第5話「おやじ同盟を組む」の巻

 今日もバス通勤である。あの「バス内大演説事件」から三日、祭林の乗るバスはすいていた。その光景を見るのがつらくて、この日は運転手のすぐ後ろの席に座った。二座席独占を指摘され、恥をかいた本人なら分かるが、あの時、拍手を贈ってくれた人さえも、この便をはずしているらしい。合点が行かない。「間違っていたのか」と胸に手を当てる。バス停で待っている人さえおらず、快速便のように進む。

 久しぶりに、バスがバス停に停まり、一人の男が乗ってきた。恐る恐る振り返ると、あの日、バスを降りたとき、「胸がスッとしました」と言って握手を求めてきた同年輩の男である。この男にまで目を伏せられたら、まったく自信を失うところだった。

 「おはようございます」。男は笑顔を見せながら、隣に座ってきた。救われる思いがした。

「先日は、本当にスッキリしましたよ。…あれ、今日はすいてますね」

 「あれ以来、なぜかこうなんですよ」。祭林は寂しそうに言った。

「ボクはあのときから初めてバスに乗るのですが。そうなんですか。どうしてですかねえ」

「私のやったことは、間違っていたのでしょうか」

「何をおっしゃる。断じて間違ってなどいようはずがない」

 「ありがとうございます。そう言っていただければ…」。涙が出そうになる。

「しっかりしてください。あなたはヒーローなんですから」

 「そうですよ。あなたはヒーローですよ」。運転席から別の声がした。運転手の名前を見れば、あの日の福本運転手である。

「ボクは日によって、この前後の便も運転するんですが、二座席独占がまったくなくなりましたよ。昨日、あの高校生はこの前の前の便に乗ってましたけど、満員になったら一番先に立って、席を譲ってましたよ」

 「そうですか」。祭林は自分の行動が間違っていなかったことを知らされ、安堵のため息を漏らした。

「しかし、なぜ、この便はこんなにすいているのでしょうか」

 「それが分からないんです。同僚の運転手とも話しましたが、この便が一番多かったのに、前後に振り分けられてしまってるんですよね」。運転手も首をかしげた。

 「正しいことは煙たがられるんですよ」。同年輩の男が言い、そして続ける。

 「私、加藤と言います。よろしく。……いや、私も会社でね、同じような寂しい感覚に陥ります。私が正しいと思うことをはっきり言うでしょ。誰も反対はしないんです。むしろ、賛成してくれるんです。しかし、気がつくと周りと距離ができている」

 「どういうことでしょうか」。祭林は尋ねた。加藤と名乗った男は説明する。

「だいたい、正義の味方みたいな行動をすると、『なんだいカッコつけやがって』みたいになるでしょ。それが社長や若い人ならいいんですが、私たちみたいな『ただのおやじ』が言うと、ダメなんですよ。世の中にとって『おやじ』は最低の存在でなければならないんですよ。ヒーローを演じる役回りじゃないんですよ」

 しばらくの沈黙の後、祭林は言った。

「加藤さん。それは違うんじゃないでしょうか」

 「ボクも違うと思います」。運転手も言った。気がつくと、降りるバス停が近づいていた。

「祭林さん。どうですか。一回一緒にゆっくり飲みながら話しませんか」

「いいですね。ぜひぜひ。なんなら今夜でも」

「いいですよ。では、携帯の番号を教えてください」

「私、そういうもの持たない主義なんですよ」

「ほらほら、そういうことを主義だなんて威張るから、嫌われるんですよ」

「私は、嫌われていない!」

「ごめんなさい。ムキになりなさんな。冗談です。冗談です。でも、あなたは愛すべき『おやじ』さんです。分かりました。では、バス停で待ち合わせましょう。いつも、何時のバスで帰られます?」

「六時十二分です」

「その頃、バス停で待っていますから、その辺で飲みましょう」

「分かりました。そうしましょう」

 「あのお、ボクも混ぜてもらえませんか」と言ったのは、福本運転手。

 「どうぞどうぞ。あなたも同志ですから」。祭林が言った。

「うれしいなあ。ヒーローおやじに同志なんて言ってもらって。じゃあ、少し遅れますけど、店が決まったら教えてください。ボクは携帯電話を持ってますから」

「持っていることを威張るなって。普通のことなんだから」

 「やねこいオッサンたちやな」と福本が言い、三人は楽しそうに笑って、分かれた。

 祭林は、仕事中も加藤の言葉を思い出していた。「正しいことは煙たがられる」。自分が煙たがられているのではないかとは思ったことがある。しかし、それが何だ。自分は自分と生きてきた。頑張ってきた。正義は勝つ。そう信じてきた。なぜ、それが否定される。そんな社会があるものか。許されるものか。自分の正義を押しつけて、周りを否定しまくるやつが嫌われるのは分かる。そんな輩はいる。前の部長。しかし、少なくとも自分はそうではない。と、思う。

