第10話「流星を目指す」の巻

 祭林が職場に復帰して、二か月が経った。入院のことも、すでに遠い過去のことのようだ。しかし、暇である。自らを窓際課長とか閑職課長と名乗るのも、謙遜や卑下ではない。その日も、朝から爪を切っていた。手の指が済み、靴下を脱いで足の指へと進んだ。そのとき、フロアの反対側から、同じようにパッチンパッチンという音が響いてきた。若いとき、売り上げ棒グラフの最下位を争った庶務課長である。濃い付き合いはないが、馬が合う。祭林は靴下を履き、庶務課長の席に向かった。

 「祭林課長も暇そうだね」と爪を切りながら、庶務課長が言う。

 「こんな社員をかかえて、よくこの会社潰れないね」と祭林。

 「それ、あんまり冗談になってないよ」

 「そうだね」と祭林は舌を出した。

 「だけどね、閑職課長はどこの会社にもいるらしいよ。そして、世の中にリストラの嵐が吹き荒れようとも、決してその席を追われることはないんだ。そういう奴に限ってね」と庶務課長。

 「いったいどのような術をもって、この世知辛い現代を生き抜いているんだろうね」と祭林。そのとき、二人の背後に人の気配。

 「胸に手を当てて考えてごらん」

 「社長!」。二人はバツの悪い思いをしたが、社長も折り畳み椅子を出して、そこに居すわった。社長はそんなことにめくじらを立てるような人物ではない。

 「なぜ、君たちがリストラされないか教えてあげよう。それは、あんまり役には立たないが、そんなに邪魔もしていないということなのさ」

 「それは、随分な評価じゃないですか」と祭林。

 「確かに欧米的会社文化的にはね。だけどね、ここは終身雇用、年功序列の日本なんだよ。雇った限りは面倒みなきゃいかん。それは、先代の遺言だ」

 「うーむ。これは、お小言のようですな」と庶務課長。

 「でもね。ボクは分かっている。君たちがこの会社に必要な人物であることを」

 「褒めてくださいますか」

 「うん。反面教師的存在だね」という社長の言葉に、二人はギャフンとなった。

 「ウソだよ。君たちは部下にも同僚にも好かれている。それは大切なことだよ。特にうちのような小さな会社では、内紛を起こさないことが、成績に優先することがあるんだよ。今はいい人になってしまったが、前の部長はいざこざ好きみたいなところがあっただろ。あれをやられると、部下がすくむんだよ。ボクはああいう雰囲気が好きじゃない。いい緊張感じゃないよな。それより、君たちみたいな、軟骨みたいな存在が好きなんだ」

 「やはり、褒められている気がしません。せめて、軟骨と言わずに潤滑油と言っていただけませんか」と庶務課長。

 「ははは、軟骨とは言わないか。君たちには最高の賛辞と思ったんだが…。そうだ、面白い人を紹介しよう」と言って、ポケットから美術展チラシを出した。ズラリと並ぶ出展者の名前の一行にペンでマークが付けられていた。「篆刻(無鑑査)木原実」。

 「その人知ってるかな。すっごい人らしいよ」

 社長の従兄弟が経営する関連会社の課長で、二人とも取り引きで少しだけ知っていた。切れ者のイメージはない。どちらかというと、祭林や庶務課長と同じ臭いのするタイプだ。そろそろ退職ではないだろうか。万年平社員だったが、最近、課長になったらしい。

