愛を証明することはできない。
@rabbit090
第1話
「やっぱり違うじゃん。」
何が?いったい何が違うというのだろうか。
そう思っていたら冷たい掌が私のほほを触っていた。
「何するの!冷たいじゃんか。もう。」だから強気なセリフを口にして最大限に照れている自分の感情を誤魔化す。絶対にばれないようにしなくては、だって私はあなたのことが好きなのだから。
まだ冬が終わったのかどうかよく分からない春のことだった。
いつもこの時期は衣替えに頭を悩ませていて、会社に行くとこんなに暑いのにまだマフラー巻いてるのかと意地悪な上司にはやし立てられる。
大体その空気になると職場のみんなが一斉にプクプクと口を押さえながら笑い始めて私は辛くなった。そう思って職場で親切にしてくれる先輩であり直属の教育係である
あなたは可愛がられてるのよって、気にしすぎでびっくりしちゃったわ、と。
こうなってしまったら私は一人でこの辛さを抱え込んでしまうしかなくなってしまった。だって私の周りの人間はみんなこの辛さを当たり前だと断言するのだから、きっとおかしいのは私なのだ。そう思い込んで楽になっていた。
「水野さん。」
「今日お茶くみの日じゃない?忘れてたでしょ。」
は、そうだった。
ここ最近ずっとよく眠れていなくて、何だか会社に行くのがだるくて、もう人の顔なんか見たくなくて、そんなことばっかり考えていたからか大事な仕事を忘れてしまっていた。
とても大事な仕事なんだ、これをこなさないとこの会社では生存できない。絶対的に求められる必要な事項なのだった。
本当は大した理由なんてないのに、私にとっては嫌われたくないという思いに直結する重大な事項なのであった。
「課長すみません。うっかりしていてお茶くみを忘れてしまっていました。」
だからすぐこの失態を一番気にしているであろう男に謝罪へ向かった。
「ウオホンっ!」
「………」
この沈黙のまま私は席へ戻る。
機嫌が悪い時は咳払いだけで機嫌を察してやらないといけない、そんな理不尽をはっきりと気持ち悪く私は感じていた。だが周りの人間は誰も違和感を覚えず順応しているように見えていた。
辛い辛いと思っていたら幸せが降ってくる、まさにそんなことが実際に起こってしまった。
その日はカラッと晴れ渡った木曜日で、私は週末になるまであと一日もあるのかとため息をついていた。
今日はもうマフラーをしていかないぞ、と決め込んでいたのに外に出てしばらく歩いていると風が強くマフラーが必要な程寒い日なのだった。
ああ、またやらかした。
もしかしたらまた馬鹿にされるのかもしれない、そんなことが頭をよぎり心がずしずしと重くなっていった。
「大丈夫ですか?」
急に声をかけられたようだった。
え、私に?何で?
私は全然大丈夫だし、どうしてそんなことを言うのだろうか、そう思っていると冷たい掌が私の手を掴んでいた。
「本当に大丈夫?顔、真っ青だよ。目の前を歩いていたら君が急に倒れるんだからさ、びっくりしたよ。」
その人はそう言って私に温かい飲み物を渡してくれた。
とても暖かく私はなんだかわけもわからず泣きそうになってしまっていた。だからびっくりと驚いたような表情で私を見つめる彼の顔がとっても近しい人のように感じた。その顔は他人だと突き放すような冷たいものではなく、ちょっと困ったという感じで目をまん丸くしながらでも私を愛おしそうな様子で見つめていた。
「大丈夫そうじゃないね。」
「時間的にこれから会社に向かうの?ちょっと無理じゃない?近くのカフェで休んでいこうよ。俺もついていくからさ。」
つかつかとそう言葉を言い切って私が立てるようになるのを待ってくれていた。
ありがたかった、とてもありがたかった。
実は以前にもそういうことがあって、その時は軽い貧血なのかもしれないと思っていたのだが、仕事が忙しく医者にかかることもしていなかった。
そもそも会社で倒れかけていた私を気遣ってくれる者など皆無でみんな何をそんなに熱心になっているのかと壊れそうな視界から疑問を抱いた目で見つめた記憶がある。
怖かった。ただ怖かった。今にも死にそうなのに誰も助けてはくれないという単純な事実が恐ろしかったのだ。
「はあー、落ち着いたね。もう体調も大丈夫そうじゃない?でも急に倒れたくらいだからしばらく安静にした方がいいよ。会社にも連絡はお互い入れたしね。今日はもうサボちゃってもいいかな…なんて。」
優しい笑いを私に向けながら砕けたセリフを口にする。
「あの…ありがとうございます。実は前にも倒れかけたことがあって、今度ちゃんと病院で診てもらいます。すごく助かりました。」
私が紡げる精いっぱいの言葉でお礼を伝えた。そしたら彼は、
「うん。俺もちょっと会社をサボれる口実ができたしウィンウィンだね。でも君の症状はちょっと軽く見られないから今度ちゃんと病院に行った方がいいよ。」
「はい…そうします。」
温かかった。
のどを通るコーヒーが体中に沁みていくような心地を覚えた。
「ここ、初めて来たカフェだったんだけど…コーヒー
そうやって会話をしている内にどんどん私達は昔からなじんでいたような感覚を得ていったような気がする。
少なくとも私はそうだった。
本当に溶けていくという言葉が適切だと思える程、私は沼にはまっていくようなというか、いやもっと爽やかな感覚なのだ、そう、10代の頃にしか感じられなかった興奮のようなものだと思う。
だから、
「ねえ、もうさ。今日はお互いサボっちゃおうよ。そうしてさ、俺車回すからドライブしようよ。」
そう言って彼はまた私の顔を見つめていた。それは自信に満ち溢れたというよりは少し不安なのだがでもお願いといったような可愛い感じのものだった。
