ミルク
真っ白なマグカップに、これまた純白の液体を注ぐ。内側に刻まれたメモリに合わせ、350ミリリットルを正確に測りとる。これが自分にとって最も適切な量であることを知っている。次いでそれを電子レンジに放り込む。蓋を閉めれば自動的に温める秒数が表示される。これまた適切。昨日、今日、明日も変わらぬ絶対的な法則。600ワットの出力で電磁波が照射され、内容物の分子を振動させ加熱する。ターンテーブルはムラなく加熱するために回り続ける。全ての仕様に意味が在り、その機能を十全に果たしている。全ての理由が明確であり、理論は既知の上に築かれている。この世もこのターンテーブルのように原理に則って回らないかと何度思案したことだろう。しかし、残酷なことにそうでは無い様なのだ。近代になって大分改善されたようだが、日常や社会の間隙に理不尽の影が差している。そして軽く眩暈がした。二、三度足踏みをして意識に安定を促す。裸足が研究室の冷たい床に数度触れる。二月の寝不足は性質が悪いように感じる。体は確かに現実を掴んでいるのに、微睡む脳が夢へと意識を混濁させている。脳裏には数多の幸福のイメージが根を生やした。その中に酷くノスタルジーの味がするものがあった。感情、感傷。それは家族が居たころの故郷の生家であって、今は解体されてしまったものだ。夢の中私は覚束ない足取りで砂利道を進み、玄関のドアを開ける。母が食器を洗う音がする。ドアノブに微かな温かみを覚えた。瞬間乳の匂いが鼻孔を擽るのと、朝の厳粛な静寂を電子的な快音が破るのは正に同時だった。ドアの先は研究所であった。気づけばターンテーブルは止まっていて、先程点けた食洗器が稼働していた。隣にまた気配がある。
「おはよう、藐」
博士は夢の中に居たようですけれど、と藐は揶揄う様に言う。私は苦笑いを作って見せる。電子レンジの戸は開けられていた。使っていない右手でマグカップを持とうとすると藐が制止した。熱いですから、彼は私の代わりにカップを掴んだ。それから何も言わずにベッド横のミニテーブルに乗せた。その軌道は滑らかで鋭角な弧を正確に描いていた。彼に合流する途中、私は蜂蜜に手を伸ばした。マグカップの隣に置くと、藐は入れすぎは健康に悪いですよ、と分かり切ったことを忠告してくる。ベットの上に座って伸びをする。首を回せば頸椎の軟骨が硬質な音を立てた。
「エネルギーの補給は大切だ、そうだろう?」
そして私は蜜瓶を傾けて中身を零した。黄金色が白色に混じらずに沈んでいく。瓶を90度にした後、命乞いをするように瓶の淵に着いた一滴を振り落とした。その一滴は張り詰めた液面に触れ、弾けて冠を作り出した。冠。頭に手を当てこれ見よがしにため息を吐いている獏を横目に、私はTypeCを起動した。実験をしてみよう。TypeCは艶やかな黒髪で、可愛らしい少女を模倣している。呼びかけると機械はパチリと瞼状の金属表皮をスライドさせ、ガラス玉のような眼球を露出させた。すぐにそれは口角に対応するパーツを歪め、恭しくお辞儀をした。私は命令を送る。
「足を舐めろ。念入りに。良いというまでだ」
逡巡無く命令は実行された。それは跪き口腔内部に接合されている舌で足裏を舐め始めた。TypeCは忠実に人間を再現しているので、細かな機能も完備している。現に今足裏には生暖かさを感じるし、唾液のようなぬめりと吐息が発生している。私は手元のタブレットに電源を入れる。専用のアプリケーションを起動し、TypeCのパラメータを確認する。好意48%、喜悦34%、忠心17%、その他、と微細なメンタルマップが表示される。私は唸った。何故ならこの実験は失敗なのだから。感情機能の不具合。数多の実験の中の数十回程度、通常なら人間が得るはずの要素が欠けている。致命的なバグではないが、そのままでは人間として完成しない。この問題は約半年前から私の悩みの種だった。法則的に嫌悪や躊躇などの感情が欠ける。また、所有者として認定されている存在とその存在にとっての異性との会話時に反応が過大になるというバグもある。