第3話
同じ毎日を繰り返すことは、余計な労力を使わなくて済む。
朝起きて、カーテンを開けること。布団を直すこと。水を飲むこと。シャワーを浴びること。それから着替えて、荷物をまとめて大学に行くこと。それ以外のことはせず、淡々とやるべきこなす。
寝坊さえしなければそれだけで遅刻することはないし、遅刻をしなければ不安になることも心配事もないし、不安なことがなければ心穏やかに過ごせるし、もちろん余計な労力も使わなくていい。
こういう生活をなるべくするように、僕は心掛けている。もうずっと前から。だから今さらになって崩すことの方が怖かった。
入学当初、藤堂に誘われて宅飲みをしたことがあった。メンバーは、僕と藤堂、それから同じ学科の、今は全く関係を持っていない男子一人と女子二人。会場はその男子のアパートだった。
藤堂に誘われたとき、行くべきなのか、行かない方がいいのか迷った。
しかし、久しぶりにつるんでくれる人ができて、さらに宅飲みという響きに少し憧れもあった。大学生の資格を得たようなそんな感覚になった。そのときの僕は少し高揚していたと思う。
集合した僕らは、年齢確認をされることなく適当に買い出しをし、乾杯をした。
七畳のワンルームに五人はかなり狭かったが、これが宅飲みの良さなんだなと思った。大学生活を謳歌するとはこのことかもしれないと、そのときはまだ、明るい大学生活を夢見ていた。中学、高校と周りから着せられていた着ぐるみは、大学入学と同時に脱げていて、僕は新たな人生の始まりなのだと、信じきっていた。
お酒も回り、話もかなり盛り上がって、皆も僕も楽しんでいた。
名前も忘れたもう一人の男子がかなりハイになって、饒舌に場を盛り上がらせていた頃、誰かが王様ゲームをしようと提案してきた。皆乗り気だったので反対する者はおらず、割り箸でくじを作った。
結論から言うと、最悪だった。
節度の知らない未成年の大学生男女五人が宅飲みで行う王様ゲームなど、その文字の羅列を見ただけで、悲惨な末路が容易に想像できる。
命令はウイスキーやらテキーラのショットから始まり、男同士のハグ、女子同士のキス。それから服の脱がし合いに発展し、最終的には誰かが吐いていた。
僕はただただテキーラを消費させられ、藤堂はウイスキーと日本酒のちゃんぽんで早々にダウンし、他三人はよろしくやっていた。僕は、顔が真っ赤になって「うー」と「あー」しか言わなくなった藤堂を支えて、退散した。
宅飲みで今後役に立つこととして学んだのは、僕はそこそこお酒が強いということだけだった。男女で宅飲みをしていけない、王様ゲームをしてはいけないなど、他に学ぶことは多々あったが、それを今後活かす場に行くことはないと確信したので、ただただ無駄な時間だった。
藤堂をアパートまで引きずって、僕は駅に着く。終電はとうに無くむしろ始発のほうが近かったが、それでも一時間ほど待たなければならなかったので、四十分かけて歩いて帰った。そして、ベッドに倒れ込んでから次に起きたときには、しっかり講義に間に合わない時間だった。
こんな奴らにならないためにはと考えたとき、大学生の本分をまっとうするためだけの行動をしようと決めていた。
しかし、優希さんと出会ってから日常が少し変化していた。喫煙所で会えば一緒に煙草を吸うようになり、昼食も一緒にとることが増え、講義が被れば隣の席で受けていた。
ほとんど一人で行動していた僕は、最初こそ、不都合が生じるのではないかと思っていたが、特にそういったこともなく、二週間も互いの行動を見ていると、連絡をわざわざ取り合わなくても喫煙所や講義室で落ち合うことができた。
木曜日。今日は藤堂と昼食をとることを優希さんも知っていたため、いつもの牛丼屋に向かう。お昼時にも関わらず数名のお客さんだけのここは穴場だった。
キムチ牛丼の食券を買って、二人がけのテーブル席につく。普段だったら藤堂の方が先に来ているが、まだ姿がないため珍しいなと思う。
メッセージを送ってみる。が、すぐには連絡が入らない。そのうちにキムチ牛丼が運ばれてきてしまったので仕方なく食べることにする。
食べてる途中、何か違和感があると思っていたら、店内のラジオ放送が耳に入ってきていた。一人の時はいつも音楽を聴きながら食べていたし、藤堂といるときは藤堂の話を聞いていたため気が付かなかった。それと同時に一人でいることに気が付いた。