「えぇ…。」
うれしかった。本当はとてもうれしかった。でも私は目の前にぶら下がっている甘い時間という選択よりも明日明後日と続くであろう現実の方が恐ろしく絶大な物としてそびえ立っていたのだった。
行きたい、だけど会社は休めない。
これは本音でどうしようもないものなのだった。でも、でも。
「………無理しなくていいよ。俺は思い付きで行動しちゃうタイプだからさ。周りの奴らにもよくからかわれるんだ。」
「………。」
「うん、行こうよ。ドライブ連れて行ってください。」
なんとなくこの機会は逃してはいけないというような直感が働いていて、私はどうやらそこから逃れられないようだ。
正直、こんな感覚は初めてだった。
私はこの感覚ははっきりと恋愛感情なのだと自覚していたが、異常だった。今まで経験してきた恋愛がただの恋愛ごっこであったのだと思わされるような強烈なインパクトと、はっきりとした違いを認識していた。
「やったあ。」
急に間抜けな声ででも目をまたまん丸く見開いて私を見つめながら照れたように視線を少しそらしていた。
私はその様子が愛おしくてたまらなかった。これはただ言葉にできない衝動のようなものだと思った。
「久しぶりだなあ。」
彼は目の前に広がる海を見つめながら私に語りかける。
もう私達はほんの数時間前に初対面だったとは思えないほど馴染んでいたように感じる。彼の目は、また私をその見開いたまん丸の目で見つめている。
目が、愛を伝えるとはこういうことなのかもしれない、と感じていた。
「そうなの?海、車持ってるんだったらたまに来たりするんじゃない?」
「いやあ、全然。俺営業で車使うからその練習で家でも車に乗ってるんだ。この年でマイカーだよ。でもやっぱりドライブは好き。海には行かないけどね。」
そういえば、
「え、いくつなの?私は26よ。」
「はは、一緒だ。同じ学年かな?俺4月生まれ。君は?」
「私、6月。」
「一緒だね。」
「うん。」
そのまま呆然としながら二人は海を眺めていた。
呆然としていた、まさしく現実を忘れてしまったかのように。
もう私は何が苦しくて何が嫌だったのかも分からなかった。ただ今流れているこの幸福だけが真実なような気がしていた。
寝覚めの悪い朝だった。
電話がかかってきたのだ。この前はいったい何をしていたのか、と。
バレていた。
私が会社を病気を口実にサボったということが、みんなに知れ渡っていた。
だから、
「桃木さん。何でですか?」
そう口にする。
分かっていた。私は見られていることに気付いていた。彼とカフェに入る前に目が合ったのだ。険しい顔つきの桃木さんと。本当に一体どうしたのだろうという様なきつい眼差しだったのだ。
「何のこと?それ、アナタが仮病で会社をサボったってこと?だったら自業自得なんじゃないの?」
正論だ。正論だと分かっている、でも。
「知りたいんです。教えてください。私は桃木さんのことすごく
「そう。」
それで終わった。私と桃木さんとの会話はそこで終了してしまった。
難しく、分からない。本当に分からない。
桃木さんとカフェの前で目が合った時私はまだ体調が優れていなかったから彼女に声をかけなかった。かけられなかった。道路の反対車線にいる歩道を歩く桃木さんはすごく恐ろしいようなきつい顔をしていて、その印象だけが強く残っていて、なんとなく私を見ているような気もしていたけれど、でも会社の近くだし違うのかもしれないと思っていたし、やっぱり私には桃木さんにそんな目で見つめられる筋合いが無かった。
どうして?
全く分からなかったのだ。私は多分無意識のうちに桃木さんを傷つけていたのかもしれない。
帰り道に携帯が鳴った。
桃木さんとの一件があったから正直ひどくもやもやとした感情を消化しきれていなかった。
「桃木さん…。」心の中で渦巻いていることがつい口をついて出ていた。
電話は彼からだった。
「また会わない?体調が良くなったらでいいからさ。」
「え…うん。」
彼の率直な表現に後ろ暗い人生しか歩んできていない私は戸惑っていた。
「微妙じゃん!でもそういう所も可愛いよ。」
「えぇ…。恥ずかしい。」
疲れていたし口から言葉があまり出なかった。
「はは、じゃあまた今度ね。日時とかはメールするよ。」
そう言って電話は終わった。
今日は何だか気分がふわふわとしている。
私の人生には仕事という現実と恋愛という非日常が存在している。でも両方を上手くこなすことは難しくて、どちらかに疲弊すると片方のことは疎かになる。私は自分の中には何か根本的にエネルギーのようなものが足りていないのではないかと思っている。前より一層そんな気がしていた。
「もう全部どうでもいいや。」
そして知らぬ間に睡眠に落ちていた。
「水野さん、知ってる?」
同僚の田中さんだ。田中さんはルックスが良くて男性社員に人気がある。私はあまり関わってはいない、彼女は別の部署の人間と親しくしているみたいだったから。
「何を?」
「今日桃木さん来ていないでしょ?実はね…。」含みをはらんだ言い方でいったい何なのだろうと思うが、でも人間というのは他人のろくでもない話が好きで私も例外ではなく興味を抱いて聞き返す。
「駆け落ちしたんだって。」
「…え?」
正直何のことだか分からなかった。
桃木さんが休むことはたまにあったし、有休を上手に消化しているなあという印象しか抱いていなかったため本当に一体何の話だか分からなかった。
「だからさ、彼女夫がいるのに不倫相手と逃げたんだって。」
笑みを含んだ顔で私に事実を話してくれる田中さんは、中学時代のいじめっ子を彷彿とさせた。
駆け落ち?
