第6話「三途の川を渡る」の巻
祭林は、気分よく酔っていた。「正義のおやじ同盟」が結成された夜、加藤と福本と三人でタクシーに乗り、最後が祭林だった。玄関の鍵を開けたとき、吐き気をおぼえ、トイレに駆け込んだ。フッと意識が遠のき、洋式便器を抱き抱えるように倒れ込んだ。ただならぬ物音に祭林の妻が寝室から現れた。
「どうしたの。大丈夫?」
「ちょっと気分が悪い。飲みすぎた」。視界がフェイドアウトしていく。
「しっかりして、しっかりして」という妻の声も、徐々にフェイドアウトしていく。救急車のサイレンが、人ごとのように遠く聞こえていた。
気がつくと、一面ピンクの花畑に立っていた。
「死にかけているんだな」
それが臨死体験であることを自覚しながら、不思議と穏やかな気持ちだった。
前方で、白い服の少女が一人、花を摘んでいた。祭林が近づくと、それは中学時代に思いを寄せた初恋の少女だった。こちらを振り返り、可憐な笑みを浮かべた。
「祭林くん。この花のこと、覚えてる?」
「コスモス?」
「コスモスって、宇宙っていう意味なんだよ。祭林くんが教えてくれたのよ。宇宙という名前の花。素敵ね」。祭林は何ともいえぬ甘い思いに包まれた。
「この花は、魂が地球を離れて星になる、その途中に咲いているのよ」
「それで、コスモスか」とつぶやいたとき、既視感に見舞われた。以前に同じ景色の中で同じ会話をしたような気がする。
「思い出したようね。祭林くんは、前にもここまで来たことがあったのよ。大学のとき、死にかけたでしょ」
次の瞬間、背後でガラスが割れる音がした。振り返る。火炎瓶。炎が上がり、大学紛争の風景がコスモス畑を消し去っていく。初恋の少女も消えた。ヘルメットにタオルのマスク、角棒を持った集団がゾンビのように迫ってくる。反対側でゴキブリのかっこうをした機動隊が迎え撃つ。騒然としたモノクロの風景の中、炎のオレンジが燃える。祭林は機動隊の一人に押さえ込まれた。
「こら、祭林駿一。お前、この前、偽名を名乗っただろう」
「そんなことはしていない!」
その時、ヘルメット集団から火炎瓶が投げつけられた。「ただのノンポリかと思ったら、当局の犬だったんだな」と罵声が浴びせられ、警察官もろとも炎に包まれた。
その光景を少し上から俯瞰で見ている自分がある。「この時、死にかけたのか」と思ったが、明らかに自分の体験とは違う。おそらく、違う世界の自分がここに来たのだろう。
浮かんで、風に流されていると、思い出がランダムに蘇ってくる。小学生の時、フナムシを大量虐殺したこと。中学の頃、隣のお姉さんがお風呂に入っている音に聞き耳を立てていたこと。高校の物理の試験で、カンニングして八十九点を取ったこと。大学の講義の時、代返屋で小銭を稼いでいたこと。就職してすぐ、喫茶店でサボっていたこと。いずれも心の片隅で眠っていた、少しやましい思い出ばかりであった。
「これが走馬灯なんだ。懺悔させられているのか。しかし、あまりにみみっちい」
突然、浮力を失い、地面に落ちた。景色は賽の河原、目の前には三途の川。確実に死に近づいていることを感じていた。
とぼとぼと歩いていると、前の部長が立っていた。人が違って、善人そうである。
「やあ、祭林さん。こんなところでお会いするとは奇遇ですね」
「部長。その後、いかがお過ごしですか」
「あれですよ」と指さす方には、木の枝に首を吊った部長のむくろ。
「ごめんなさい!」。祭林は土下座した。
「いいんですよ。どうか手を上げてください。私が悪いんだ。それより、これも何かの縁です。一緒に川を渡りませんか」
祭林は促されるままに、船着場に行った。船頭は鬼。鬼と言っても、頭に小さな角があるだけで、痩せて色の黒い、人の良さそうなおじいさんだった。
「船賃をお願いします」と言われ、部長は財布から一万円札を数枚渡した。祭林も財布を手にしたが、いつものように三千円しか入っていなかった。
「祭林さんは急だったようですね。私は覚悟のうえだから、準備してました。おごってあげたいのですが。私も丁度しか持ち合わせがない。渡ってしまえば、お金に用はないそうですから」
「船頭さん。私はお金を持っていないので、働いて払いますよ。私に竿を持たせてもらえませんか」
「うーむ。亡者に竿を触らせるわけにゃいかんのじゃが。実は最近、腰が痛くてたまらんかったんじゃ。一回やらしてみるか」
「ありがとござんす。親方」
「親方か。ええ響きじゃ。もう一遍言ってくれねえか?」
「それじゃ、行きやすぜ、親方」
「祭林さんは、キャラクターが定まらないねえ。まあ、どうでもいいんですけど、ちゃんとお願いしますよ」
「大丈夫ですよ、部長。私のせいであちらへ行くことになったんだ。責任を持ってお届けしやすぜ。ねえ、親方」
「あんたの竿、素人じゃねえな」
「子供の頃、材木運びの手伝いしてたりしたもんでね」
「どおりで。おい、その辺、浅瀬があるから、気いつけな」
