黑池

 その頃私は十年生きたかどうかという所であった。田舎の二階建ての実家で父母と叔父とともに暮らしていた。

 田舎、と言ってもその頃の日本であればごく標準的な農村の有様であったし、今では小さな町になっているぐらいの故郷である。

 ともあれそんな興の無い場所で私は育ったのだった。それでも子供の頃の私はその田舎で十分な生活をしていた。

 実家は大金持ちの大地主というわけではなかったが、食うに困る程困窮はしておらず、都会から離れているために近所の子らも金のかかる玩具など知らなかったものであるから、安物の木製の我楽多で飛び上がるように喜んでいたし、毎日虫を集めては逃がしたり、川遊びをして服を汚しては叱られていた。

 これについては私に限定されることだが、私はベーゴマやメンコなどにはてんで興味が持てなかった。これを欲のない良い子と褒めるのが親の常だったが、友人には奇異の目で見られたものだった。

 それでも私が子供時代を幸福に退屈無く過ごせたのは、やはり釣りという趣味があったのが原因である。正確に説明すれば、私は魚という生物が他の生物よりも圧倒的に好みだった。足も無く、手も無く、凡そ陸で生きる事を無視するような(当然魚は水中に適応した生物なのだが、子供の頃の私には陸で生きる自由を選ばないことが不思議でならなかった)、それでいて煌びやかな鱗に覆われ御洒落をしていて、飛蝗よりも蜻蛉よりも機敏に泳ぐ姿に魅了された。私は虫の図鑑も鳥の図鑑も読まなかったが、唯一魚の図鑑だけは何冊も読んでいた。

 というのも私が釣り上げた魚がどの図鑑にも載っていないことを確認して優越に浸る為でもあったが。私は少なくとも数十種の新種を釣り上げていた。

 このことは誰にも伝えていないことである。私は穴場を知っていたのだ。

 何十年も海に出ている老骨の漁師のように直隠しにしており、小学校から帰ってから足繁くその穴場へ通っていた。

 正確な場所を今でも覚えている。実家の裏手、昔家が所有していた田に繋がる一本道を途中で外れて、背の高い木が数本生え鬱蒼としていた所、そこに私の穴場はあった。それは池と呼ぶには余りにも小柄な、丁度大人が両手を広げたぐらいの大きさの池であったような気がする。

 何分もう二十年も前の事であるから記憶が正確だとも限らないが。私はその池を黒池と呼んでいた。それは地に穴が空いたかのような真っ黒で、風で水面が揺れるまでは池であると気づかないくらいの純黒で、夜を飛ぶ烏を超過した闇を湛えていた。黒池はそんな色であるから、当然計り知れない深さを持っていたのだろう、夕方に強く光が降っても奥の事は未知のままであった。

 ここで不思議なことがあるのだが、その池で釣りをすると決まって不詳の魚ばかりが釣れるのだ。鮒や鯉のような他の池で釣りをすると釣れるものと違って、言い難い、魚の『かたまり』とでも言うようなものが釣れるのだ。それは黄みがかった乳白色でてらてらと光を跳ねっ返すような脂をはち切れんばかりに含んでおり、大きな目が出目金のように外に出張っているものもあれば、その脂で完全に塞がれてしまっているものもいた。

 兎にも角にも水生で背鰭と尾と鰓があるのだから魚のはずだが、どうしたって例外が多かった。鱗は尾の方に少しだけ付いており、幼い私はその色や形なんかで種類を分けていた。短刀のように鋭利な歯が剣山のような細かさで並ぶもの、退化したのか適応したのか象を模倣したような擂鉢状になっているものもいた。

 ここまで思い出し、本当にあれは魚だったのだろうかという疑念が湧く。前述した通り記憶が定かではないので致し方ない。ああ、一つ思い出した。私が自信を持って魚と呼べるものが確かにその池にもいた。

 やり方はこうだ。水面に昆虫や蚯蚓、鳥の雛なんかを浮かべる。そうして待っていると、黒々としていて鬼瓦のような頭をした、大きな恐ろしい魚が飛び出してくる。それは鮟鱇の様に太っていて鱗が武者の具足の様に張り付けてあったので、私は『ショーグン』と呼んでいた。

 そうだ、それを釣り上げることが幼少の私の細やかな夢であった。しかし、覚えている限り一度もそれは叶わなかったのだ。稀に貝や海老なんかが獲れるときもあったが、普段の釣果は例の奇妙な魚たちだけだった。

 いいや、私は貝なんて獲っただろうか。少なくとも釣り竿で貝が獲れるなんて変な話だ。どうやら私の記憶は随分と出鱈目に汚染されてしまっているようだ。となるとここまで長々と語った思い出話も嘘の可能性が高いという事か。残念だ、そのときに真珠貝が獲れた思い出があったんだがなあ。

 ん、何だ、君、それを過去に見せられたことがある、私に?一寸待っていてくれ。ああ、本当だ、端の引き出しの中にあった。私は以前君にこの貝の事を話したのだろうか。ふむ、話すと約束して反故にされた、と。まあ随分と昔の私は吝嗇だったようだね。まあいい、遅ればせながら語ろう。