 一日中、そんなことを考えていた。そして、会社が終わって、バス停に向かった。加藤は立っていた。

「やあ祭林さん。どうしたの浮かない顔をして。会社で何かあったんですか」

「そうですか。浮かない顔してますか。いや、今朝のあなたの謎かけが解けなくてね。悩んでました」

「謎かけ? 何のことでしょう。まあいい。行って話しましょう。そのビルの地下に安い店がありますから」

 本当に安そうな店だった。しかし、落ち着く。

 「いいですなあ。この雰囲気。私のようなおやじにはこれですよ」。祭林は背もたれもない椅子に腰掛けながら言った。

 「ここなら、正しいことを正しいと言えるでしょ」。加藤は言った。

 「それですよ、悩んでいるのは。『正しいことが煙たがられる』ってどういう感じなんですかねえ」

 「私もよく分からんですよ。でも、そんな感じなんですよ。世の中すべて」。と言いながら、加藤は福本に携帯電話で連絡をした。

「福本さんもすぐ来られるそうですよ。まあ、飲みましょうよ。……ああ、お姉さん、生二つ。それから、枝豆とすじ肉も二つずつね」

 加藤は明るい。「はい、かんぱーい。……クー。たまらんすな」。自分を悩ませておきながら、妙に明るい。二人は名刺を交換した。そして、お互いにメガネを持ち出した。同じ仕種に笑い、双方とも老眼鏡であることを確認して、また笑った。

「加藤晋さん。大手メーカーの部長さんじゃないですか」

「いやいや、地元の販売権を持っているだけの小さな会社です。あとでお話しますが、実は最近、その会社は辞めました。……まつりばやしさんとお読みすればいいのですか。あなたの会社、存じあげていますよ。昔、営業に伺ったことがあります。失礼ながら、あまりいい印象がありません。初めて、よその会社の人と喧嘩しました。なんていう人だったかな。眼鏡で小太りで髪が薄い」

「たぶん、こないだまで私の上司だった男ですよ。クビになりました」

「そうですか。それなら、あなたの会社も見込みがある」

「ずっと、いじめられていました。つい先日のことです。私は罠にはめられて、リストラされそうになりました。捨て身の切り返しで、見事にうっちゃり勝ちでしたがね」

「いやあ、痛快だな。やっぱりあなたは『おやじヒーロー』だ。私の場合は、うっちゃりきれずに、土俵を割ってしまいました。先代社長には気に入られて、部長にまでしてもらいましたが、二世社長の方針と合わなくてね」

「ありそうな話だ」

「いや、リストラじゃないんですよ。二世社長も私にはそれなりに気を遣っていた。彼が若い頃、私が教育係でしたからね。辞めると言ったら、取締役の椅子を用意していると慰留もしてくれた」

「それじゃ何が気に入らなくて。私と違ってエリートじゃないですか。私は前の部長を追い出しても、部長にしてもらえないんですから。まあ、いまさら出世なんてどうでもいいですけど」。祭林は少しシラけた。

「儲け主義なんですよ。それはこのご時世、小さな会社を守るためには、仕方ない面はあります。しかし、お客を騙すような仕事のやり方は許せなかった。私はライバル社と同等の商品なら絶対に売り込んでみせた。少し劣れば、値段で勝負した。そして、信頼をかち得てきた。…ハッタリとウソの違い。若社長にはしっかり教えたつもりだったのですが」

「分かりました。あなたは優秀な営業マンだったようです。私とは違う!」

「そう言わないでください。私は間違っていたのかと思っていたところなんです。自信をなくしていたところなんです。時代遅れの正義を振りかざして、カッコつけて会社辞めて…。仕事もないのに、ときどきバスに乗って、会社の近くまで行ったりして、いったい自分は何をやっているのだろう。…そして、こないだのバスの中のあなたの勇気ある行動に出会ったのです。時代を問わず、正義は正義…」

「そうですか。あなたの謎かけの意味が少し分かったような気がします。あなたもヒーローだ」

 「ありがとうございます。分かっていただけてうれしいです」。加藤が涙ぐんでいた。それを見て祭林も眼鏡をはずして、目のあたりを拭った。

 「どうしたんですか。暗いじゃないですか。あれ、二人とも泣いている」。福本が現れた。

 「いやあ、待ってましたよ。福本さん。おーい、お姉さん、生三つ!」。明るい加藤に戻った。福本も明るい。祭林のおやじ狩り退治の話、加藤がライバル社の卑劣な作戦をひっくり返した話、福本が不正乗車の常習犯をやっつけた話など、武勇伝を披露し合った。盛り上がった。

 かくして、「正義のおやじ同盟」が結成された。

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