「分かりやした、親方」
「いいねえ。あんた、気に入ったよ。なあ、あんたのこと、何て呼べばいい」
「マツとでも、呼んでくだせえ。おいらも、親方が他人のようには思えませんや。死んだおやじに似ている」
「そうかい、マツ…」
そうこうしているうちに、あちら側へついた。親方が説明を始める。
「これが彼岸だ。この先に関所がある。そこで、極楽と地獄の振り分けがある」
「私は地獄ですな」と部長が言う。
「まあ、地獄も悪くないぞ。極楽は退屈で仕方ないからと言って地獄へ行きたがるヤツも多い。地獄の人口が増えすぎて、今では月に一度軽いお仕置きを受ければ、あとは遊んで暮らせるんじゃ。それもあんまり真面目にお仕置き場に通ったりしていたら、極楽送りにされる」
「そうですか。それは気が楽だ」と言って、部長は降りた。続いて祭林が降りようとすると、親方が言う。
「マツ。お前はワシを手伝ってくれねえかい。ワシには子がおらん。後継者がおらんのじゃ。さっき、お前がおやじに似ていると言ってくれたのは嬉しかったぞい」
「親方……。そこまで見込まれちゃあ仕方ねえ。やらしてもらいやす。部長、それでは、お別れでござんす。達者でお暮らしくだせえ」
「あんたも元気でな」
部長と別れて、船を彼岸から離し、三途を戻った。
すると、船着場には、女が立っていた。自分をセクハラ疑惑から救ってくれたお局様である。なぜか、二十代の風貌で艶かしく美しい。長い髪をローマ神話の女神のように風になびかせていた。
「あんたも死んだのかい」と祭林。
「バカ野郎。あんたを迎えに来たんだよ。あんたまだ、こっちでやることがあるんじゃないのかい。正義のおやじなんだろ。そんなことやってる場合じゃねえだろう」
「しかし、せっかく親方に気に入ってもらって、これ始めたところなんだ」
「マツ。あんたは戻んな。胸に手を当ててみなよ。まだ、心の臓が動いとるじゃねえか。今なら戻れる。ここへは、どうせいつか来るんじゃ。ワシの後継ぎはそれからでも遅くねえ。ワシはあと五十年頑張れる。それまでには、いくらあんたでもここへ来るだろう。待っとるよ。マツ」と親方は、祭林から竿を取り上げた。
「親方…」
「それじゃあ、帰るよ! あの道を行くのさ!」と、女神様が指させば、賽の河原は、宇宙という名前の花の野原に変わる。そして、指先から放たれた光にしたがい、一本の真っ直ぐな道ができた。祭林はその地平に消える長い道を走り始めた。
何度か息苦しさを感じ、立ち止まろうかと思ったが、そのたびに、福本の運転するバスが伴走し、窓から加藤が顔を出して「祭林さん頑張れ!」と励ましてくれた。バスの中には、妻と子供たち、それにお局様や多くの同僚が乗っていて、祭林に声援を送り続けた。すると、華やかな思い出が蘇ってくる。自信がみなぎってくる。最後に、おやじ狩りのワルどもが前方に立ちはだかったが、こいつらを右へ左へ蹴散らした。
「がははははは。正義は勝つ!」
祭林はパチりと目を開けた。
「がはははは。ははは…はは…は。……生きているのか」
病院のベッドの上らしい。妻の顔が見えた。「おかえりなさい」と言い、涙をこぼした。結婚した長女と、東京の大学に通う長男も帰っていた。
「お前たち、いつ帰って来た」
「ビックリしたよ。急に大きな声で笑い出すから」
祭林にとっては、一夜の出来事だが、実際は三日が経っていた。トイレで倒れたのは脳内出血が原因だった。救急車で運ばれて、すぐ手術になった。長い手術だった。翌朝、妻が会社に連絡をすると、数人の同僚が輸血用の献血を申し出てくれた。その中の一人の女性は、長い手術の間中、妻を励ましてくれたという。きっとお局様である。あのとき、彼女の血が迎えに来たということか。また、手術が終わる頃には、加藤という男が現れ、夕方には福本と名乗る男と一緒に再び来たという。加藤はあの翌朝、祭林がバスにいなかったことが気になって会社に電話した。しばらく休むかもしれないと聞かされ、驚いて病院に駆けつけたのだった。あの晩、一緒に飲んでいたことを妻に告げ、詫びたという。
一旦意識が戻ってから、また眠りにつき、夜に起きて、この話を聞いた。
「あなた、いろいろな人に、愛されているのね」
「ありがたいことだ。みんながこちらへ呼び戻してくれた」
包帯を巻いた頭が、ガラス窓に映る。
「丸坊主なんだろう。中学校以来だな」
「若返ってると思うわよ」と笑う妻。生きていて良かったと実感した。
その時、ガラスに小柄な老人が映った。ドキッとした。
「執刀医の先生よ。ちゃんとお礼を言って」と妻が言う。祭林はつぶやいた。
「親方……」
ベッドの横のテーブルに置いたコップに、ピンクの花が一輪さされていることに気付いた。
「宇宙という名前の花……」
「まだ、意識が混濁しているようですね」
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