高校時代の短編集
洞田 獺
百万年くじら
暗い階段を早足に降りる。ガラス戸を手で押し開け、すぐ左に曲がりビルとビルの隙間、行き止まりの路地に入る。見慣れた眼前の景色、錆びたダクトと室外機を眺めて一息つき、スーツのポケットからシガレットケースを取り出した。このご時世、喫煙家は肩身が狭い。先端にライターで火をつけ、吸い口を唇に当てる。吸い込むと肺が白い空気で満たされた。落ち着く。休憩で、文字通り肺から息を抜く。
「久しぶり」
小雨が降ってくる。丁度路地にはトタン屋根が付いている。屋根に弾かれた雨粒はリズミカルに音楽を奏でた。やけに楽し気で、煙草とはノリが合わない。舞い上がる煙もいささか気弱に見える。こんなもので喜ぶのは植物と子供ぐらいだろう。コンクリートを割いて咲いているタンポポを見てそう思った。灰色の雲から汚らしい雨が降って来る。ビル街を濡らしていく。
「まだそんなものを吸っているのかい」
煩い。雨音は次第に強くなってきている。スマホを取り出して時間を確認する。あと十分は休憩できる。ニュースアプリを起動し、目と指を滑らせていく。時折、昔やりこんだゲームソフトのリメイクの記事や、女性にモテる十の方法というエンタメ記事が目に留まったが、親指はそれら全てを無視して日米の関係悪化に関する記事を選択した。
「本当はツイッターを見たいんだよね。ゲームアプリもやりたいし」
煩い。煩い煩い。耐え切れなくなって振り向いた。拳を振り上げんばかりだった。喉からは、滑稽なうめき声が出た。しかし、網膜が一つの像を結んで、男の思考は止まってしまった。
「久しぶり」
雨の中には、いつか見たときと全く同じ、百万年くじらが立っていた。百万年くじらは雨合羽を着た少女の姿をとっていて、目と髪は藍色だった。
「久しぶり。元気では、なさそうだね」
不思議な響きだった。まるで、雨音のような、楽器を鳴らすような。彼女は雨の下佇んでいた。濡れることを気にせず、むしろそれを楽しむかのような。見つめてくる。見つめ返せば、裏表の無い笑顔がこちらに向けられる。それでも、狼狽えながらも言い返す。
「お前はもう俺には必要ない」
言い切った。言い切ってやった。煙草を落とし、吸い殻を踏み潰す。それを見ていた彼女は顔をしかめる。何が悪い。彼女は呆れたような顔をして、腕を組んでこう言った。
「僕のことは、君が作り出したんだ。僕は夢のヒーローだよ。いなくなってもいいのかい」
彼女の口の端から泡が零れ出る。泡は空気よりも軽く、一目散に空を目指して飛んで行った。彼女のことは、嫌いではない。しかし、やむにやまれぬ事情というものが大人にはある。
「大人になるためにかい」
それは少し矛盾かもしれない。ただ、仕方がないのだ。大人は完璧で。そうでなくても向上心があって完璧主義者で。いつでも現実を見続けて、正しさを正義として。まして空想や、陰謀論や、ゴシップや、信じるに足らない人間や、期待や、百万年くじらのいない世界を生きている。
「なんて凝り固まった偏見。君の言う大人はそんなに素晴らしいものかい」
素晴らしいかどうかなんて関係ないだろう。世界は今、大人を欲している。新人社員に中学生を雇い入れる会社なんてない。それに偏見ではない。殆どの人がそう思っているだろう。人間は、いや、社会は、大多数で偏っている方に味方する。正しいとはそういうことで、それは当然の事だ。大人の世界ならば。むしろ、少数派に回ればそれこそ偏見として捉えられることだろう。心の中で言い返す。一拍。彼女は目を伏せて、少しだけ黙った。雨が降っていた。トタン屋根は無機質に音を響かせた。彼女は目から涙を流していたが、特に何も感じなかった。やがて、彼女は口を開いた。口からごぼりと、大きい気泡が空へ飛んで行った。
「君の夢は何だっけ」
老衰。家族に看取られながら死ぬこと。ある程度の収入のある安定したポストに就くこと。死ぬために生きる、生きる故に死ぬ。ならば、その時まで安らかに。
「僕とデートすることではないんだね。残念だなあ。少し期待してたのに」
約束に応えられなかったことには申し訳なく思うが、幼少期の頃の約束で、時効だ。それに契約書もない。スマホを見れば、十五分は経っていた。最近、時が過ぎるのが早く感じられる。そして、さようならを言おうとした。彼女は半身が水たまりになっていた。最後に、と彼女は言った。
「煙草を吸うのがかっこいいって、もう思ってないのならやめなよ。病気になるかも」
そんな理由で吸ってはいないと告げる。それに体を壊す可能性も承知の上だと告げる。さらにあなたは僕を好ましく思っていないはずなのに心配をするのは異常だと告げる。それから、
「もう十分だ!君は何も分かっちゃいない。分かったふりをしている。人に揶揄されるのが怖くて、完璧でないことが怖くて! おまけに愛も夢も希望も自ら捨てたくせして救いも何も無いような顔して! 合理主義に憑りつかれ、無常を装って切り捨てて、いらなくなったら捨てて、僕のことも捨てて。大衆の言うことを一般論として振りかざし、全て鵜呑みにして。変われやしないくせに変わりたいだの、正しさが何かも知らないくせに正しくあろうとして! 感性を捨てることが大人か!物言わぬロボットになることが仕事か! 楽に死ぬことが人生なのか! 君は偏見だらけだ! 本当の大人には偏見なんてない。君は、子供だ、子供だ、子供だ子供だ、子供だ子供だ子供だ子供だ! 哀れだ、惨めだ。こんなことを言われて、顔色一つ変えず、怒ることも泣くことも出来ない君は、本当に」
一呼吸、言い終わらぬままに彼女は、百万年くじらは全てが水になって、そして気体になって消えていった。百万年くじらは百万年の歳月を経て、空へ昇って、雲になる。そうやって世界を旅する。そんな筈がない。根拠も、理屈も、証拠もない。雨は止んでいた。世界は灰色だった。私は何をしていた?
「あ、先輩ここにいたー。もう、タバコ休憩は一回十五分までですよ。気持ちはわかりますけど、我慢して戻ってきてください。それにタバコ吸うのはあんまりよくない、って何で泣いてるんですか」
後輩に言われて頬を手の甲で拭う。ひやりとした感触で、甲が湿った。ただの雨水みたいだ。後輩は残念そうにした後、空を見上げて感嘆の声を上げる。
「うわあ、虹、虹が出てますよ、先輩」
そうだなと、
そうだなと空返事をする。彼の目は、虹も、タンポポも、水たまりに映る自分の顔も、後輩の詳細な情報も、どうやって飛行機が飛んでいるのかも、どうして雲にくじらがいないのかも映してはいなかった。時間を無駄にした。仕事場に戻る。もう一度、正常に人生を始める。
「大人ならいつまでも子供でありたいって思うのにね」
雲の上、百万年くじらは言う。彼女が次に降るのは百万年後。彼とはもう二度逢うことはない。
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