうの?」
「すみません、昨日も居酒屋のバイトだったので」
と、笹原さんが聞いてきた。
嘘だ。昨日は優希さんと上野まで行っていた。しかし、変に話題の種を撒くと後々の回収が手間に思われたので、当たり障りのないことを言う。それに今は思い出したくない。
「そっかぁ。学生なのに毎日大変だね。ゆっくり休んで」
「すみません。ありがとうございます」
笹原さんが残念そうにつぶやく。少し申し訳ない気もしたが、僕の眠気はピークに達していた。まどろむ頭を下げて仮眠室に入り、私服のまま布団に寝転んだ。
十七時の時報は、まるで僕らの関係に終わりを告げるかのようだった。
「あ……そうなんだ」
彼氏がいると聞いて僕はそれしか言えなかった。
倫理的に、道徳的に、世間的に、人道的に。僕は良くないことをしていると思った。それと同時に、なぜこの人は彼氏がいるにもかかわらず僕を誘ってきたのかと思った。講義を一緒に受けること、喫煙所で会話をすること。それはまだ友達の範疇ではないかと思う。でも、レインボーブリッジもお台場も上野も、これらは果たして潔白な関係であるといえるのだろうか。
「ごめん……」
謝罪。
「先に言っておけばよかったんだけど、なんか言い出しづらくて……」
弁解。
「本当に、ごめんなさい」
謝罪。
例えば、外出するときに意識せずとも、電気は消していく。靴も履くし、鍵も掛ける。駅までの道はわざわざ調べずとも足は向かうし、駅のホームも迷わない。
これらは、習慣的に行なっている動作で、自動的に身体が動く。それらと同じだった。
僕は今までに人にしてきたように、意識せずとも、好き嫌いの判別をせずとも、習慣的に優希さんへの扉を閉めた。
「帰るね」
それだけ残して後にした。
この一ヶ月間がおかしかったんだ。平穏に保とうとしてきた僕が、つい隙を見せてしまったのが良くなかった。そうだ。これは僕のミスでもある。早めに気が付いてよかった。この一ヶ月は学習期間だったんだ。
いつものように鞄からイヤホンを取り出し耳にはめる。音楽を流すついでに、優希さんの連絡先も消しておいた。
「菅ちゃん?」
自分の名前を呼ばれ目を覚ますと、笹原さんの顔があった。心配そうな表情で僕を覗き込んでいる。どうやら出勤の時間になったらしい。
「すみません。起こしてもらっちゃって」
そういいながら体を起こそうとすると、自分が尋常ではないぐらいに寝汗をかいていたことに気が付く。着ていたTシャツも湿っていた。
「いや、まだ出勤時間じゃないんだけど、菅ちゃんすごいうなされてたから。心配になって起こしちゃった。大丈夫?」
笹原さんは本当に心配そうに僕のことを見つめる。
「大丈夫です。今何時ですか?」
「六時半過ぎだけど……。もう少し寝とく?」
「いえ、ちょっとシャワー浴びてきます」
「うん、わかったよ」
僕は自分の荷物を引っ提げてシャワールームへ向かう。七時の出勤時間にはまだ間に合いそうだったのでとりあえず寝汗を流すことにした。
シャワールームは人一人分の空間で、左側にシャワーが付いており、シャンプーやボディーソープといった洗面用品も付いている。洗面台も別で完備されており、ドライヤーや誰かが置いていったシェービング剤もあった。
ロッカーに荷物を置き、服を脱いでシャワールームに入る。
折り畳み式の扉を開け、ひんやりとした床に足を置くのと同時に目が覚める。お湯を出そうと、温度調節のノブをひねりシャワーを出すが、最初は冷水だ。足にかかりさらに覚醒を余儀なくされる。
全然、まだ大丈夫だ。まだ引き返せるところにいる。そう自分に言い聞かせる。考えるのはやめよう。とりあえず、今日の仕事を終わらせよう。
髪と身体を洗い、ドライヤーで軽く髪の毛を乾かし、つなぎに着替えシャワールームを出る。
相変わらずパソコンと向き合っている常務に、「いってきます」とあいさつをして事務所を出る。ぶっきらぼうに返されたが、いつものことだった。
笹原さんがすでに事務所の前に収集車を止めていた。
青色の車体には、ゴミとはほど遠い世界に住んでいそうな、白い鳥が描かれている。初めてまじまじとそれを見たが、特に気にも留めず助手席に乗り込む。今日もいつも戻り歌舞伎町の資源ゴミを回収する。
歌舞伎町は一般の資源ゴミより特殊なものが多かった。服や鞄など一般家庭のゴミと分類は一緒だが、コスプレに使用するような衣装だったり、靴や鞄も奇抜なものだったり、まだ使えそうな高級なものが多い。ごくまれに法に触れるのではないかという代物も出てくるが、見なかったことにして収集車に詰め込む。
あらかたのゴミを回収し終えて助手席に乗り込み、最後の回収場所に向かう。そこは少し離れた場所にあり、その間に一息つく。
すると、いつもは上機嫌に運転している笹原さんが、困った笑顔でこう言ってきた。
「俺さ、実は今日でここ最後なんだよね」
あまりに唐突な話で驚いた。仕事上だけの仲ではあるけれど、笹原さんとは仲良くさせてもらっていたため、なぜ今日まで話してくれなかったのかと、少し残念な気持ちにもなる。
「何でですか?」
「いや、全然たいした理由じゃないんだけど、そろそろ昼職就きたいなと思ってさ」
「そうなんですか……」
「時給が良いとはいえね、やっぱそろそろ身体にくるっていうか、まともな職に就いておきたいなと思ってね」
「おめでたいことですよ」
「いやいや、ありがとう」
相変わらず眉を下げながら明るい口調で答えてくる。
「世界はさ、自分が思ってるほど優しくないからね」
「え?」
僕は笹原さんの言っている意味が分からず、つい首をかしげてしまった。
