第2話(つづき)

***


 一服を終え、僕と優希さんは続きの道を歩き出す。


 日が傾き始め、ビル群の明りが目立つようになり、高く聳えるマンションや、ビルのてっぺんに付いた赤いライトが、呼吸をするように点滅していた。


 この騒がしい都会の片隅で、穏やかな時間が流れていた。


 優希さんはフォルダに収めきったのか、写真を撮らずにのんびりと僕の少し前を散歩していた。


 車が送る風に、優希さんの金色の糸のような髪がキラキラとなびく。


 今ここにいるのは高校生の僕でも時が止まったままの小泉さんでもなく、大学生の僕と優希さんだった。 


 いつだって幻想は儚く、現実は横暴に目の前を塞いでくる。



 途中の休憩所から三十分歩くと、ようやくお台場が見えてきた。

 

 「もう着くから!ファイト!」

 

 優希さんは覇気を取り戻し、僕に声援を送ってくる。


 レインボーブリッジを渡りきり、出口を抜けると、見渡せる限りの砂浜が広がっていた。右には東京のオフィス街が、左にはダイバーシティトーキョーが輝いていた。


 そして、来た道を振り返る。


 そこにはライトアップされたレインボーブリッジがあった。


 ここから見るとグリーンに染まっていたが、それでも圧倒的存在感を放って君臨していた。


 「じゃーん!綺麗でしょ!今日の目的地はここでーす!」


 台場公園に到着し、まるで優希さんが作ったかのようなお披露目に、僕はパチパチと拍手を送った。


 入り口の看板を見た時点で、大体察しが付いていたので、薄い反応になってしまう。


 「もうちょっと感動してくれても良いじゃん」

 「感動してるよ」


 優希さんは僕の素っ気なさに頬を膨らませていたが、事実、すごいなとは思っていた。


 先程まで無機質な灰色だったビルは、光の粒をまといながら東京湾を彩り、黒々とした水面にもその粒子を漂わせていた。


 僕たちは、景色が眺められるベンチに腰を下ろした。


 五メートルほどの感覚で置かれているベンチの右隣では、カップルが景色を背にいちゃついていた。せっかくの景色が台無しなのではと、憤る。

 