大人になってまで、いやあのしっかりとしていて仕事を着実にこなすことのできる桃木さんが駆け落ちだって?
全く腑に落ちなかった。
でも本当はたまにうっすらと考えてみたことがあって、こんなにキリキリと仕事をこなしていく人に甘えたり、誰かに頼ったり、愛されたいと思ったり、そんな弱ったらしい気持ちをどこで消化しているのかということを。
結婚していることは知っていた。だが夫の話は聞いたことがなく、彼女の表情はいつも眉間にしわがはいった様なキツイもので、でも人当たりはよく悪い人ではなかった。
夫がいたって愛されない人がいるということは百も承知だ。だって私の家族がそうだったから。私の母は愛されていなかった。夫である父にも私にも、誰にも。母は天涯孤独というやつで、身寄りがない。だからか一人で何でもこなそうとする癖があり、ほかの人から見ると少し異常なのではと思う程努力を重ねてしまう。
父は母のそんな部分に引っかかって結婚を決めたようだが、次第にそれは愛情ではなかったのかもしれないと気づいたようだった。
だが母は父を愛しているようだった。そんな身の上だからか、不器用に愛し方を知らなかったのだと思う。不器用すぎて私たち家族はお互いがお互いを傷つけ合うようになり上手くいかなくなった。
気づいたら母は家出をしていて、父は帰ってこなかった。
こんなことはドラマの中でしか起こりえないと思っていたが、現実になってみると理屈も理由も成り行きも、全部筋が通っていて私は妙に納得してしまっていた。
「田中さん。じゃあ桃木さんはどうなってしまうのかな?」
田中さんに聞いたって仕方ない。だから田中さんはぽかんとした顔をしてじゃあねと言い置き去っていった。
「そりゃそうよね。」
私は一人呟くしかなかった。
「えー、桃木君のことだがね。」数日後突然課長が報告をし始めた。
「みんなも聞いていると思うが少々問題があってね、退職することになった。」
私は驚かなかった。
あんなに張り詰めた様に日常を送っていた桃木さんがどこか非日常を求めて歩みを進めたことに違和感はなかったのだから。
社内ではしばらくそのことで話が埋め尽くされていた。ほんの少しの間、人々の興味が尽きるまで執拗に、責め続けられていた。
私は少し辛くなってきていて、なんだかあの人にまた会いたいと思うようになっていた。
メールが来て週末に会おうということだったから、私はまだ平気だと自分に言い聞かせてこのどんよりとした感情を抑え込んでいた。
「久しぶり。」
彼はラフな格好で、ジーンズにシャツといういかにもな休日の服装で現れた。それがとても格好よく見えたのだから、私は恋に落ちているのかもしれないと思っていた。でも実はそれだけじゃなくてここ数日は色々なこと、桃木さんのことや自分の体調不良のこと、そして彼のことなど思い悩む種がいくつもあったのだが、やっぱり恋をしているなと実感したのは夜彼のことが頭から離れなくてロクすっぽ寝られないという事実があるからだ。
「久しぶり…。」
「元気にしてた?体調、大丈夫なの?」
また目を丸くして少し背が高いだけなのに私を見下ろして犬でも撫でようかという感じの視線を感じている。それはとても甘い感触だった。
「ねえ、何でまた遊んでくれるの?私、あまり面白くない女だから、あなたみたいな明るい人からすると退屈じゃないの?」
ずっと思っていたから聞いてしまった。
私はずっと人と接するたびにお前はつまらなくて退屈だと態度で示されてきたのだから、もうそれは私にとって呪いでしかなかったのだ。だから、つい。
「はは。そんなことないよ。だって面白いか面白くないかじゃなくて、楽しいか楽しくないかだろう?違う?」
「……。」言葉が出なかった。私には面白いと楽しいはイコールでしか考えられないし、彼の言っていることが理解できなかった。
「まあ、気にしなくていいよ。俺は癒されてるんだから。」
「うん。」
その言葉を救いだと思って私は自分を
そうやって私たちは何度も週末に会うようになって、だからつまりもう付き合っているのも同然だったと思う。だけど、だから私は、聞いてしまった。
「この関係っていったい何?」
空は曇っていてどんよりとした朝のことだった。
私は仕事で疲れた目をこすりながら彼を見る。
こんなに一緒にいるのになぜ彼は告白をしてこないのだろう。だってほとんど付き合っているようなものだったのだから。愛を渡して愛をもらう、実感のある関係だった。
だが、気になるところもあったのだ。
彼はどこか暗いところがあって、それは底抜けで本当にどこまで続いているのか分からないほど大きなものだったように感じる。
ふとした瞬間、彼は虚空を見つめていたのだ。
「えっと…、うん。」
案の定彼は言い淀んで目をそらす。
やっぱり何か言いにくいことがあるのだろう。
だから、言ってしまった。
「何?言ってよ。」
知りたかったのだ。単純に彼の全てを私は受け入れる覚悟があったから、すべて話して欲しかった。だけど彼は、
「ごめん。俺は汚いやつなんだ。だから君を好きになるたびに申し訳なくなってくる。それが告白できない理由。」
言ってくれなかった。そしてその瞬間私は聞いてはいけないことを言ってはいけないことを彼に伝えてしまったのだと気づく。
後悔してもどうにもならない。
私たちの関係はそこで終わった。その日、その場で終了した。
私には彼が一体何を抱えていたのか想像もつかなかった。彼はそれが何かを感じさせることは一切しなかったのだ。表面上だけで私と付き合っていたのか、なんてうがった怒りを感じたりもしたのだが、この理解できない失恋の苦しみを私はどうにかして消化しようともがいていた。
ぼんやりとベッドに入り寝付こうとしている時だった。
天井には外から差し込む薄明りによってすこし光が見えていた。
私はそれを見つめながら呟いた。
「言ってくれればよかったのに。いや、言わなくてよかったから、ずっと一緒にいてくれれば私は、私はそれでよかったんだ。」
「衆。」
俺はずっと分かっていた。
もう幸せになどなれるはずはなく、いやなってはいけないということを。ただつくづく理不尽だと思っていることはなぜ俺だけが幸せになってはいけないのかということだ。
