第2話
電車を降り、大学までの道のりを歩く。今日もまた雨だった。空から落ちてくる水滴たちは、すべからくアスファルトに消えていく。
行きは下り坂のため登校しやすい。かといって今日も無機質な生活を送るだけで、そんなことはどうでもよかった。
昼休み前の時間。大学で昼食をとって三限の講義に行こうとする学生で、並木道はごった返している。狭い道のため傘と傘が時折ぶつかる。
うっとうしく鳴く周囲の音を入れないように音楽プレイヤーの音量を上げる。外のノイズをすべてかき消し、消えていく水滴たちのさまに集中する。
今日も、唯一の知人であり同じ学科の藤堂と昼食を取る。
一年生の頃、同じ県出身ということで意気投合し仲良くなった。二年生になり、お互いの登校日がかぶる木曜日は、昼食後に煙草に行く流れが恒例になっている。
近くの牛丼屋で昼食を済ませ、大学に戻り、一連の流れで喫煙所に行くと思っていると、
「悪ぃんだけどさ、今日すぐバイト行かなきゃだからもう帰んなきゃなんだよね!」
と、星が飛んできそうなウィンクをしながら顔の前で手を合わせる。
「居酒屋なのにこんな時間からバイトないだろ」
「そこは察っしろよ!今良い感じなんだよ!」
「じゃっ!」と言うと、藤堂はそのまま校門の方向へ走って行ってしまった。
思えば先ほど、「今度の女の子はいけそう」と合コンでの出会いから今に至るまでを牛丼を、ほおばりながら意気揚々と語っていた。
最近の藤堂からの話題といえば「彼女が欲しい」、「セックスがしたい」など中身のない内容ばかりだった。
一般の大学生なんてそんなものだろう。教室で騒がしい集団の話に耳を傾ければ、場所と時間を気にせずそんな話が飛び交っている。
高校生までの義務感のある教育課程を飛び出し自由を得たオスの考えることと盛り上がる話題なんて、そんな陳腐なものぐらいだ。
しかし藤堂は、そんなあからさまな経緯を話していたのに、なぜバイトでごまかしたのだろうか。ふと考えたが、どうでもよかったので、一人で喫煙所に向かう。
講義開始十五分前の喫煙所はとても混む。頭を下げながら入り口に溜まる学生の群れをかき分け、奥の空いているスペースへ向かう。
「はぁ」
そういえば、この後の講義の課題をやっていなかった。毎日のバイトづくしで、それどころではなかった。今日も三限が終わればまたバイトだ。先週、望月さんの誘いを断ってからというもの、彼女とは顔を合わせづらくなっていた。
我ながら、珍しくバイトに対して感情を起こしていると、周囲の視線に合わせて金髪の女性がこちらへやってきた―――それは隣の席の人だった。
先週は気が付かなかったが、よく見ると左耳もピアスでビッシリと覆い尽くされていた。
彼女は鞄からポーチを取り出し、ポーチから箱を取り出し、箱から煙草とZippoを抜き取り、火を付けようとする。
しかし、何回かZippoを擦っても火が付かないようだった。困っている彼女はキョロキョロと周囲を見る。貸してもらおうとしているのだろうか。
自分には関係の無い光景―――と思い視線をそらそうとしたそのとき、バチッと目が合ってしまった。慌ててそらしたときには、
「ねーねー!君さこの後の講義隣の席の子だよね!ライター貸してくれない?」
と、以前同様の明るさで詰め寄られた。
「あ、そうですよね。どうぞ」
一瞬しらばっくれようかと考えたが、不自然すぎるため、降参してライターを渡す。
受け取った手には、先週とは違う、黒を基調としたきらびやかなネイルが施されていた。
「サンキュー!助かった。ねね、その左手の傷どうしたの?」
左利きの僕は、つい左手でライターを差し出していた。
「いえ別に何も。昔転んでできただけです」
曖昧に答えてこの話題から逃げようと試みる。
「ダウト。転んだだけでこんな大きい傷になるわけない」
「いや本当にただの古傷なので」
あまり土足でズケズケと踏み込んできて欲しくなかった。嫌な感情が露呈しそうになり、煙と一緒に吸い込む。
「ふーん、まぁあんまり追及しないけどさ。もう痛くないの?」
「もう二年くらい前のなので」