 「いやー!歩いたね!」


 ぐーんと、両手を天に突き上げて伸びをしながら、優希さんが言ってくる。


 「うん、疲れた」

 「煙草吸う?」

 「吸っちゃおうかな」

 「悪になりましたなぁ」

 「じゃあ優希さんは吸わないで。僕は吸うけど」

 「何言ってんの!運動した後の全てを無に返す一本が至高なのですよ!」


 そう現代評論家のように言って、競うように煙草に火を付ける。吐いた煙が風と共に吹かれていく。


 すると煙草を吸いながら、優希さんが尋ねてきた。


 「静かでいいね。東京にいるのが嘘みたい」

 「そうだね」


 無音の東京。まるで、音だけがこの世界から消えていったかのようだった。


 「答えたくなかったらいいんだけどさ、貴幸くんの左手の傷、それ何かあったでしょ」


 煙草を吹かしながら優希さんが聞いてくる。僕は急な問いに戸惑った。傷のことは誰にも話したことがない。


 左手の人差し指の付け根から手の甲全体を走るように切り傷がある。縫ってあるので再生はしているが、元の状態には戻らないと執刀医からは告げられた。


 初対面の人にはよく聞かれることがあるが、めでたい話にも愉快な話にも繋がるわけではないので、曖昧にごまかしていた。


 僕の暗い過去。


 大学だって、同じ中学、高校の奴らがいないところを慎重に選んで、レベルを下げて入った。


 でも、唯一の居場所を失ったぼくの心の扉は閉ざされたままだった。


 藤堂にだって開いたことは一度もない。


 人間の底辺を散々見てきた僕からしたら、誰も信用するに値しなかった。


 だからこそ、気の緩みがあったのだと思う。


 出会ってまもない優希さんは、僕にとって、まだ信用するとか裏切られるとかそういう次元にいなかった。


 だからもし、嫌われたとしても別に良かった。



 だから僕は、数年間しまっていた小さな話をすることにした。


***


 夏休みが開けた次の日。


 恐れていたそれがやってきたのは、僕と小泉さんが一緒に登校するようになり始めていたときだった。


 小泉さんも僕と同じ電車を使っていたため、必然的に一緒に通うことになっていた。


 最初に僕が乗り、二つ先の駅で小泉さんが乗ってくる。


 それまではずっと音楽を聴いていた僕も、小泉さんが隣の席に座ると外すようになった。


 何を話すわけでもなく、お互いが持っている小説を読む。


 僕の今日の本は、夏目漱石の『夢十夜』だ。電車に揺られながら活字を追う。


 二駅先の駅に着く。


 いつもと同じ席に座っているので、すぐに僕に気が付いた小泉さんは、すんなりと僕の横に腰掛ける。


 「おはよう!」

 「おはよう」

 「何読んでるの?」

 「漱石の『夢十夜』」

 「面白いよね!私は第一夜が好き!」

 「僕も一夜が好きだな」

 「一緒だね!」


 そう言いながら、小泉さんも鞄の中から小説を取り出す。


 小泉さんはいつも黒革のブックカバーを付けており、何を読んでいるのか、外部からは分からない。


 「今日は何読んでるの?」

 「秘密」

 「何でいつも秘密なの」


 小泉さんはいつも自分が読んでいる本を教えてくれない。


 それなのに、オススメの本は教えてくれる。


 いかがわしい本でも読んでいるのかと思うが、紹介してくれる本は、決まって僕の好きな現代文学だったから、そこら辺に精通しているのだろうし、読んでいる本もおおかたそれらの本だろうと推測する。


 「そのほうが気になるでしょ?」


 小泉さんはよく分からない返答をしてきた。


 秘密と言われると確かに気になってしまうのが人間の性ではあるが、あまり追及しないのが常であった。



 オフィス街を歩き、塾に着く。僕は入り口の前で、大きく深呼吸した。


 ここ最近、一人でいたときよりも陰口を言われることが、そして露骨に白い目を向けられることが多くなったような気がする。


 それは恐らく、僕が小泉さんといるせいだろう。


 世間から嫌煙される者がしゃしゃり出ていれば、カースト上位陣が放っておくはずがない。



 以前、小泉さんに思い切って聞いたことがある。


 「僕といるとき、周りからの目とか気にならない?」

 「なんで?」

 「だって僕嫌われてるし、一緒にいることで、小泉さんにも被害が及ぶかもしれないじゃん。そういうの怖くないの?」

 「いいの。私も遅かれ早かれだから」


 と、言ってきた。どういうことだろうと思ったがそのときは気に留めなかった。


 「それに、皆が知っている菅谷くんと私の知っている菅谷くんは違う。菅谷くんは別に私に嫌なことしてくるわけじゃないし、私自身も、菅谷くんといるときは素の自分でいられるっていうか、楽なんだよね」


 その言葉に僕はどれだけ救われたか計り知れない。僕はそのフレーズを反芻し、もう一度深呼吸した。


 教室に入ると、いつもなら騒がしい室内が、しんと静まりかえっていた。違和感を覚えると同時に胸騒ぎがする。


 生徒達が、僕たちと教室の正面を交互に見ている。


 その視線の先を見る。そこには赤いチョークででかでかと相合い傘が書かれていた。


 傘の中には「菅谷」と「小泉」の苗字が書かれていた。それだけならまだよかった。


 さらに目を引くように黄色のチョークで「カップル成立!」と書かれ、それぞれの苗字から生えた矢印には、僕には、両親の離婚から姉のデキ婚までが書かれていた。


 そして小泉さんには。


 DVばかりの父親←近親相姦疑惑・Sくんと一緒にいる時点でやばいwww

 


 「え……」


 僕は呆然と立ち尽くしていた。


 現実離れしたその内容の一片も、頭に入ってこなかった。


 DV?近親相姦????単語が宙を舞う。周りの音が聞えない。


 ただ、心臓が警鐘を鳴らしているのだけは分かった。


 眼前の情報に、脳みその解析が追いつかない。これは何の話をしているんだ?