「菅谷くんはまだ若いから分からなくてもいいよ。そのうちきっと分かるときが来るかもしれないし、まぁ分からない方が良いんだけどね」
やはりぴんとこなかった。僕にはまだ分からないと言われた手前、考えてもきっと無駄だと言うことは分かっていたが心当たりを探してしまう。
小泉さんを失ったことだろうか。あの僕の居場所がなくなってしまったことが、そしてもうきっと出会うことがないということが僕にとっての優しくない世界だとしたら、今この現実は優しくないということになるのだろうか。誰が、何が優しくない?やはり僕には分からなかった。
「ははっ、だからまだ考えなくていいってば。そのうちね、分かるときが来るかもってだけの話だから」
笹原さんにはお見通しのようだった。最後の収集場所に到着したので、考えるのを中断して回収に当たることにした。
日が昇りきって、ビルの隙間から日が辺りを照らし始めた午前八時頃、僕と笹原さんはゴミ収集を終えて事務所へと戻った。
「じゃあ、僕はこれで最後だから、今までお世話になったね」
笹原さんが、たくましい右手を僕に差し出してくる。握手の所作なんて慣れていないが、差し出されると、自然と右手を握ってしまうから不思議なものだ。
「こちらこそお世話になりました。新しい職場でも頑張ってください」
「ありがとう。菅谷くんもあんまり無理しないようにね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、おつかれさま」
そう言われ僕もシャワーを浴びて自分の荷物をまとめる。このあとは、ネットカフェに行って仮眠をとってから、また居酒屋のバイトだった。
外に出ると、新宿はやはり人混みと化していた。まだ、そこまで店もやっていないのに、一体どこへ向かっているのだろうか。せわしなく行き交う人たちの波に流されながら駅へ向かう。
今日は、九月にしては珍しく快晴だった。久しぶりに太陽を見た気がする。少し湿気は残っていたが、幾分か過ごしやすくなった。
スマホの画面を見る。午前八時半を指していた。これからネットカフェに行ってもよかったが、居酒屋のバイトは十六時からだし、まだ七時間以上もある。すこし寄り道してから行くことにした。
駅構内は通らず、南口へと向かう。
国道に沿って抜けて行き、FOREVER21や丸井を通り過ぎる。いつかの記憶を頼りにして、新宿御苑に辿り着いた。
入り口すぐの所にある、案内表示板を見る。バラ園、玉藻池、旧御涼亭……。全
てを回りきる体力はないと思われたので、近場の温室に向かうことにした。
温室までの道は、あまりメイン通りではないせいか、高い木々に囲まれ光が届きづらい場所だった。もう植物たちは冬に向けての準備をしているのだろう、紅葉が始まり、赤や黄色や茶色に色づいていた。
温室は洋館の横の丘陵の上に建っていた。温室と言うからビニールハウスのようなものを想像していたが、立派なガラス張りの建物で、博物館のようだった。
出口から吐き出される人を避けながら中へ入る。湿っぽく温かく、天井から壁から通路の端々に至るまで様々な植物が所狭しに並べられていた。不均等に見えてまとまって見えるインテリアのようだった。
それこそ、パキラやサボテンといったインテリアの植物から、カカオやレモン、バニラなどの食用植物もあれば、葉が一メートルはありそうなタイワンハマオモト、絶滅危惧種の植物など珍しい植物も生息していた。
初めての光景に、僕は眠気を忘れて観察していた。見たことのない植物ばかりで、自然の驚異を感じた。
「自然なんて、神様の気まぐれでできたようなもの」と、何かの小説に書いてあったことを思い出す。これらの植物がこれらの形であることはきっと必然で、珍しいと感じるのは人間だけだろう。必然。環境に順応してこのような形になった必然。
僕らの存在も必然においてこの形になったのだろうかと、誰が答えを出すでもない問答を即座に止める。このまま考え続けると、自己嫌悪に繋がるのは目に見えていた。
午前十時。温室だけにしようかと思ったが、結局御苑を一周した僕は、新宿から池袋の山手線で、少し眠ってしまっていた。朝の散歩は心地よかったが、やはり眠気は取れていなかった。
池袋駅の西口から出て、カラオケや飲食店が入あるビルの中へ入っていく。
ネットカフェは土曜日と言うこともあってか、少し混雑しているようだった。タッチパネルに表示された部屋表のほとんどが埋まっており、空いてるのはビルの最上階の数室のみだった。仕方なく両隣がいるパソコン付きの部屋を選択する。
最上階はクーラーががんがんに聞いており肌寒かった。ブランケットを使おうか迷ったが、室内に人間臭さが蔓延していたため、何となく躊躇われた。寝る分には問題ないだろうと思い自分の個室を目指す。
靴を脱ぎ、リクライニング式のソファに横たわる。スマホを充電して目をつむる。何も考えたくない。今はとにかく寝たかった。
隣の扉が開く音で目が覚めた。スマホの時刻を確認する。十五時半。五時間も眠っていたらしい。良かった。バイトに行くには丁度良い時間に目が覚めた。隣の人に小さく感謝した。バイトはあと三十分で出勤時間だったので、荷物をまとめて会計を済ませ、地下道を通って東口のいつもの喫煙所へと向かう。
今日は白い塔がよく見える。夕暮れの空を突き抜けるようにたたずむ姿は白壁の孤城のようだった。日差しを一心に受け止め、全体を薄く黄金色に染め上げている。なんだかめまぐるしい日々を送っていた気がするため、周りの景色に感情を覚えるのは気分がよかった。
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