その途端、急に寂しくなってしまった。最近誰かさんと昼食をとることが多かったため、一人でいる時の動作を忘れてしまっていた。
慌ててイヤホンを差して音楽に集中する。
これが、普通なんだ。一人でいることが普通なんだ。まだ大丈夫、と自分に言い聞かせる。
結局食べ終わるまで、藤堂からの連絡はなかった。たまにあることだったし、おおかた、また女子と遊んでいるのだろう。まぁ、藤堂ならなんやかんやで単位も取れるだろうから、特段追って連絡することもしない。
喫煙所に行くと相変わらず昼休みの学生で溢れていた。空いている場所を見つけて吸おうとすると、
「やほー!」
と、ほぼ同じタイミングで優希さんが入ってきた。無言で手を上げてあいさつする。
「講義の宿題やってきた?」
「まぁ、一応」
「今日は私もやってきた!偉い?」
「普通でしょ」
「もっと褒めてくれてもいいじゃん、ケチ」
「ケチで結構」
いつも特にどうでもいい会話しかしていない。しかし、そのせいか、気を使わないようになっていた。
「今日講義のあとバイトだよね?」
「うん」
「そうだよねー」
今日は三限が終わったら十七時からバイトだった。言い方からして多分、何か提案してくる。
「じゃあさぁ、三限さぼらない?」
やっぱり。
「なんで?」
「ちょっと、もう卒論のことやっておこうかなと思って、参考文献欲しいんだよね。でも普通の本屋さんじゃ売ってないから、神保町まで行きたいなーって」
そういう理由だと少し断りづらい。二年生の後半から卒論に手をつけるのは早いなと思ったが、三年生になって就活を挟むとなると、見繕っておくだけでも進みが違うと思う。
確か歴史学科は一年生で所属ゼミが決まるから、そろそろ卒論のテーマを決めてくる頃なのだろう。
ちなみに、日本文学科は三年生からゼミ配属があり、僕は現代文学専攻のゼミを狙っていた。そういう意味では、僕の卒論の役に立つ参考文献も置いてありそうだったので、
「バイト始まるまでならだけど……」
「やった!」
と、了承した。
あ、でもと思う。
「せっかく宿題やってきたのに、もったいなくない?」
「そうじゃん!」
「やっぱ講義出る?」
「いい。これからはこういうことがあるかもしれないから宿題やってこない」
諦めるのはそっちなんだ、と思いながら、限界まで短くなった煙草を捨てて喫煙所を出た。
いつものように池袋まで出て、大手町で乗り換え、神保町まで辿り着く。大学を出た時間から計算すると、既に一時間ほど経っていた。
出口を迷いながらも地下から地上に着く。神保町は古書でかなり有名であることは知っていたため、趣のある古書店が並んだ街を想像していたが、意外にも普通のオフィス街だった。
優希さんが地図で検索しながら辿り着いた場所には、何軒か連なって古書店のある通りがあった。時刻は午後三時。バイトまではまだ時間の猶予があるので、端から覗いていくことにした。
一軒一軒はそこまで大きくなく、商店のようにこぢんまりとしていた。しかし天井まである棚には古びた本が大小関係なくずらりと並べられていた。
本という存在はなんでこんなに荘厳なのだろうとつくづくと思う。本屋も図書館も、小説や参考文献の場所に行くと、まるで雨の日のように、自分が少し高尚になった気がする。
これはおそらく、それらが知識の塊であって、内部に秘められているものが、いかに人々の歴史と情熱を重ねてきたものかを知っているからだろう。俗世とは切り離された美しさ。清潔で純な空間。僕を別世界に連れて行ってくれるものたち。
僕の青春を費やした作品の数々や、それに伴う文献は、まるで僕の生い立ちが並んでいて、アルバムを手に取るかのようだった。
目についた夏目漱石の参考文献を開くと、昭和に刊行されたもので年代を感じさせる香りがした。中には、多くの人の手に渡ってきたのだろう、鉛筆で書き込みがしてあり、それがまた良かった。
僕が現代文学のコーナーでペラペラと立ち読みをしたり背表紙を眺めたりしていると、さっそく優希さんがお会計をしていた。卒論に使えそうな文献があったらしい。
一軒目を出て僕はそういえば、と疑問を投げかける。
「優希さんって何について卒論書くの?」
歴史学科だってかなり分野は広いはずだ。日本だけでなく海外の歴史を専攻できるゼミもあった気がする。
