切符

 家を追い出された私は、相も変わらず父の墓前で泣いておりました。ええ、自分でもその理由はよおく分かっております。父が亡くなって一ヶ月、私は家に帰るたび泣いておりました。

 学校は良いのです、陽の気で溢れております。仲の良い友達とじゃれ合って、寂しさなんて初めからこの世に無かったぐらいの気持ちになります。それでも、放課後になって、さらに夕日が沈み始めるともうたまらなくなってしまいます。まるで空が閉じてしまうような、心臓の血管が詰まったかのような焦燥が胸を満たして、とても笑顔ではいられなくなってしまいます。

 そうして教室から逃げ出すように家へ帰って泣くのです。ベッドの上ですすり泣いていて、お母さまにお叱りを受けても、そのたび閉じた瞼から零れるのです。

 そしてもう何処にも居ることが出来なくなった時、私は決まって父の墓前に足を運ぶのです。墓地はいつでも静寂で、植えられた銀杏の木が揺れる音がより無音を強調するような場所です。父の立派な大理石の墓石の前に立つと、黒々とした宇宙の色に瞳を奪われます。それだけではなく、墓石を抱きしめるようにして胸の触れた時の驚くような冷たさに、まるでメスを入れられたかのように心が凛とするのです。すると途端に涙が止まるのです。きっと父が私の空いた胸をその大きく骨ばった手で埋めてくれているのだろうと思います。

 そう思えば、父はいつでも人の欠損を埋めてくれていました。父は御医者でしたから、いつでも人の胸に手を当てて、温かい言葉をその腕伝いに囁きました、大丈夫、安心してください、すぐに良くなりますから、そんな風に。そのヴァリトンのような声は深く鉛の重さで私の心に沈み込みました。でも、それは私に向かって投げ掛けられた言葉ではないのです。父はこの町一番の御医者でしたから、息吐く暇もないくらい患者さんがいらしていました。

 その中でも私のクラスメイトの一人は特に熱心に通っていました。あの子は転校生で、昔から肺を悪くしていたようで優秀な御医者のいる町へ引っ越してきたそうです。はじめは私、父が褒められたことを嬉しく思っていたのです。私は一番先に御友達になって一緒に下校することもありました。

 でも、それも裏切られるまでの一時のことでした。あの子は会ってお話する余地もなく父に恋をしていたのです。学校で発作が起こり、私が病院へ連れ添ったときに見ていたのです。あの子は父の手が肌に触れる度、頬を赤くしていたのを記憶しています。

 私は嫉妬を抱いておりました。ええ、私も父に恋をしていたのです。始まりはいつからでしょう、五歳になってから、いえ、初めて見た時から、またもやお母さまのお腹の中に居た時からかしら。あの子が父に恋を抱く少なくとも十五年も前から父をお慕いしていたのです。私だって父のあの手で、胸や腹部を優しく撫でてもらいたかったのです。

 だから私は父を困らせるだけなのだと知りながら、わざと夜更かしして体調不良になって父に数度会いに行きました。一度は熱が出た振りなどもしました。父には私の下心など透けて見えていたのでしょうか、結局、私は日当たりのいい自室で安静にするようにと言われて監禁をされてきたのです。私は喉の奥から、この熱病は、あなた様に抱いてもらえれば瞬時に根治するのです、口づけで溶解するのですと叫びたくて仕方がありませんでした。でも不可能な御話です。そんなことを言う私ははしたない——きっと実直な父ははしたない娘は御嫌いでしょうから。

 それに私にも罪悪の感情がありました。お母さまの夫を奪おうとしていることを、中学を上がった私はより意識するようになりました。それからというもの、私は妙に父と顔を合わせづらくなって、逃げるように自室に籠りました。

 目を合わせただけでも父を誘惑しようとしている自分がいることに気付いてしまうのです。お母さまから洗濯を請け負っても、父の脱いだ白衣の匂いを嗅いでしまうのです。学校でも友人が恋や、彼氏の話を始めるといつか自分が父を好いていることを指摘されるのではないかと心が竦みました。お気に入りの駅前の珈琲屋さんにも、父の働く病院が近いので行けなくなってしまいました。