生まれた瞬間から不幸せを形にしたような人生で、苦しみもがきながら存在してきたはずなのに、そのせいでどんどん泥沼に落ちていってもう這い上がれない。
でもこいつらはきっと自分の罪など考えたこともないのだろうと俺は
これはきっとマイノリティーだから仕方ない。
マジョリティーには分からない、決して。
「ねえ、衆ってば。」
は。突然言葉が強く降ってきて、俺はつい顔をしかめてしまった。
声の主は、
「もう考え事?いっつも暗い顔してるよね。いい加減やめた方がいいって。」
同じバイト先の後輩、
高校を卒業してからずっと同じバイト先で働いてきた。そこは町の小さなカフェだった。高校卒業後にまだ就職先の決まっていない俺に担任の教師が紹介してくれた職場なのだった。
その教師は人情に厚いというやつで、身寄りのない俺を懸命に世話してくれたのだった。だが酒飲みでもあったのでしばらくしたら肝臓を悪くして死んでしまった。
俺は人生で初めて計り知れない虚空と悲しみを両方抱くことになった。
それからしばらくして、羅木ゆりは現れた。
悲しくて辛くてどうしようもない時程、恐ろしいほど魅力的な出会いがあったりするものなのかもしれない。
このどん底の中で彼女はひどく美しく見えたのだった。
「羅木です。今大学生でコーヒーが好きだしカフェで働きたいってずっと思っていたので採用していただいてありがとうございます。」
ビジネスライクなセリフを口にした身長の高い女だった。
「よろしく。」
俺は先輩として彼女の教育担当になったから少し話をしてみようと思った。
話してみると初対面の硬さはなくぬるりとなじむ様に仲良くなっていったような気がする。
そして、「衆。」知らぬ間に彼女は俺を衆と呼び、俺は彼女を「羅木。」と呼んでいた。ぶっきらぼうで
「いやー、衆と同じバイト先でよかった。なんか友達の話とか聞くとブラックで意地の悪い社員がいるとか嫌な話ばっかりで、ここは居心地が良くて最高だと思う。」
羅木の言うとおりだった。
こんな社会性のない俺を拾ってくれたのだし、色々な人に対してひどく寛容な職場だと俺も感じている。
店主のおじさんが、実は前科者だというのはこっそり高校の担任から聞いていた。
どうやら人を傷つけたことがあるらしい。
だが接してみると不器用、この一言に尽きるだけでスタッフの世話もよくしてくれるいい人だった。
「関戸、羅木さん。」
呼びかけてきたのは店主のおじさんだった。
見た目からは穏やかで気性の波がないできた人という印象を与えている。ただそれは一見しただけで感じることであって、実際に一緒に働いてみると些細なことで不安そうな顔をしていて、ときたまになのだが顔をこわばらせて震えている時がある。
俺はそれを見て、ああ、この人は弱い人なのだと悟った。
かくいう俺も同様にそのような弱さを持っているのだと思う。
「今日お客さんが貸し切りにしたいっていうからさ。ちょっと時間延長してくれない?」それはバイトの勤務時間の延長、つまり残業の提案だった。
俺は何もやる予定も意欲も持っていなかったからお金も余計にもらえるのだし顔には出さないが快諾した。だが、
「すみません…。今日彼氏と会う予定があって、できないんです…。」
羅木は少しおびえたような表情をしながら店主に事情を話していた。もちろん店長は俺だけでも回せるということは分かっていたし、そもそも無理強いということを他人に決してしないようにしているのが店主のいいところなのだから。まあ、そこまで頑なに他人に強要をしないということにこだわる理由は分からないし、あえて知りたいとも思っていないのだった。
「うん、平気平気。彼氏の所を優先しちゃって。」そう軽口をたたきその日の勤務が始まったのだった。
「………。」
何だろう。
今日は羅木の様子がおかしい。
いつも割と底抜けに明るいようにふるまっていたはずなのに、なぜだかその印象を全く感じない。むしろ暗い何かにとりつかれているみたいにはっきりと落ち込んでいるようだった。
だから、「なあ、平気か?今日体調悪いみたいだな。ならちょっと休んでてもいいぞ。」
そう言って様子のおかしい羅木に俺は声をかけた。
顔を見ると真っ青で今にもぶっ倒れそうな様子なのだった。
「ああ、うん。ありがとう。でもあともう少しで終了だから。彼氏とも会わなきゃいけないし、だから大丈夫。ありがとう。」
見るからに大丈夫ではないのだが、俺は羅木の気持ちを優先した。
その後羅木はふらふらと店を出て帰っていった。
仕事が終わり残業も済ませ外の風が心地良いと感じていると電話が鳴った。
何の電話だろうと思ってみたら店主からだった。
まだ帰宅途中で店からそう遠くない距離にいたので急いで俺は店へと向かった。
いったい何があったのだろう。
店主はまだ近くにいるならちょっと店まで来てくれと言っていた。もしかしたら今日の団体客に俺は何かしでかしてしまったのかもしれない。だが店主はそんなことで帰った後の従業員を呼びつけるような人じゃない。じゃあ、一体なんだろう。
「おお、来てくれたか。」
狼狽していた。これは確実に何かよからぬ重大なことが起こってしまったことを示していた。
「どうしたんですか?何かあったんですか?」店主の冷や汗まみれの顔に俺はつい早口で言葉をかけてしまう。すると、
「いや、うん。実はな、さっき連絡があって。あの…仲良かったよな?関戸と羅木さん。」
え?羅木?羅木に何かが起こったというのだろうか。
何が?いったい何が起こったというのだろう。
俺は唐突に不安になる。店主の慌てふためいた様子に今日の羅木のおかしな雰囲気、確実になにかそれらが関係していて本当に取り返しのつかないことになってしまっているような予感。
「あの、何があったんですか?教えてください。」
俺は飲む様にじっくりと言葉を吐き出した。その声は少し上ずっていたのかもしれない、だけど俺はもう後には戻れない。
「ああ。」店主が目をそらし下を向きうつむいたような格好で話し出した。
「今日、羅木さんが予定があって早く帰らなくちゃいけないって言っていただろう?」
「はい。」やっぱり羅木のことか、そう思いながら俺は続きを待つ。
「彼氏と会うって言っていたけど、実は違ったんだ。」
え?違う?