「そっかぁ。じゃあ良かったね」
彼女はそう言いながら、煙をふーっと吐き出した。
何が良かったのか判別できないがとにかく話が終わったようなので、ライターを返してもらおう―――。
「そのライター良かったらあげますよ。オイル切れじゃ、煙草、吸えないだろうし。」
出先でライターを買うお金ほど不要な出費はないと知っていたので、そう申し出る。
「え、君はいいの?」
「まだ持ってるので大丈夫です」
実際、鞄の中にいくつか予備がある。
「いいのー!超助かる!家にめっちゃライターあって買うのためらってたからありがたい!ついつい、オイル切れてるの忘れて買っちゃうんだよねー」
「ならよかったです」
「じゃあさ、お礼にこれあげるよ!」
そう言って彼女は、自分のスマホを差し出してきた。
まさか、ライターのお礼がスマホになるわけがないと思い、固まっていると、
「連絡先!女の子の連絡先がゲットできるんだから!ほら!」
すると彼女は、自分の番号をつらつらと暗唱してきたので、僕は思わずスマホの連絡帳に番号を打ち込む。
その瞬間、彼女はにこやかに僕のスマホを奪い、自分の番号にワンコールして切った。
「これでオッケーだね。あ、私の名前は『ヤマモトユウキ』ね。「マウンテン」に「ブック」に「優しい」と希望の「希」で『山本優希』」
そうだ、そんな名前だった。しかし、ほとんど初対面の人の電話番号を入れるのは、少し抵抗があった。
煙草を吸うのも忘れてつったっていると、先ほどのにこやかさとは打って変わって僕をにらみながら、「打ち込め」という目線を送ってきた。
しぶしぶ着信履歴の番号に『山本優希』と打ち込み保存すると、満足そうな表情をした。
「そういえば君の名前なんだっけ」
「菅谷……貴幸です」
「漢字は?」
「くさかんむりに「官」、「谷」で「貴い」と「幸せ」です」
「貴幸って顔してる。よろしくね!私のことは優希でいいから!」
貴幸顔、という評価がよく分からなかったが、
「じゃあ、私行くから。ライターサンキューね!」
と言って煙草を捨てたかと思うと、手をひらひらさせて、颯爽と喫煙所を出て行った。
あれ、この後の講義一緒なのに。どこに行くのだろう。
おじさん先生の講義が始まってから一時間が経っていた。やり忘れていた課題については、冒頭で少し触れただけだったので、僕は無防備に話を聞き流していた。
それよりも、と先ほどの優希さんとのやりとりを反芻していた。なぜ連絡先を交換してきたのかまるで見当がつかなかった。まさか悪用?個人情報を売買しているとか。
しかし、だとすれば自分の連絡先や名前を明かしてくることはないだろう。だとすれば……と考えていたが、全ては机上の空論だった。
「じゃあ、今日はきりがいいからとりあえずこの辺で。課題はないけど次回はかなり進む予定だから覚悟しておくように」
教室からは歓喜と落胆の声が入り交じって上がる。そんな声をよそに、早々に荷物をまとめる。
念のため、今日のバイトのシフトを確認しようと思いスマホをタップする。するとメッセージが届いていた。
アイコンをタップし、内容を確認する。店長からだった。「今日は人足りてるし、菅谷くん最近おつかれ気味だから今日休みね!」とのことだった。
文章から全く悪意のない優しさが伝わってくる。実際、僕はこの人柄のおかげで今まで続けられている。
しかし、急に予定がなくなってしまった。早く帰ってもすることがないし、きっと自分の存在価値を模索するための鬱屈とした時間を過ごすことになる。一人の世界で息苦しくなる。どこか出かけようかと考えたがこの雨だ。出歩くのも億劫だった。
そう悩んでいると、鞄にしまおうとしたスマホが震えた。
今度は誰だ、と液晶画面をみると「山本優希」という文字が映し出されていた。さっそくすぎやしないかと思いつつも、教室をでて電話に出る。
「はい、菅谷です」
『あ!貴幸くーん?今日の講義さ、課題なんて言ってた?』
その時、なぜ連絡先を交換してきたのか分かった。それは講義をさぼってもなんとか単位だけは取ろうとして、いざというときの頼みの綱を探していたからだ。良いように扱われた事実に苛立った。