 そうして、私は身の回りの物事に手が付かなくなりました。まるで地獄のような日々でした。許されざる恋とは、ロミオとジュリエットはこんな悲痛な心持だったのだと理解しました。いえ、私の方がきっと酷いものでしょう。ユングの本で読みました。エレクトラコンプレックスと言う精神の御病気なのでしょう。不治の病でございます。きっと父の手にも負えないのでしょう。

 でも、そんな日々も一ヶ月前に終わりました。父が死んだのです。もしこれが小説で、その幕を降ろそうとするのならば、流行の悲劇に被れた駄作ですわ。でも枕を濡らして朝起きてもフィクシオンではありませんでした。私は欠けてしまったのです。やっと父に診てもらえるような欠損が出来たのです。それなのにもう父がこの世にいないという矛盾が胸を締め付けるのです。

 もう死んでしまおうかとも思いました。いいえ、ずっと死んでしまおうと思っていました。このまま死んで仕舞えば、閻魔様に数々の不孝を勘定されて私は地獄へ行くでしょう。父は数々の善行から天国へ行くのでしょう。ああ、この世を離れて尚父の腕の中へ落ち着くことも出来ないのです。あの世も無常でございます。

 溢れる自死への欲求を必死に堪える度に涙が流れました。つまりはそのために泣いていたのです。単色の寂しさや安直な悲しみに溺れていたわけではございません。私は、生きるために泣くのです。未来父の下へ行けるよう日々善く生活し、死ぬまでは生きるのです。それは私が心に誓ったことでした。父が、自死しようとして流血し冷たくなった学生や、身長伸ばしをして首の骨を折ったビジネスマンを痛ましそうに診ていることで誓ったのです。

 思えば父は私にこの世界の全てを教えてくれました。父は私の半身よりも大部分を埋めていました。欠けてしまった今自分を失った今、片割れと心中したいと考えるのは古今東西共通の思想なのでしょう。幾ら固く誓いを立てても私はまだ十七の儚い女学生です。いつだって重荷で潰れそうになっているのです。

 だから今日という日、御盆の日は私も少し生きることにつかれてしまったのでしょう。その日は何をしても涙が止まりませんでした。父の帰って来る大切な日なのに、どうしてか家にいても墓前に行っても父の温もりを感ぜられないのです。天国の旧友に呼び止められて降りてこられないのでしょうか。あちらの方がずっとずっと居心地が良いから帰ってこないのでしょうか。私はただ、なすすべなしに泣いておりました。

 墓前に立って一刻は経ったでしょうか、涙はセーラーに淡く染みを残して消えて行きます。制服が好きだからと父に我儘言って必死に勉強して着ることのできたセーラーでした。どうにも父のことが思い出されます。求めてしまいます。

 それなのに地も空も木も風も父の形を宿していないのです。嗚咽が墓地の静寂に響きました。誰かが私の首を麻布で絞めているように響きました。誰かというのはきっと自分です。過去の私が罪に耐えかねて殺しに来たのです。とろんとしました。大きな地震が来ました。いいえ、それは眩暈でした。黄金色の銀杏の木が遠くでざわざわと揺れて、私は背面を下にして浮遊感を味わいました。きっと頭を酷く打ち付けて死んでしまうのだろうと思いました。

 けれど、そこで抱きとめる手があったのです。それは確かな温もりでした。人の熱でした。重みを預けると夕日を御顔が隠しておりました。御顔は涙で霞んで幻想のようでした。彼は父の物よりも幾分か筋肉質な手で抱き寄せてくださいました。背を撫でる手は若干のぎこちなさを秘めていました。殿方に触れられたのは父の他で初めてでした。私は脱力して顔を埋めました。

 そうして私が落ち着きますと、彼が手を緩めて私は自然と後ろへ離れました。彼は私を一瞥して、すまないと小さく謝罪しました。一体何処に謝罪したのでしょう。私が嫌がっているように見えたのでしょうか。私は途端朗らかな気持になってくすりと笑ってしまいました。これは思いがけないことでした。