俺は羅木の彼氏を知っていた。同じ大学の同級生で店にも何度か顔を見せていた。よさげな格好をしていて、欠点など見当たらない男だと思っていた。
「違うってどういうことですか?」
店主は少しため息をついていた。
「あのな、羅木さんは今意識不明の状態なんだ。もう意識が戻るかどうかも分からない。危険な状態になっている。」
は?羅木が、意識不明?なぜ?
頭の中では疑問だけが渦巻いていて、うまく言葉が出てこない。
「殴られたんだ。殴られ続けた。羅木さんは悪いやつらとつるんでいて、関係がこじれて暴行されたらしい。本当にやばいやつらで仲間意識とか連帯意識とかいろいろ適当な理由をこじつけて人に危害を与えるような連中らしい。とにかく羅木さんはそのグループを抜け出そうとして失敗した。その結果今死にかけているというのだ。」
「…え?」
俺は知らなかった。
羅木は俺と違ってまともでしっかりと大学生をこなしていてこれから輝く人生が待ち受けているのだと疑ってかかったことなど一度もなかった。そのくらい羅木は明るく幸せに包まれていると思っていたのだ。
けど、違った。
俺の見ている世界はあくまで俺がただ思い込んでそのままそれが真実だと、現実だと受け取っていたにすぎないと、初めて気づかされたようだった。
羅木、一体何があったんだ。俺たち、あんなに仲が良かったのだから、少しくらい頼ってくれてもよかったんじゃないか、途方もないことばかりが頭の中に浮かんでいて、でもそれらは最早何の意味も成さないのだった。
「こんにちは。」
ひょろっとした不安定な声が響き俺たちは後ろを振り返る。
そこにいたのは、羅木の彼氏だった。
「あの、羅木がユリがここで働いているって聞いていたので、たぶんあいつの私物とかまだ結構置いてあるみたいなので…。」
そう言うのだが、そういえば今日羅木はほとんど手ぶらの状態でスマホだけを片手に店を後にしていたことを思い出した。俺は羅木の変な様子にばかり気を取られていて、かばんも持っていないじゃないか、なんて声をかけることにまで力が回らなかったのだと気づく。
「ああ、そうですね。今日はバッグもそのままで店を出てしまったようなので…。」
「そうなんですね…。」
この男は羅木が心配で店までやってきたのだろうか。でも意識不明の羅木を病室に置いて大した荷物も入っていないであろうバッグなんか取りに来るのだろうか、俺はそんなことを思っていた。
そうしたら、「……。」男は無言でバッグを手に掴む。でも、何か言いたげな顔で俺たちの方をチラリと一瞥する。
「何ですか?」
いったのは店主だった。
「えっと、あの。」
急に話を振られてしどろもどろになっていた。だが言いたいことがあるようだ、だから俺たちは黙って聞くことにした。
「実はゆりは良いやつなんです。てかご存知ですよね。もちろん。」そりゃそうだ。羅木は仕事もきちんとこなすしどこから見ても良いやつ、だと思う。だけどつるんでいたというロクでもない奴らとの関係のことだろうか、羅木の本当を男は、彼は話そうとしているのかもしれない。俺はそう直感のようなものを感じていた。
「…ゆりじゃないんです。僕なんです。」その声には力がなく、「何が?」おれはつい力の入った少し威圧のある声を出してしまう。
「だから、ゆりは僕に付き添ってあいつらとつるむようになったんです…。ゆりは僕のことが好きで、僕のためだったら何でもしてくれるんです。なんでもすることに喜びを感じてしまうのです…。」
羅木は、どうやら恋愛というものにはまるタイプの女だったようだ。俺は彼のその言葉で理解した。
「ゆりは、本当はすごく弱いやつで…。僕は彼女の弱さに惹かれたんです。弱くて、もどかしい所に…。そうだな…。」言い
「僕と同じでいつももがいている感じがあって、ゆりのそんなところを感じると心が突き刺されたというような気持ちになるんです。」
だから、一体何だというのだろう。羅木は今も苦しんでいてい、生きるか死ぬかという淵に立たされていて、だって羅木はまだ大学生だっていうんだ、こんな目に合う筋合いはないだろう。
憤りが体中を渦巻く、そして俺は悟る。
彼氏がいると言っていた、羅木のことはだからただの後輩だと思い込もうとしていた、でも。
「俺は…、どうやら羅木のことを大切に思っていたようです。」
突然降ってきたその言葉に彼は硬直する。いや、何だっといったような不可思議な顔をして眉を歪めていた。
「え…大切にって、どういうことですか?」
「俺、気づきました。ただの後輩だったらあなたのその弱さに憤りなんか覚えないと思うんです。あなたの弱さが羅木を傷つけたとしたって、そういうものなのかもしれないと客観的に現実を見ていたと思うんです。」
「だから、どういうことですか。」
彼を糾弾するような発言をしたことは分かっていたし、だから彼の声が不快を含むものに変わったこともしっかりと感じ取っていた。だけど、
「だから…あなたのせいで羅木が傷ついたって知ったのだからあなたのことが許せないということです。」
「………。」
許せないという言葉は、人を傷つけるものなのだと思う。
だから安易に使っては、本当はいけないものなのかもしれない。でも、きっと俺の感情はその地点まで到達していて、もう最大限の暴力を放ちかねない状況まで陥っていて、目の前の男に吐き掛ける。
「愛しているみたいだった。」