 そう、私は不思議なことに、その黒池で真珠貝をどうにかして釣り上げたのだ。はじめは口を堅く結んでいて開こうとしなかったので、落ちていた煉瓦片で唇を破壊した。叩き付けた所から円状に殻に罅が入って、遂に私はその外装を剥ぐに至った。そのときの私は貝の身を食べることしか念頭に無かったのを覚えているし、だからこそ開けて真っ先に光る小石が飛び出したときの少々の落胆も覚えている。

 でかした、私の記憶は確かだ。そう、それで、私はその真珠を彼女に持っていった。彼女は当時、町の中で一二番を争うような大きな屋敷に住んでいた。この彼女というのは町で一番の美人だった。『彼女』と言っても私に交際関係があったわけではない。ただ、昔あの町で『彼女』と言えば彼女だったということである。私は彼女の名前をもう憶えていないが、その顔つきは未だに私の大脳に焼き付いている。

 それだけの美人だったので、同級生の男は皆彼女に惚れていた。私もその範疇で、彼女の顔が好きだったし、それ故に嫌いでもあった。純粋な当時の私は、どうにも相貌の良さに心惹かれることを不純だと捉えていた。それでも純粋故に目で追ってしまうし、光物や花があればまるで烏の様に彼女に届けにいった。例えそれが何の変哲もないガラス片でも、彼女がその顔を綻ばせるような人だったからかも知れない。

 だから、私は普段通り己の義務として彼女に真珠を届けに行ったのだろう。ところがその日の彼女は強情だった。そんなに高価な物を受け取れないと拒絶するのだ。私は苛立ってしまった。私だから駄目なのだろうという根拠の無い確信があって、非情に自身を絞めつけたからである。

 ならば、彼女自ら真珠貝を獲れば良いのだ。そのアイディアで私は彼女の手を引いて、池まで連れていくことを決心した。彼女には私の秘密を打ち明けるほどの価値があった。戸惑う彼女を先導し、握った手の柔さに感動しながらも、斯くして目的は果たされた。私は黒池のある木陰へと辿り着いたのだった。

 しかし、本来の目的は満たされなかった。先程まで黒池があった場所は土の小道に変わっていた。おかしいぞ、変だ。しどろもどろな事を言いながら、私は彼女に対する弁明を考えていた。まさか陸で貝を獲ったなんて馬鹿なことは言えやしない。必死になって池を探している私の後ろで、彼女はこう言いつけた。怒られる前にお母さんに返してきなさい、と。

 この一言は私を真に激昂させた。私の手柄は母のものではないこと。私を餓鬼として見下していること。私の思いを踏み躙ったこと。その全てに対する煩悶が怒りとなって、気づけば私は彼女を突き飛ばしていた。よろめいて転ぶ彼女の真下、黒池はそこで大口を開いていて、彼女を飲み込んだ。

 大粒の水滴が飛び散る。味は塩辛かった。彼女はカナヅチだったのだろう、一度激しく揺れ動いた水面が再び手や頭で揺らぐことは無かった。

 私はそんな光景をただぼんやりとして見ていた。まるで白昼夢を見ているようだった。あまりの情報を含んだ一瞬が、私の脳を焼いたのだ。

 ああ、だからこそ記憶が曖昧なのだろう。それから数秒か、数分か、はたまた一時間か、壊れた私には皆目見当も付かない時が流れ、黒池の水面に浮いてきたものを見て、その衝撃で私は復活を果たしたのだ。それは奇妙な魚に似ていて、しかしその五倍はあるような大きさの、つまりは脂肪の塊が浮いてきていた。

 それは黒池を丸形の油分で醜く汚し、所々に薄く血管が透けて見え、まるで胃の中の消化物のような、人々がひた隠しにして見せない下品でグロテスクな印象を私に与えた。あまりのえげつなさに喉から嗚咽が漏れた。嫌だ、これは嫌な物だという脳からの指令がやけに重く響いた。私は異常に嫌な気分になった。直ぐに近くに置いていた釣り竿で黒池のなかに嫌な物を押し込み、そのまま釣り竿も捨てた。そうしてから周りの土で埋め立てた。始めは靴の側面で、終いにはシャベルを持ってきてまで埋めた。深さが分からなかったものの、意外にも早く黒池はその姿を泥地に変えた。そうしてやっと一息吐いて、私は家に帰ったのだった。

 思えばその時から一度もそこへ足を運んでいない。おっとここは記憶違いだ、そう、先月私が帰省したときに行ってみたのだった。だからこそ君にここで話をしているわけである。だが残念だったよ、その道はもうコンクリートで舗装がしてあったのだよ。行ったって無駄さ。あそこには何も無いんだ。まあ、私はそんなに惜しいとは思っていないけれどね。見方を変えれば、子供の頃の不思議が私だけの体験として眠っているんだ。少し洒落ていると思うがね。ああ待て君、こんな年寄りの酔っ払いの話を真に受けるなよ。何もかも嘘かもしれないじゃないか。きっとそうに違いないじゃないか!

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