僕が泣いた日

八稜鏡

僕が泣いた日

僕は生まれてから一度も泣いた事がない。

僕は生まれてから一度も笑った事がない。

僕は生まれてから一度も人が作った料理を食べた事がない。






 その日は桜が咲いていた。

 仕事終わりに見付けたその桜の枝を折ろうとして、手を止める。

 思い出したのは妹の事だった。

「銀ならば手折らぬな」

 龍之介はおもむろに携帯を取り出して、写真を撮った。

 それは人生で初めての事だった。

 陽が登りつつある道を一人、歩む。

 辿り着いた家の扉をゆっくりと開けた。

「銀は寝ているだろうか」

 予想に反して、部屋は明るかった。

「兄さん、おかえりなさい」

「ただいま帰った」

 良いにおいがする、と目を瞬かせる。

「先にシャワーを浴びてきてください。出る頃にはご飯も出来ますから」

 その声に龍之介は三度、瞬きして三度、咳をこぼした。

 呆然と玄関で固まり、首を傾げる。

 取り敢えず、血生臭さを落とそうと大嫌いな風呂へ向かった。

 嫌いなものに立ち向かえる程に動揺していた。


===:===


 シャワーを浴び終えて、四畳程のダイニングに向かうと銀がちゃぶ台の横で座って待っていた。

 ちゃぶ台には美しい料理が鎮座している。

 ご飯、ワカメと葱の味噌汁、鰤の照り焼きという献立だ。

「料理、練習してたんです」

「美味しそうだな。何故だ?」

「だって今日は兄さんの十七歳の誕生日ですから」

 銀は美しく笑う。

 龍之介は呆然とそれを見詰めていた。

 自然と頬を涙が伝う。

 ぼろりぼろりと止めどなく涙が溢れる。

 それからくしゃくしゃに笑った。

「嗚呼、有難う」







 その日食べた料理は人生で一番美味しいものだと今でも云える。

 どんな事があろうとも出なかった涙がこぼれた。

 どんな事があろうとも出なかった笑みがこぼれた。

 僕に内在する感情を引き出す切っ掛けは何時いつも妹だった。

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僕が泣いた日 八稜鏡 @sasarindou_kouyounoga

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