さっと出た言葉は真実だったようだ。俺は自分の中でスッと何かがおさまるような心地を覚えていた。
「愛してるって、羅木は知っているんですか?」
震える声で男は聞き返す。彼の唇は少し色を欠いているようだった。
「知らない。羅木は何も知らないんだ。俺はただ羅木のことがすごく大事だった。理由なんて分からないし、他の人とは全く違う感情をあいつに対しては抱いていたんだ。」
「……それ、何で今、伝えるんですか?」
力を失ったような声で、疲労困憊のまま彼は俺に質問を投げかけた。
「それは…。」
どうしてだろう。でも、答えはすぐに口をついて出ていた。
「言わなきゃ気が済まなかったんです。今、言わなきゃ後悔する、そんな強い気持ちを持っていたんです。理由なんて知りません。」
そう言って俺は羅木の元へと向かった。
俺の全く知らないところで、苦しんでいた彼女の元へ向かってやりたかった。
羅木の気持ちは知らない、でも俺が見舞いに行くことくらい彼女は許してくれるはず。
そう思いながら夜道を俺は駆け足で進む。
ああ、もうすぐだ。もうすぐ着くから、待ってくれ。死なないでくれ、羅木。
病状はかなり深刻だと店主から聞いていた。
死ぬか、死なないか、分からない、と。
でも結局、羅木は死んでしまった。
死んでしまっては何も分からないじゃないか。なぜ羅木がこんな目に合わないといけないのか、なぜ変な奴らとつるんでしまっていたのか、なぜそいつらに羅木がこんな目に合わされないといけないのか、誰か、教えてくれよ。
「残念だな…。」
店主は俺の肩を叩きながら去っていった。
俺は今一人になりたかったのだし、察しのいいあの人はだからそうしてくれたのだと思う。
そして気がかりが一つ。
目の前で呆然と突っ立ているこの男。
羅木の彼氏だ何だと言っていたはずなのに、何もできない無力で細ったらしい眼鏡のこいつ。
「なあ、何でだと思う?羅木、何で死んじまったんだよ。しかも…こんな全身殴られて死んでしまうなんて、おかしいだろ?」
こいつに聞いても無駄なことは分かっていた。
だがこの思いを伝えるべき相手は目の前のこの男で、俺は全力ですべてを出し切るような勢いだったと思う。
あまりの言葉の羅列と勢いのせいだったのだろうか、ふと気づけば彼は無表情のまま震えながら涙を流していた。
俺は自分の中の激情が、このように人を恐怖に陥れるのだと知ってただ恐いという感情を抱いていたのだった。
しばらくして羅木の葬式は終わり、羅木の事件はどうやらお蔵入りしたようだった。証拠もなく、目撃者もおらず、犯罪として立証することすら難しい程、その事件はキレイに闇に消し去られてしまったらしい。
だから俺は世の中に失望をしていたし、とにかくこれ程に歯切れの悪い感覚を拭い去るために俺は全てを遠ざけた。
羅木の死も、不自然な世界も、そのために抱いた恐怖も、全部。
しまい込んでいたものがふとした瞬間よみがえってくることがある。
その時はひどく狼狽するし何だかいたたまれない気持ちになって全てを消し去ってしまいたいような、そんな衝動を感じてしまうのだろう。
「ねえ、関戸さん。」
おとなしそうな顔の女がこちらを向いて笑っている。
俺は久しぶりなのだろうか、子供のころに感じたような胸の中がほとばしるような懐かしさと温かさを抱いていた。
「何?言ってみて。」
だからつい俺は子供を甘やかすようなそんな声で彼女には接してしまうのだ。
彼女は、
自分では自らのことをおかしい、変だなんて思いこんでいるみたいだが、彼女ほどまともな子は少ないように思うし、それを俺は教えてあげたい。
君は、素敵なんだよって。
でも、「もう、あの映画つまらなかったね。何か、展開がありきたりっていうか、そこが残念だったよね。」そう言いながら顔を見つめてくる。
「うーん。俺は好きだったけど。いかにもなサスペンスで、クサい程の演出が良かったと思うんだけどな…。」
俺は、俺たちはただ素直に自分の思ったことを伝え合う。
そこには根底から片方を否定するような悪意は存在せず、ただ幸福が成立している。ただ一緒にいるだけで、俺たちはひどく幸せだった。
「あのさ、今度海行くって言ってたよね。私ちょっと体調悪くてごめん、いけないみたいなの。だからさ、動物園とかにしない?」
くだらない話だった。どうでもいい、たわいのない話、そのことにこんなに俺は幸せを感じている。初めてだったのかもしれない。
俺の人生の中でここまで誰かを愛おしいと思うようなことは、やっぱり初めてだったように思う。
だけど、ふと彼女がこちらを見て笑顔を見せる。
「うわ、しかめっ面だ。何か疲れてたりする?」
「……いや、大丈夫。」
俺は、でも苦しかった。
瞬間、思い出す。死んでしまった羅木のことを。もう戻ってこないと分かっている俺の胸を突き動かしたあいつへの後悔とともに。
誰かが死んでしまうということは、その誰かを救えなかったという事実は、一度愛した人を死なせてしまったという罪悪感は、俺を壊す。
俺は、彼女と一緒にいるたびに、胸がひどく傷んでいた。
楽しければ楽しい程、幸せであれば幸せである程、俺はいたたまれないような消化不良の感情を渦巻かせていたのだった。
いつまで、いつまでもがかなくてはいけないのだろうか。
生まれてからずっと、いや物心がついてからずっと半ば強制的に理不尽と戦ってきたような気がする。