 はっとして、隣を見る。小泉さんは、小さく震えながら目を見開いて同じく立っていた。そして泣いていた。


 その時だった。


 僕はいつまでも極めて人道的であろうとしていた。


 どれだけ僕が傷ついても、周囲を責めない。誰かのせいにせず、僕の運命が環境が要因で、それを責められたとて、誰に矛先を向けようともしなかった。


 しかし、限界だった。僕の中でずっと押さえ込んでいたどす黒い感情が、吐瀉物のように吐き出された。


 全員死ね。


 黒板の隣で野次を入れていた奴の胸ぐらを掴んで頬を殴った。不細工な面が一層ひしゃげる。


 しかし、僕のひ弱な体格では、相手はぐらついただけだった。


 女子の小さな悲鳴が飛ぶ。誰かが「先生っ!」と言い、教室を出て行く。


 さらに、そいつから反撃をくらう。


 みぞおちに拳がめり込み、僕の足は一瞬地面を離れ、学習机を巻き込んで崩れ落ちた。


 あぁ、相手が悪かったな、と刹那に反省をした。


 左手に痛みが走る。見るとぱっくりと皮膚が裂け、血が滲んでいた。


 これは敵いそうになかった。一刻も早くここから逃げださなくては。


 僕は小泉さんの手を握り、乱暴に教室から飛び出した。


 自分自身の保身以上に、小泉さんをこの空間に置いておくことができなかった。


 他の生徒が驚きながら僕らを見てくる。


 遠くで先生が怒鳴っている声が聞えた気がした。


 が、そんなことはお構いなしに廊下を駆ける。


 まだ、頭の中では見慣れない単語が浮いていた。


 しかしそれはあとだ。


 今は、彼女を一刻も早くこの場所から引き離すことが最優先だった。



 塾を出てオフィス街も駆け抜けて、気が付けば海まで一気に走ってきていた。


 こんなに走ったのは久しぶりなうえに、焼けるような日差しで、僕らは肩で息をしていた。


 ひとまずこの暑さをしのぐために、廃墟になった海の家のベンチに小泉さんを座らせる。


 僕は自動販売機で炭酸ジュースを二本買い、一本を小泉さんに渡す。


 「ごめんね……。手、大丈夫?」


 蝉と波の音に掻き消されそうなほど小さな声で、小泉さんが聞いてきた。


 「大丈夫」


 ハンカチで止血をしたため血は止まっていたが、ジンジンとした痛みは脳天を突き抜けていた。


 しかし、小泉さんのほうが僕のこの痛みよりも何倍も辛い思いをしたはずだ。


 目の前では、残暑の日差しが海を照り輝かせていた。


 波が不均等に行き来し、その度に暗く色づく砂浜を、沈黙の中で見守る。先程の喧騒からはまるでかけ離れた世界で、二人は黙って座っていた。


 「菅谷くん……」

 「何?」

 「黒板のこと……、あれ本当なの」


 静寂にぽつりと小泉さんが呟くように言う。


 「そう、なんだ……」


 僕はどうしていいか分からなかった。何から話していいのか、何かを話していいのか。迷ってしまって何も言えない。


 「無理に話さなくていいよ」

 「ううん、今まで菅谷くんにはお世話になったから。ちゃんと話すね」


 小泉さんは泣いていた。華奢な肩を震わせながらも、ぽつぽつと話してくれた。


 中学の頃親が離婚した。原因は父のDVだったという。それは母親のみならず小泉さんも対象だった。


 会社では管理職をしているエリートだが、家庭に入ると一変した。普段は温厚な父親だが、テストで悪い点をとった、帰りの門限を破ったなど、少しでも父の怒りに触れると、外見では分からないところに器用に痣を作られていた。


 さらには、服を脱がされてDVをされることもあった。何度か抵抗したものの、歯向かえばさらにひどい仕打ちをされるだけで従うほかなかった。


 母が一度、児童相談所に言ったが、問題の父は相談員の前では猫を被り、愛想良くしているため気付かれたことがなく、また、次に口外するようなことがあったら、と常日頃から脅されていたため、それ以上外部に助けを求めることができなかった。


 最終的に中学三年生の頃、母方の叔母によってその事実が晒され、両親が離婚した。父親も、精神的に崩壊していた母親も親権を拒否したため、高校入学と同時にそのまま叔母夫婦に引き取られたという。