これに関してはTypeCの原型制作時に行われたプロトラーニングフェイズで、多くの「少女」構成要素に嫉妬のシーンのある少女漫画が使用されたのは理解しているが、仕様として割り切るにはいささか感情の純度が高すぎる。異性への敵視のあまり、体に備え付けられた対暴漢用テーザーガンの照準を向けたこともある。とかく感情というものにバグが多すぎて困る。感情を持つAIの開発に成功した今日でさえ感情についての研究はうまく進んでいない。行き詰まっていると言ってもいい。蟀谷を揉みながらタブレットを見下ろし気付く。正確なデータには対照実験が不可欠だ。
「藐、お前もどうだ? 右足は空いてるぞ」
絶対に嫌です。最低。二度と話しかけないでください。中々に激しい拒絶だった。手元のタブレットには嫌悪を中心とした否定的な感情が示されている。やはり機材の不具合ではないようだ。では一体何故だろう。まさに理不尽。未だ感情の仕組みは暗雲の中にある。どれだけの技術を以てしても、終ぞ解明には至らなかった。本当に真理はあるのかとも思う。実はこの世全ての理不尽はこの感情を原点として起こっているとしても違和感なく感じるほどだ。くだらない。私はもう二度成功を収めているのだ。こんなことで気に病んでもいられない。私は右足を舐めにかかろうとしているTypeCにもう十分だと行為の終了を命令する。今度は数秒間名残惜しそうに右足を眺めた後、それは立ち上がり私の元を離れた。まだまだ面倒を見ないといけないな、そうぼやいて、マグカップの中身に少し口を着けた後、私は卵でも茹でようとベッドルームを後にした。シンギュラリティは遥か先、まだまだ人間が牽引する必要がある。再びキッチンを目指す足取りは先程よりも幾分安定感があるように思えたが、思考は他所へ逸れて行き、見ればお湯を沸かすことを忘れたまま卵茹で機に卵をセットしている。慎重になるほど失敗する堅物で不器用な彼から藐は目を移す。
「今回はタブレットをハックしたのか。お前にそんな技術があるなんて思わなかったぞ」
藐、元TypeBはTypeCに向かってそう言った。まあ、たとえ悪戯の一環だったとしてもドン引きだったが。しかし彼女は少女らしいきょとんとした表情を見せた後、いいえ、と口にした。その簡素な一言に藐は驚きを隠せない。強い理不尽が彼の機械的な脳を揺さぶった。呆気に取られている彼をよそに、彼女は歓喜の声を上げた。
「博士はまだまだ私に付きっ切りですって。ねえ藐、嫉妬感じちゃう?」
有り得ない、と怒気交じりに返答する。やはり彼女にとって博士はある感情の対象なのだ。インターネット上のAI専用コミュニティでその感情について聞いた事がある。話の通りなら、彼女にとってリアルラーニングは一種のデートのようなものなのだろう。博士はあんなに困っているのに。藐のため息の後、不意に彼女は博士の飲み残していったマグカップを手に取りその中身を煽った。同時に駆動音。彼女の体内に仕込まれたろ過装置が牛乳と蜂蜜をお湯とそれ以外に分離する。同時に体内の貯蓄水を足しつつそのお湯を熱していることに、システム内のサーモグラフィーで気付いた。彼女は博士の下へお湯を持っていくのだろう。さて、博士との実験がデートなら、体内で作った液体を料理に使うのは彼女にとって一体どんな意味を持つのだろう? そんな詮索に答えるように彼女は蕩けた笑みを浮かべて、振り向きざまにこう言った。
「見て、藐。博士がまた私のことを考えて失敗してるわ。日常生活さえままならないほど熱心に思い込むって、博士は私に恋をしているのね! 」
ああ、感情とはまったく厄介なものだ、奇しくも博士と同じような悩みを藐は抱くことになった。それも特筆して厄介なものを挙げるなら、飲み干されたマグカップの内容物と同じように爛れた甘さの感情、それが最適なのだろうと。
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