 彼は安心したように微笑を浮かべ、持っていた鞄の中に入れていた右手を差し出しました。そのときどうしてか私は握手かしら、なんて彼と触れ合うことを真っ先に思いつきました。その手にハンカチが握られているのを見て、恥の気分から頬が泣き腫らした瞳よりも朱に染まるのを感じました。恥辱から逃げるように私は彼に問いました。

 どうして良くしてくれるのですか。どうして謝ったのですか。どうしてこんな場所にいるのですか。どこから来たのですか。無礼を働いた娘に母親が叱責するときのように言いました。彼はきっと困惑したことでしょう。私を御嫌いになったことでしょう。言い切って欠乏した空気を吸って、私は後悔で下を向きました。遠くで赤ん坊の泣く声がしました。その後は荒くなった私の呼吸だけが響きました。背筋に冷たいものが伝いました。

 私は彼の言葉を待っています。墓場には妙な緊張感が張り付いていました。ずっと、遠くから来た。彼は短く言い切りました。遠くから来ました。たったそれだけを伝える言葉が、他意や誤解を読み取らせないその淡白な言葉に美しい清潔さを感じたのです。

 そうですか、私は目を伏せて応えました。彼の声に父のものと同じ音が含まれていることに気が付きました。まるで父の低い声に瑞々しい檸檬を添えたような若い声でした。私は彼に初めから知っていたような、デジャビュのような気付きを繰り返していました。

 彼は手首に着けた時計をちらと見ました。電車が来るので、それでは。息を吐くように言いました。

 私は彼がずっと向こうの方に行って初めて顔を上げることが出来ました。離れていても背中が大きく見えました。どうしてか彼の周りの夕焼けは真っ赤に見えました。私は呼び止めたくて声を上げようとしました。しかし何と言えば彼を止められるでしょうか。結果喉からは玻璃のような鋭い吐息だけが出ました。彼は夕焼けの向こうに消えました。

 惨めになってまた涙が溢れました。彼の残したハンカチが吸ってくれました。ハンカチは男らしい紺色の地に白い蘭が咲いていました。その花には見覚えがありました。父の葬式での献花は白い蘭でした。

 そこでやっと私は確信しました。どうしようもなく理解しました。彼は私の運命だったのです。遠い遠い御空で時報が響きました。胸を潰す様な焦燥がまたやってきました。私は駆け出しました。今度は逃げるためではございません。彼を追わなければなりません。私は彼のものにならなければいけないのです。

 彼は私の肩に止まった赤蜻蛉でした。追わなければなりません。追わなければなりません。長い長い坂を下りて行きます。向こうに夕日が見えました。落ちていく夕日はきっと導火線です。闇に吸い込まれゆく赤は起爆の予兆を呈しております。

 私は夕日よりも早く駆け出します。かのメロスにも引けを取らない速さです。そろそろ駅に着くころです。閑散とした田舎の駅を通り抜けます。切符には父の葬儀で叔母さんに無理矢理に渡された香典を使いました。

 私は素晴らしい幸運に恵まれました。いいえ、これもまた運命なのでしょう。神様の与えた試練に打ち勝ったのです。今まで父を思い続けた日々も、父の死も、全ては今日の運命のための切符だったのです。

 これは神様のくれた恋なのです。欲を嫌う吝嗇な仏様などではありません。西洋の、飛び切りロマンティックな恋の神様がくれた運命です。夏も終わるというのに、私の吐息はかっかと熱を帯びています。お母さま、申し訳ございません。私はもうすぐ来る列車に乗って彼の下へ行きます。私ははしたない子です。どうしても隠しておくことができませんでした。母さまの父を奪おうといつでも画策していました。

 けれどもう違うのです。数々の不孝をお許しください、そして祈ってください。私は今日、運命に逢ったのです。私だけの運命なのです。列車が悲鳴を上げてやってきました。中から涙のように人が溢れ出てきます。私は彼を探す旅に出ます。探したって無駄です。ここに居場所はもうありませんので。ただ、どうか祝福してください。運命とともに生きることのできる幸せを祝福してくださいませ。

 かしこ

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