第4話「通勤地獄に遭う」の巻
バスで通勤している。今日も立っている。しかもギューギュー詰めの満員である。この団地に引っ越して来たころは必ず座れたが、近年、バスの出発地点に巨大な団地ができた。JR通勤も試みたが、ローカル線で便数も車両も少ない。駅は3キロ先。降りて会社までまた2キロ近くある。バスで乗り継げば、高くつく。歩くとすれば六時半に家を出なければならない。
気になっていることがある。この満員バスの中、二人掛けの椅子に一人で座る不心得者が必ずいることである。常々、誰か言わないかなと思っていた。今日も見える限り三人。一人は、自分の眼下にいる。まじめそうな高校生だが、かばんを横に置いて、眠った振りをしている。言うとしたら自分である。意を決した。
「キミ。立ってる人がたくさんいるんだから、かばんは膝に置いてはどうかな」
自分としては、最高に紳士的に言った。たぶん、聞こえているのであろうが、目を開けずに窓に顔を向け、無視した。ピキッときたが、極力抑えて、さらに言う。
「徹夜の勉強で疲れているのかな。お休みのところ悪いが、できるだけ多くの人に座ってもらおうじゃないか。ねえ、キミ」
高校生はようやく目を開けた。そしてボソボソと言った。
「うるせえな! 自由じゃないか。始発の車庫からここに乗ってんだ。俺の権利だろ。座りたかったら、オッサンも車庫まで来いよ。ムカつくな」
笑顔で彼のかばんを持ち上げ、自分の膝に乗せて、隣に座りながら言う。
「まあいい、ゆっくり話をしようじゃないか。まだ先は長い」
「うっぜえなあ。あっち行けよ」
「まじめな勤勉青年かと思っていたら、結構、コワいんだねえ、キミ。……だがね、僕を怒らせたら、もっとコワいと思うよ。実はこないだ、おやじ狩りに遭ったんだけどね。ワン・ツー・スリーで蹴散らしてやったよ、六人も」
祭林の武勇伝にも高校生は知らぬ顔である。険悪な雰囲気に満員のギャラリーは固唾を飲んで見守っている。
「うるせえなあ。貸せよ」と言って、かばんをむしり取った。かばんの角の金具が祭林の顔に当たった。
その時、祭林の中で何かが音を立てて切れた。
「痛いよ。謝れよ」
祭林は、ひとしきり青年を睨み付けた。そいつは度を失って下を向いた。
「キミはさっき、自由と言っていたよね。そして、権利とも言った。自由と権利。素晴らしい言葉だ。この二つを勝ち取るために、多くの人が戦い、血を流したんだ。キミのような勉強好きの青年は、きっと学習済みのことだと思う。実践しなくちゃ意味ないよな。自由も権利も手前勝手ということではないんだよな!」
そして、祭林は座席に立ち上がった、律儀に靴を脱いで。そして、手を口の横にあて演説を始めた、極めて明るく。
「満員バスでご通勤、ご通学の皆さん。大変ご窮屈さまでございます」
運転手がビックリしてバスを止め、マイクで言う。
「危険ですので、座席に立ち上がらないでください。また、他のお客さまにご迷惑をかけるような行為があった場合は、下車していただきますので、ご協力をお願いします」
「はい、運転手さん。毎日ありがとうございます。本日は……福本運転手ですね。感謝しております。他のお客さまにご迷惑をかけるような行為はいたしません。バスが止まって遅刻するお客さまがあってはいけませんので、どうぞ走らせてください。私には忍術の心得がございますので、コケたりはいたしません。あんたの代わりに少しばかり言わせていただきますので、しばらく、福本運転手もご静粛にお願いします。決してバスジャックではございませんので、通報等はご遠慮ください」
バスは走り出した。祭林は高校生の頭をグリグリと無遠慮に撫で回しながら、時々、ペチペチ叩いて続ける。
「先程、インタビューしましたところ、この青年は、東大合格を目指しており、毎晩毎晩勉強勉強で大変疲れております。しかも始発から終点までの遠距離通学をしております。どうか、その辺のところお汲み取りいただき、もし、一人で二座席を占拠したまま眠りこけていることがありましたら、このように優しく揺すり起こしてやってください。必ず席は開けますと言っております。そうだね。キミ」
頭をおもちゃにされ、青年はうなずくしかなかった。
「それから、ほかにも何人か一人掛けの方がいらっしゃるようです」
と言いながら、バスの背もたれをピョンピョンと渡り、「はい、あなた。……あなた。あれ、そこにも」
と正面から指をさして回った。そして、最前列に立って締めくくりに入った。
「皆様にもきっと、お疲れのご事情がおありでございましょう。しかし、『せまい席 一つゆずれば 笑顔が二つ』と言うではありませんか。一時間の通勤地獄を笑顔で極楽にしようではありませんか。皆様の絶大なるご協力をお願いします。主唱運転手福本英伸。代読某社課長祭林駿一! ご静聴ありがとうございました!」
バスのあちらこちらから拍手が起こった。
祭林はさっきの高校生の隣に戻り、靴を履き、白髪の老人にその席を譲った。その行動に、またバス全体から盛大な拍手が上がった。
バスを降りると、次に降りて来た同年輩の男性が声をかけてきた。
「私もいつ言おうか、いつ言おうかと思っていましたが、勇気がなくてできなかったことなのです。ありがとうござました。胸がスッとしました」
課長祭林駿一、その人の求める握手に応じて、気持ち良く会社に歩を進めるのであった。翌日から、祭林の乗るバスはなぜか妙に空いたものとなった。
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