 夕方、庶務課長と祭林は、会場の公立美術館に行った。

 その「すっごい人」は、書道のコーナーの篆刻の出展者だった。

 「これ、何て読むんだ」と庶務課長。

 「てんこくだよ。落款とも言う」と祭林が誇らしげに言う。

 「てんこく? らっかん? 何だよそれ」

 「落款は書の下に押すハンコのこと、篆刻はそれを作ることだ」

 「さすが閑職課長。調べてきたな」

 二人は笑いながら、その作品の前に来た。

 「何が『すっごい』のか分からないよなあ」と庶務課長が首をかしげる。

 「いや、すっごく力強くて、インパクトがあるじゃないか」

 そのとき、二人の背後に人の気配。

 「ありがとうございます」

 それは、社長が「すっごい人」と言った木原課長であった。

 「お久しぶりです。お二人が来られると、お宅の社長から直々にお電話をいただきましたもので、待っておりました」

 「そうですか。それはそれは」と二人は恐縮した。

 「それでは早速、一杯行きましょうか」と木原課長。

 「作品の解説とかしていただけないのですか」

 「いえいえ、こんなもの意味はありません。お恥ずかしい。さ、行きましょう」と木原課長。促されるままについて行った。

 三課長は、美術館の裏の高級そうな料亭に入った。

 「あのお、いきなりこんなことを言うのも不躾ですが、このようなことになるとは思っていませんでしたので、財布の中身が不安なのですが」と祭林。

 「ああ、本当に何も聞いていらっしゃらないのですね。お宅の社長持ちということでしたので、遠慮なくご案内したんですが、それって、まずいですか。社費?」

 「社長がそんな伝票を切れと言ったことはありません。きっと自腹です。全然、まずくないです。ガンガン行きましょう」と庶務課長。ビールをつぎ合って乾杯した。

 「美術展には、いつごろから出品されてるんですか」と祭林。

 「実はまだ五年ほどなんです。篆刻を始めたのは五十路を過ぎてからです」

 すでに今は還暦。あと数か月で退社だという。

 「それで、無鑑査とはすご過ぎます」と祭林。無鑑査という言葉も、昼間に事典で調べた。

 「無鑑査って何よ」と庶務課長。

 「審査を受けずに出品できる待遇です。いや、もちろん、それまでの経緯があるんです」

 木原課長の話はこうだった。若いころは、うだつの上がらない営業で、出世もどんどん遅れていった。人当たりは良いのだが、如何せん口下手である。三十代半ばにして仕事も奪われ、どうしようもなく暇で、毎日爪を切っていた。あまりに重なる会社人生に、二人は身を乗り出した。切る爪がなくなると、次にハンコ掃除をするのが日課となったそうだ。ハンコをシゲシゲと眺めていると、自分にも彫れるような気がしてきた。最初は年賀状のイモばん程度だったが、やがて、木、石と素材にも凝りはじめた。印相も勉強したという。そして、篆刻という世界があることを知り、五十五歳で若い前衛書道家に弟子入りしたという。篆刻は書道の添え物のように考えられがちだが、決してそうではない。師匠は書を教えながらも、篆刻をメインにした作品づくりを応援してくれたという。そして、会社をクビになりそうな時、この美術展に初入選したのだそうだ。会社には特に言わずに、趣味としてやってきたことだが、初入選を知った社長はラストチャンスとして、自分をデザイン部門に配置転換した。そして、代理店にはない和風の視点は、顧客を驚かせたという。そして、遅ればせながら課長昇進となった。本人は、偶然の偶然だというが、祭林は指の分厚い「彫刻刀ダコ」を見逃さなかった。

 「ハンコ掃除が高じて篆刻作家ですか」と庶務課長が感心したように言う。

 「あまり言わないでくださいね。ほかの作家の皆さんを馬鹿にしたような感じにとられてもいけませんから」と木原課長。

 「謙虚な方だ。社長があなたを紹介した意味が分かるような気がする」と庶務課長。

 「社長は軟骨と言ったよ。つまり、会社組織を支えるのは硬い骨だが、ちゃんと動けるのは軟骨があるからなんだよ。あれは、褒め言葉だったのかも知れないな。木原課長もきっとそういう存在なんだ。しかし、木原課長は、私らとは違う輝きを持っている。社長は、ただの軟骨で終わるなと言ってるのかもな」と祭林。

 「きっとそうだ。これは社長の俺たちへの研修だったんだ」と庶務課長も納得。

 「それはご謙遜です。ただ、私もデザイン部門に回されたときは初めて頑張りましたよ。ダメな自分を雇い続けてくれた会社への恩返しができるかもしれないと思ったのです」

 「自分も、会社が生活するためのカネをもらうだけの場所とは思っていない。そこには、自己実現の機会があると信じてきた。…最近、忘れてたかもな」と庶務課長。

 「会社人生終盤の輝きか。私たちも輝きたい」。祭林は天井を見上げた。

 しばらく、沈黙があり、静かに酒を酌み交わした。

 「祭林課長は、私の作品を一目見て、力強いという大変うれしい評価をくださいましたが、書のお心得か何か」

 「どうせ、適当なこと言ったんですよ、こいつ。調子いいんだから」と庶務課長。

 「適当と言えば適当でした。しかし、そうですね。何か心に判を押されるような強い衝撃を感じたことは確かですね」

 「心に判? 初めて聞く表現です。身に余る言葉です。ありがとうございます」

 「確かに。お前、酒が入るといいこと言うよな」と庶務課長。

 「あまり、うれしいので、あの作品は祭林課長に差し上げます」と言って、鞄から紙に無造作にくるまれた石の塊を出して、祭林に手渡した。

 「紙に押した作品かと思えば、そのものじゃないですか。これを私に?」

 「お恥ずかしい。大したものではありません。本日の飲み代だと思って、お宅の社長さんに礼を言ってください。庶務課長にはこちらを。今度、額装したものも差し上げます」と言って、庶務課長にも渡した。二人は包み紙を取り、重さを確かめた。

 「何と書いてあります」。前衛的でしかも裏文字なので読めない。

 「庶務課長の方は『上弦』、祭林課長の方は『流星』と書いてあります」

 上弦とは三日月のことで、まだまだ大きくなるぞという意味。流星は一瞬の輝きを意味している。どちらも、木原の強い思いが込められている。

 三人は、馬鹿話も始めた。庶務課長はこともあろうに、篆刻作家からハンコ掃除の方法を習ったりしていた。また、爪切りの極意を披露し、自分はネールアーティストを目指すなどと宣言した。そして、「祭林課長は何を目指すのか」と聞かれた。

 「祭林駿一は、『流星課長』を目指します!」と力強く宣言。

 「はて、流星課長とな? さて、その心は?」

 「流星はただの石ころ。人生の大半を暗い宇宙で彷徨っている。しかし! 大気圏に突入するや否や、一等星の輝きを放ち、そして、一瞬のうちに消えていく。かくありたや」

 「なるほど! 隕石のように地面にぶち当たり、家を壊すような迷惑もかけないわけですね。私もそこまでは意図していなかった」と木原課長。

 「そして、跡形もなく消えるのか。それは美しい。お前、いいハンコもらったな」と庶務課長。三人は大笑いをした。楽しく、意義深い夜となった。

 三人は店の前で分かれた。祭林は、帰りのバスの中で、木原の作品を眺めた。

 「流星」。祭林はつぶやいた。

 「流星は願い星。人の願いを叶える星。かくありたい」

 祭林は、翌日から、稟議書類に「流星」の印を押しはじめた。

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