俺はそれを、ただある理不尽を言葉にすることができなかったし、だから単純に生きていることは辛いことなのだった。
理不尽を理不尽だと認識されず、全く人から理解されずに見えずに一人、戦わざるを得ないという悪夢のようなものだと思う。
そんなひどくつらかった現実が、消し飛ぶような、そんな感覚。
味わったことなどなかった。
苦しみとの地続きでしか感じることのできなかった幸福が、その概念が一変していた。
幸福とは、こんなものなんだって、初めて知った。
教えてくれた。
水野理佐が、俺に知らせてくれたのだ。
でも、知れば知る程彼女はまともな人間で、俺のもがき苦しんできた不器用な人生とは相容れないと痛感してはこもる。思いはぐちゃぐちゃと跳ね回ってどうしようもなくなっていた。
だけど、こういう時、俺はどのように対処をすればいいのか、知っていた。
だから、俺はその通りにしたのだ。
中学生になったばかりだった。
母親が病気になってしまった。それは不治の病で治しようがないものだった。だから母親は狼狽して父親に感情をぶつけてしまっていた。
父親はただ辟易とした顔をしながら家を出て行った。
何も残さず、お金も何も、全部。
一人で残された母と俺は、無力だった。
程なくして母親は死に、俺は一人になった。
愛情のない家庭、作るべきではなかったのだろう、急かされて、本能のまま、何故家庭など築いたのだろうか。俺にとっては全く理解のできない、迷惑極まりないことのように感じられた。
そのまま俺は心を閉ざしていったのだろうか、気づいたら取り返しのつかないことになっていた。
飢えて、苦しくて、心許なくて、どうにもできなかった。
ただ、それだけだったのだ。
「………。」
テーブルの上に置かれたマグカップを私は眺めている。
そういえばこれは昨日コーヒーを飲むために出したやつだ、でも気づいても体がどうにも動かない。
私はエンジンを失ったただのガラクタのようになっていた。
どうしよう。
もう会社にもしばらく行けていなくて、というより行っても仕事がはかどらなくて忙しい職場だということもあり、病欠ということで有休を消化する日々を過ごしている。
だがもう少しで、すぐ私は会社を追い出されるであろう。だって一向に体は言うことをきいてくれないし、しばらくすればどうにかなるようなものだとは思えなかった。
体質なのだと思う。
誰かに依存するように執着して、失うと激しく傷つく。だから、人を遠ざける。
でもそんな人、多分いっぱいいるんじゃないのかと思う。だって人間はそういう生き物だと知っているから。
分かっていた。分かっていたはずなのに、うまく行きはしないだろう、そんな漠然とした予感は感じていた。
うまくいくことが良いことなのかどうかも分からない、私はただ目的も何もかも失い彷徨う羽目になっていた。
そんな中ある日ふと出かけてみたいと思ったのが近くの自然公園という名前の山だった。標高はやや高く私は準備を整え出向く。
行き場のない行き詰ったこの時間を何とかしたかったのだと思う。
人と人との関係でしか私は傷つかないし、でも幸せになることもできない。これが真実なのだろう。前よりただ幸せになりたかったのだから、私には山へ赴く理由が充分で誰にも知られることもなかった。
だから、
「やば…。」
まさか死にかけるだなんて思いもしなかった。山をなめていた。激しい寒さとくじいた足の激痛で私の体力は削られ、もう死ぬのだろうと薄っすら感じてしまっていた。それは経験したことのない激しい絶望だったように思う。
孤独がこんなにつらいなんて、私は結局人を遠ざけても人のことを考えるし、そのことで傷ついたりしてしまうのだし、回りまわって息苦しさを覚えていた。
人と人の中でうまくやっていけない私が人と人の中でしか生きてはいけないという圧倒的な絶望。
だからもう死んでしまってもいいとも思っていた。
生きたい、という思いと死んでしまっても構わない、という思い。
「…それなら、死んでもいいかな。」
体力も無くなってきていたし、そろそろ目が開けられなくなってきていた。眠ることすら許さないような激しい震えと恐怖はだんだんと薄らいでいって、ああ、こうやって人は死ぬのだな、と感じていた。
もう全部がどうでも良かった。
振られたことも、失ったことも、全部。執着するべきではないただの現実なのであって、私はもうすべて終わらせたかったのだ。
そして、消えていったみたいだ。
「………。」
「水野さん。大丈夫?」
何だろう、聞き覚えのある声が私の名前を呼んでいる。
その瞬間私は死んではいないのかもしれないと落胆した。
果てしなく絶望の底へと沈み込んでいたのだから、もう希望などいらなかった。
「え…。関戸さん。」
関戸衆だった。
なぜここにいるのだろう。だから、
「何でいるの?私、もう全然うれしくない。」
うれしいのかうれしくないのか、分からなかった。
私の感情は色々な場所へ向かって行っていたから、最早もう動かすことすら苦痛だった。
だから、「動きたくない。ごめん、何で私助かったの?もう放っておいてくれてよかったんだよ。」ついこぼれてしまったけれど、涙も何も出てこない、これが今の本当の気持ちなのだと思う。
私は今、圧倒的に死んでしまいたい。
「死なないでくれよ…。」