「今日は課題、無かったです」
『まじ?ラッキー!ってか、講義終わるの早くない?出ないかと思ってたんだけどもう終わったんだ?』
「早く終わりました」
出ないかと思ったのに、なぜ電話してきたのだろう。
『じゃあさ今から予定空いてる?四限ある?』
残念なことに予定はない。家に帰ってもただ無限に虚無な時間ができてしまうだけだった。しかし、雨というだけでも億劫なのに、ほとんど会話のしたことのない初対面のような人と行動を共にするのは、なんとか避けたかった。正直他人と過ごす時間は、疲れる。
「今日はこの後バイトがあるので―――」
と、僕が断りを入れようとした瞬間、
「ダウト」
「?!?!」
電話で話していたはずの優希さんが、僕の耳元でそう囁いた。突然の出来事とこの状況に、思わず距離を取る。
「驚きすぎじゃない?」
「驚かせすぎないでください」
「ごめんごめん、ちょっとからかいたくなっちゃって」
全く反省の色のない表情でスマホを鞄にしまいながら謝ってくる。この人にはパーソナルスペースというものがないのだろうか。
「じゃあ、行こうか!」
「え?」
面食らった僕の前を優希さんが歩き出す。本当に行くのかと思い立ちすくんでいると、優希さんは僕の腕を強く引っ張った。
「ほらー、行くの!」
駄々をこねる子供のようだった。まるでこの人が分からない。
姉の三歳の一人息子を思い出した。甥も自分が決めたことや興味のあるものに対しては、幼児ながらかたくなに譲らない頑固な性格だ。僕は一人暮らしのため、今はあまり会うことはないが、もうカーストは僕よりも高いところに位置しているように思える。
僕がまだ躊躇っていると、ついに優希さんはしびれを切らせたのか「行くぞ」という重圧のかかった睨みをきかせてきた。僕はしぶしぶ、
「分かりました、行きますから。腕痛いので離してください」
と、降参した。すると彼女は、
「わーい!やったー!」
と、嬉しそうな表情に戻った。
その、ころころと変わる表情に少しめまいがした。
この様子だと彼女の言うことには逆らえそうにない。行く前から先が思いやられる。しかし、家に引きこもっているよりはまだましかもしれない、と自分に言い聞かせ、そして半ば諦め、付き合うことにした。
「で、行くってどこに行くんですか」
そういえば行き先は言ってなかったなと思い、上機嫌に闊歩する彼女に問いかける。雨なのであまり遠くまでは行きたくない。すると今度はニヤリと笑い、
「秘密でぇす」
と、明らかに何か魂胆があるような解答をしてきた。やはり何か悪いこと―――と、考えたが、僕に失うものはあるかと自問した結果、特段何も思いつかなかったので、少し先を行く彼女を追った。
どこに行くかを明かされないまま、上り電車に連れ込まれる。誰かと電車に乗るのも、どこかに行くのも、音楽を聴かないのもあの時以来だった。
車窓にはぱちぱちと、雨が短い線になって打ち付けられている。まさに僕も現実に打ちのめされている最中だった。
「そういえば菅谷くんは何年生?」
窓の外の雨を見ながら、答える。
「二年生です」
「えー!一緒じゃん!タメ口でいこうよ」
そう言われ、普通に驚いた。幼さのないすっきりとした顔立ち、あしらわれたメイクの違和感のなさ。見た目の派手さも熟年した大学生だったからだ。年上だったら敬語は必須な感じはしたが、同学年ならと、少し気が緩む。
「こんな見ず知らずなやつ連れてないで講義出たら?」
「そういう真面目な話、今はなしね」
痛いところを突かれたようだった。しかし僕もフォローはしない。
「菅谷くんはなんで文学部なの?本好き?」
話題を変え、優希さんがまた僕の個人情報について尋ねてくる。
「まぁ、そんなとこ」
「じゃあ、なんでこの大学に入ったの?」
「それはっ……」
それは「約束だったから」なんて言えるわけがなかった。
「分かった!さては彼女だな?」
いきなり核心みたいなところを突かれた。