 そう話し終わると、小泉さんはおもむろにスカートの裾をめくりだした。何事かと一瞬息を飲む。


 「これ。小学校の頃、煙草で付けられたの。根性焼きってやつだね」


 その白く、細く伸びた左脚の太ももには、小さく皮膚がただれているところが数カ所あった。僕は息が詰まり何も言えなくなった。


 ―――僕はずっと味方だから。僕がそばにいる。僕が守る。いくつもの言葉が浮かんでは消えていった。


 小泉さんを救いたい。それは本心だった。しかし、自分自身すらも救えない僕が、小泉さんに対して何ができるのかと考えると、全てが無責任な根拠のない虚構にしか聞えなかった。


 また沈黙が続く。相変わらず、波は寄せては引いてを続けている。


 小泉さんはうつむきがちになっている。何か、何かを言わないと。


 波の音が僕を焦燥に駆り立てる。


 「ねぇ、どうしたら幸せになれるかな。もうこんなの嫌だよ」

 「うん……」

 「私、何か悪いことしたかな。望んでないのに生まれてきて、責められて。生きてて何になるのこれ」


 僕にもその気持ちは分かった。


 誰にも頼んでないのに生を落とされて、自分で死ぬなと教育されては強制的に生きていく。


 その過程で幸せに平和に生きている人もいれば、僕らみたいに環境のせいで苦しめられて、自分の存在意義が分からなくなる人たちもいる。


 不平等な世界。こんな狂った世界、早く終わってしまえばいいのに。


 「だからね、菅谷くんは私の居場所だったの。でも皆に知られちゃったから。これ以上私と一緒にいると、菅谷くん、もっとひどい目に遭っちゃうから。もう……無理だね」


 無理って、何が無理なのだろうか。


 「無理って何?」

 「これ以上私と一緒にいること」

 「そんなことっ―――」


 これからだって一緒にいれば、二人で一緒にいられれば、僕はそう何度願ったことか。そしてそれが、どれだけ僕らの救いになるか―――。


 「私、行くね!今までありがとう!」

 「え……」


 小泉さんは立ち上がって、くるりと回ったかと思うと、いつもの笑顔に無理矢理戻し、そう言った。いたたまれない気持ちになる。しかし、それに反比例して僕は何も言えなくなる。

 

 「今までありがとうね」

 「……」

 「最後ぐらい何か言ってよ」

 「最後だなんて……言わないでよ」


 僕だって小泉さんが僕の唯一の居場所だった。こんなにもあっさりと引き裂かれるなんて夢にも思わなかった。僕らは僕らの痛みを分かち合い、そうやってこの先も一緒に―――。


 「さっきも言ったけど、これは菅谷くんの身を守るためでもあるし、私自身の身を守るためでもあるの。だからね、しょうがないんだよ」

 「そうだけど……」

 「じゃあ、私行くね。今までありがとう」


 そう言って小泉さんは元来た道を去って行った。


 このとき、僕が追いかけていれば、下手くそでも、彼女のためを想って綴った言葉だと分かってもらえていれば、それだけで運命は変わっていたかもしれない。



 それから二日後、小泉さんが塾を辞めたことを知る。


***


 「その小泉さんは結局どうなったの?」


 遠くを見つめながら優希さんが尋ねてくる。


 「それ以降会ってない。連絡もつかないまま」

 「そうなんだ……」

 「転校したみたいなのは聞いたことあるけど、どこに行ったのかも分からない」


 今だって、小泉さんのことを思い出す。今彼女はどこで何をしているのだろうか。あの時、僕が嘘でもいいから彼女に寄り添う言葉を掛けられていたら、僕らの運命は変わっていたのかもしれない。ただ無謀に時が経って、僕はもう、小泉さんとは関係のない人間になってしまった。


 「想う相手が生きてるなら良いんじゃない?誰かの幸せを願えることもまた、幸せなことだよ」


 突然優希さんは、少し的外れで、それでも的を射ていることを言ってきた。


 「優希さんはずっと想っている人がいるの?」

 「まぁね。私の場合は本当にどこにいるかわかんないんだけど」

 「それって……?」

 「私の話はいいの!それよりもう暗くなってきたし、そろそろお開きにしよう」


 どれくらいの時間が経っていただろう。気が付けば辺りは真っ暗で、隣にいたカップルももういなくなっていていた。辺りは誰もおらず、僕らだけになっていた。


 スマホの時計を見ると二十時を指していた。最後にもう一本煙草を吸ってから、僕らはそれぞれの帰路についた。

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