私を捨てて去っていたはずの関戸衆はそんな言葉を言っていた。だけど私の心はもうそんな些細なことでは動かない。あなたの言葉もセリフも存在も、もう何物も私の救いになどはならないのだと、その言葉を吐きつけたやりたい程、どうでもよくなっていた。ただあるのは、そのような行き場のないグズグズとした怒りだけだったのだ。
そんな私を見て関戸衆は何も言わず、いや何も言えず、だが毎日見舞いにやって来るのだった。家族とも疎遠で入院生活に不安しかなかった私はただそれをありがたく受け取らざるを得なかった。
だから本当はもう彼のことなどどうでもよくなっていて、恋をしていたころとの落差に正直ひどく驚いている。
人間は傷つけられると無敵ではいられなくなってしまうのだろう、そんなことを頭でぼんやり考えていた。
今日は
どうやら近くの桜並木が満開を迎えるということで、出歩く人が増えているのが原因のようだった。毎年この時期になると発生する恒例の出来事なのだが、店主はどこか不満そうで疲れた顔をしていた。
「どうしたんですか?お客いっぱい入っていいじゃないですか。この日がいつも稼ぎ時なんだから、そんな曇った顔しないでくださいよ。」
さりげない世間話のように振舞って俺は店主の様子を窺った。
店主は実は一度大病を患っていて、その時も今日のように不機嫌極まりない感じを出していて、俺は何だろうと思っていたけれど病気だったのだ。倒れてしまった店主を救急車の載せて俺はひどく動転していた。
幸い助かったのだけれども前のようには動けなくなってしまっていて、実質俺がこの店を切り盛りしているのだ。それは店主が俺のことをどうやら買っているというか、認めてくれているからだそうだ。(この話はほかの店員からこっそり聞いたもので、俺のいないところでよく話しているらしい。)
「ああ、大丈夫。今日は客が多いな。うれしいんだけど、ちょっと疲れてしまうんだよ。」
店主の人柄だった。店主は人を遠ざける傾向があるのだ。それは彼が経験してきた人生によるものだと思っている。
ほっと一安心したのだが、同時に俺の頭の中はまた水野理佐のことで頭がいっぱいになる。
俺は彼女を傷つけてしまった。だから彼女は俺を見てももう何も感じることは無いのだろう。好きだとか、嫌いだとか、そんなこと。
だが憎しみくらい抱いてくれてもいいのじゃないかと思うのだけれども、そんな感情すら面倒のように感じているようだった。
でも俺は見捨てられない。
理由は分からないのだが、放っておいてはいけないという衝動を持ってしまっている。そして彼女に何かをしてあげると俺はすごく満たされたような気持ちを感じてしまうのだ。
俺は一体何を望んでいるのだろう。
最近はそんなことをぼんやりと突き詰めるようになっていた。
毎日水野理佐の見舞いへ向かうことは俺の中では義務となっている。だから止めることはできない。止めてしまったらきっと、俺は激しく後悔することになると思う。
だが彼女はそれを望んでいるわけではないようで、ただ生きるために助かるという点だけを掬い取っているようだった。まあ、それでも俺は満足しているのだが。
でも、でも。
やっぱり、何かが違う。
何が違うのだろう、だけどそれを形にして言い表すことがもどかしくてもできない。苦しい。
そんな時だった。
俺はいつも通り水野理佐の元へ見舞いへ向かった。
そうしたら、彼女は言い放ったのだ。
「さようなら、今までお世話になりました。私の気持ちはもう熱くないのだから、ここでお別れということにしてください。」
瞬間俺は少しひるんだように体勢を崩してしまったが、何故だか妙に納得していた。俺たちは、もう終わったんだと、はっきりとすっきりと、体の中に刻まれていったのだった。
だから、「分かった。今までありがとう、そしてごめん。…じゃあ、さようなら。」そう言って病室を後にした。
もう振り返ることは無く、スタスタと薬品の匂いに満ちたこの廊下を足早に進んでいった。
良かったのかもしれない、これで。
俺の気持ちはもうしっとりと落ち着いていたのだから。
本物とは一体何なのだろうか。
本物だと思い大事にしていたものがあっさりと崩れ去ってしまったことが、誰かにはあるのだろうか。
その事実は私の根底を覆してしまうのだし、立ち直るということはただ元に戻るということではなくて、崩れ去ってしまった世界に見切りをつけて別の惑星へと移住するような、そんな感覚なのだと思う。
だけどたいていの人間はその崩れ去った世界に立ちすくむしかなく、地べたを這いずり回りながらなんとか息をしているのだと思う。
「理佐。」
「何、髪切ったの?」
「うん、似合うかな?」
「いや、めっちゃ似合っているよ。今までの中で一番かわいい、間違いない。」
「エヘ、照れる…。」
夫は優しい人だ。
私は夫を愛している。
愛しているのだ。
過去、本気で愛した人などいなかったかのように、私は今幸せなのだった。
だけど、そうなったら多分、そうなってしまったのだから多分、私たちは永遠を手にするということは、それこそ永遠にあり得ないのだという証明なのだと思う。
だからやっぱりこんな夜、こんな風が冷たくてでも気持ちいいこの夜空を見ると、少し涙があふれてしまう。
愛を証明することはできない。 @rabbit090
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