「でも、今私のわがままに付き合ってるということは、現在進行形ではないとよんだ」
「半分正解で半分はずれ」
「おうおう!それは気になりますねぇ」
現状はその通りなのでそういうことにしておいた。これ以上深掘りされても、気分の良い話に繋がらない。
「何も楽しい話じゃないから」
「へぇー。ケチ」
「ケチで結構」
そんな押し問答をしていると電車は終点の池袋駅についた。
薄く汚れた一番線の壁、鳩の糞まみれの点字ブロック、人がぶつかり合う改札の出口、天井の低い駅構内。バイトでなじみのある、いつもの光景。
しかし、いつもの光景のはずなのに、今日はいつもよりも周囲の雑音が気にならないように思えた。
「目的地は池袋?」
「ううんっ。ここで乗り換え!」
そう言いながら彼女は山手線内回りの掲示板を指差し、
「田町駅です!」
と、堂々宣言した。差した人差し指の黒いネイルが彼女の瞳のように爛々と輝く。
僕はもう完全に諦め、彼女の指示通りホームへ向かった。
山手線に乗り換えて、田町駅までの約三十分、彼女は僕のことを聞き出しつつも、自分がこの大学に入るまでの経緯を話してきた。
同じ文学部で学科は歴史文学科だということ。出身地は東京だけれど、両親の離婚をきっかけに中学高校は父親の故郷で過ごしたということ。大学はどうしても東京が良くて一人また東京に戻ってきたということ。
お互いのプロフィールは大体分かったが、肝心なところが分からないのも、またお互い様だった。
「よし!降りるよー」
田町駅について改札を出る。電光掲示板にぶら下がった時計を見ると十六時半を指していた。
「菅谷くん、体力に自信はある?」
「いや、ない」
「まぁ大丈夫でしょう!」
そう決めつけるのならなぜ聞いてきた?という疑問を飲み込み付いていく。
改札を右に曲がり、エスカレーターで地上に降りる。だいぶ遠くまできたせいだろうか。アスファルトは濡れていたが、雨は降っていなかった。
初めて降り立った田町駅は、オフィスと高級そうなマンションが建ち並ぶ、いかにも都内、といった印象だった。すれ違うのはエリートそうなサラリーマンや立派な制服をきた小学生、鮮やかなワンピースを着た女性。皆誇らしげな表情で、まるで僕とは正反対だった。
そんな光景を見ていると、将来、僕はちゃんとした大人になれるのだろうかと思う。世界に一人取り残された僕は、果たして幸せになれるのだろうか―――。
そんな漠然とした不安を、優希さんの後ろ姿で掻き消す。彼女は僕のそんな鬱屈とはうらはらに、まるで、これから凱旋にでも行くのではないかという、頼もしい後ろ姿だった。
「さっきさー、五人家族って行ってたけど兄弟?姉妹?」
芝浦工業大学を過ぎた辺りで、優希さんが歩きながらくるりとこちらに話しかけてきた。先程の電車での話の続きだろうか。
「いや、姉とその甥っ子」
「貴幸くんもうおじさんなんだ!そういう歳には見えないなー」
「そりゃ同い年だからね」
姉はいわゆる「できちゃった婚」だった。まだ姉が十九歳の頃、当時働いていたキャバクラのお客さんとの間にできた子供だった。しかし、結婚したものの長くは続かず、離婚し、甥の親権は姉になったため今は実家で一緒に暮らしている。
正直、甥のことは可愛がってはいるが、一家が崩壊しかけた要因だとも思ってしまっている節はある。事実、姉は今でも水商売を続け、僕が帰省したときなんかは育児のほとんどを押しつけてくる。三歳児はわがままで、まるで今僕の目の前を歩いている人のように、僕の手を煩わした。
それから二十分ほど歩くと、急にコンテナが見えてきた。
先ほどまでの清潔な光景とは打って変わって少し荒んだ工業団地だった。その後ろには港が見えた。おそらく東京湾だろう。さらに奥に聳えるビル群が自分のいる位置をわからせてくれる。
高級車やタクシーが通っていた道路も、いつの間にか運送トラックや貨物トラックに変わっていた。後部に積んだ大きな荷物を揺らし、ガタゴトと音を立てながら、頭上に広がる大きな橋へと吸い込まれていく。まるで運送会社のベルトコンベアを見ているようだった。