「あー。えっとねー宗教チックな民俗学って感じかな。近現代の日本人の信仰について、みたいな」
かなりニッチな内容だったので驚いた。
「例えばだけど、沖縄県の「ユタ」って呼ばれる女性の神職者がいるんだけど、沖縄独自のシャーマニズムがあって、それが結構日常的にも取り入れられたりしてて……まぁなんかアニミズムとかと人間の信仰心との関係性、みたいな感じのこと。なんか恥ずかしいこれ」
かなり高度なことについて研究しようとしていた。
しかし、自分で言うのも何だが、僕らが通っている大学は一応それなりに名前のある大学のため、入試で入った学生もそれなりに成績のいい人ばかりのはずだ。優希さんといると、人は見た目じゃないとよく思う。
「なんでそれについて研究しようと思ったの?」
「めっちゃ恥ずかしいな。んー単純に、日本人って何で初詣のときに、神社に行く人とお寺に行く人がいるんだろうなって思って。まぁ、どっちかが正しいかっていうのはないかなと思ってるけど、無宗教とか無信仰とか言われている割には都合良く神頼みとかするよなーって」
確かにそうだなと思った。受験の時は神社に行くことが多かったりするし、逆にお通夜はお寺ですることもあるし、でも神棚も仏壇もあったりするし、神仏習合なのか、などと考えたが完全に専門外なので答えが出るはずがなかった。
そうこうしながら三軒、四軒と順当に回り、気づけば優希さんの鞄の中は参考文献でいっぱいになっていた。
「やばい、めっちゃ重い」
「買いすぎじゃない?」
「だってよさげなの多かったんだもん。」
冊数はそんなにないが、一冊が分厚いのでこれはかなり重い。
一人で持って帰れるのかと心配になったので、
「急ぎじゃなかったら、半分僕が持って帰って明日とか渡そうか?」
「本当に?それは感謝すぎる。恩に着る」
と提案し、そうすることになった。
まだ何軒か行っていない古書店があったが、バイトの時間が迫っていたため、池袋まで行って解散となった。
「ごめんね、その子達よろしく」
「了解」
「今日はありがとう、また明日ね!」
「うん、またね」
そう言って僕は優希さんの子達と一緒にバイトに向かった。
なんだかんだ余裕でバイトに間に合い、ロッカールームで着替えてスマホをいじっていると、
「おはようございます」
と、望月さんが出勤してきた。
「おはよう」
とだけ返して、またスマホをいじる。
そういえば、最近本を読んでいないなと思った。ちょうど、読んでいた本を読み終えたのと、優希さんと出会ったタイミングが重なり、新刊に手をつけていなかった。
しかし読みたい本が思い浮かばない。芥川賞も直木賞も興味が無いし、特に、ネットの「大学生が読んでおくべき小説一〇〇選」は信用に値しない。
もっと、誰かの「秘密にしておきたいけど死ぬほど良かったからオススメしたい」みたいな、とっておきの一冊が読みたかった。
「菅谷さんっ」
スマホを眺める僕に、着替え終わった望月さんが話しかけてくる。
「どうしたの」
「菅谷さんって、お酒とか得意なほうですか?
「なんで?」
余計なことには巻き込まれたくない。
「実は、今度うちで宅飲みするんですけど、友達に、どうしても男の子一人連れてきてってお願いされちゃって……」
多分、それがいかに愚かな行為かを教えてあげるのが、先輩としての義務なのではないかと思う。しかし、この子がどうなろうとあまり関係のないことだった。それと、当然僕はこの誘いには乗らない。
「ごめんね。僕あんまりお酒得意じゃないから」
「だ、だったらいてくれるだけでいいです!」
「そもそも、そういうの苦手なんだよね」
前回はなかなか食い下がらなかったので、今回は反論させまいと、ちゃんと拒否する。
「もしかして、宅飲みが苦手ですか?居酒屋だったら良かったりしますか?」
「ごめんね、宅飲みでも居酒屋でもなんでもいいけど、飲み会が嫌いだから行きたくないかな」
優しい口調で厳しいことを言ったつもりだったが、この子がそこを察しているのかは分からなかった。
「そうですか……。急に誘っちゃってごめんなさい」
「ううん、大丈夫」
ひとまず、諦めてくれたみたいで良かった。今後、またこの手の話が来ても行く気は無いので、もう誘ってこないこと祈って、ホールへ向かう。
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