そして、鉄筋で組まれているその橋は、今まで見たこのとのない規模の大きな橋だった。
「これってもしかして……」
「そう!レインボーブリッジ!頑張って歩いて、目的地まであと少し」
そういう彼女の指の先には「遊歩道入り口」と「レインボーブリッジご案内」の二つの看板があった。
レインボーブリッジ。正式名称は「東京港連絡橋」。台場区と港区芝浦地区を繋いでいる全長七百九十八メートルの吊り橋で、「レインボープロムナード」とも呼ぶようだ。
レインボーブリッジに遊歩道があるなんて聞いたことがなかった。看板の年期や、荒んだ無人の受付から、昔は観光スポットとして使われていたのかもしれない。しかし、平日ということもあるのだろうか、僕ら以外にほとんど人はいなかった。
僕らの右手には電車と車が通っており左手には東京湾とビル群が広がっていた。柵の隙間から下をのぞくと、小さな遊覧船、フェリー、小型船がそれぞれのスピードで自由に走っていた。それに続き水面が形を変えて漂う。一体どこに向かっているのだろうか。
景色は良かった。一面のビル群。数々の有名なビルが所狭しに並べられていた。
東京タワー、豊洲、そして数年前にできたスカイツリーと、池袋のあの塔も一望できた。僕らが電車を乗り継いだ街々が、自分の視界の先に凝縮されていた。俯瞰してみると東京の小ささに驚く。まるで緻密に構築されたミニチュアアートのようだった。
ここからなら指先でつまんでチェスのコマのように操れそうだった。白とも黒と
も付かない灰色に塗られた駒たち。誰かの気まぐれで配置されたそれらは東京湾の盤面で大小様々だった。
さらにミクロの世界を覗き込もうとする。しかし、輪郭がぼやけて縞模様や幾何学柄にデザインされているようにしか見えなかったので、視界をざっくばらんに戻しながら歩みを進める。
先程まで僕の少し前を歩いていた優希さんは、そのひとつひとつに歓喜の声を上げて止まっては、スマホで撮影にふけっている。優希さんが立ち止まる度に僕も立ち止まっては、彼女の気が済むのを待つ、を繰り返していた。
僕には曇天の中の灰色の建造物にしか見えないが、優希さんは、まるで映えスポットに来ているかのようにはしゃいでいた。
もしかしたら、僕らは同じ景色を見ているようで実際は違う世界が広がっているのかもしれない、という根拠のない空想にふける。
人間は経験したことが全てだ。誰かと全てを共有することなんてできない。共感なんてできない。そうやって見えた世界も経験一つで変わる。優希さんはこの景色の中でどんな人生を歩んできたのかと、また少し気になってしまった。
「そろそろ休憩しよ」
半分ほど歩いたところで何カ所目かの展望台があったので休憩することした。入り口での会話のやりとりを思い出す。目的地まであと少し、と優希さんは言っていたがまだまだ終わりが見えなかった。
展望台とはいっても、有料の双眼鏡や自動販売機があるわけでもなく、ベンチと景色についての説明書きがあるだけのところだった。相変わらず、簡単には登れなさそうな柵が設置されている。
ふと優希さんを見ると、既に煙草に火を付けていた。それは、先ほど僕があげたライターだった。
「ここ禁煙って書いてあるけど」
彼女の座ったベンチには、大々的に「禁煙」と「No smoking」の文字が書かれていた。
「誰もいないからいいのよ。それにほら」
と、ひらひらと携帯灰皿を見せてきた。
確かに誰の迷惑になるわけでもないかと思い、ベンチに書かれた「禁煙」を挟んで彼女の横に座る。
煙草に火を付けて、ビル群を見据えながら煙を吐く。すると、まるでビル群からのろしが上がっているようになった。
優希さんの横顔を盗み見る。派手な風貌とは対照的に、憂いを帯びたまなざしで遠くを見つめていた。
やはり、僕と彼女にはこの東京が違う風に見えているのかもしれない―――優希さんには何が見えてる?―――そう聞きたくなる衝動を煙と一緒に飲み込んだ。
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