第3話「セクハラ疑惑に遭う」の巻

 ハゲ部長がいなくなり、課長祭林駿一は爽やかな日々を過ごしていた。

 部長の椅子を空席にしたのは、社長の配慮であったのだろう。部長の仕事には、実質祭林が当たっていた。といっても、威張ってガミガミいうだけの部長であったから、大した仕事があるわけではない。部長室は好きに使って良いということだった。自分の部屋にしても良いということだったのだろうが、祭林は会議室として利用することにした。午前中は、課長として自分の机で執務し、午後、会議や外の用事がないときには、この会議室で部長椅子に座り、悠然と資料に目を通したりしていた。

 そんなある日の午後、一番若い女性の部下が会議室にコーヒーを持って来てくれた。資料に目を落としたまま、「ありがとう」と言って、カップに手を伸ばした。

 祭林は人の手肌を感じ、続いて熱い液体を感じた。まだカップから離していない彼女の手の上に祭林の手が重なり、ハッとした彼女が手を引いたため、カップがはね上がり、二人の手にコーヒーがかかった。

 「あ、ごめん」と言ったが、熱いコーヒーはスカートにもこぼれ、カップは床にころがった。

 祭林は「やけどになる」と思って、こともあろうにスカートをめくるような動作をしてしまった。あわてたゆえのとっさの行動だったが、彼女は叫び声を上げ、その場に座り込み、さらには泣きだしてしまった。

 会議室のドアが開き、数人の男女がこちらを見ていた。この状況が非常にマズいものであることに気づいた。

 その人垣を分けて、お局様が現れた。

 「おお、おお、かわいそうに。どこか触られたのかい」と、座り込んでいる新入りの肩を抱いて言った。そして、祭林に向かって言う。

「部屋もらって、いい気になってるんじゃないのかい」

 相手は怖いものなし。もとより口のきき方はぞんざいである。しかし、彼女は影で暗躍するイヤみなお局ではなく、面倒見がよく女性社員の中では超派閥的なカリスマである。正義に反する者は上役とて容赦はない。祭林も一目を置いていた。今、そのお局が祭林にキバをむいた。

「いや、違うんだ。誤解なんだ」

 弁解しようとした祭林に二の矢が突き刺さった。

「それじゃあ、あんたが陥れた前のここの住人と同じだねえ。見損なったよ」

 前の住人、部長と同じ。祭林は何も言えなくなった。確かに見苦しい。

 お局様は、「あんたもいつまでも、泣いてるんじゃないよ」と若い女性社員を立ち上がらせて部屋を去った。

 セクハラ課長の汚名を着せられ、一転苦悶の日々が続くこととなった。件の女性部下は会社に来なくなってしまった。言い訳しても信じてもらえそうにない。それ以前に、言い訳をする自分の姿を想像すると情けなくて何もできなかった。前の部長と同じ、それは耐えられない屈辱であった。楽しくやってきたつもりのほかの部下もよそよそしい。何年もかけて築き上げた信頼関係がその事件で崩壊した。部長室に入る気分ではなくなり、自分の机で鬱々とした時間を過ごし、終業時刻にはさっさと帰る生活となった。そして、夜は悶々として眠れず、睡眠不足で出勤するのであった。

 一週間悩んで、「今晩、辞表を書こう」と決意した夕刻のことであった。一本の内線電話がかかった。お局様からである。話したいことがあるので、帰りに会ってほしいという。どうせ、吊るし上げだろう。どんな口汚い批判も甘んじて受けよう。辞表を書く覚悟はできたのだ。

 指定された喫茶店には先に到着したようだ。あれ以来、大好きなコーヒーを飲む気になれず、ミルクを注文した。お局様と例の女性社員が現れた。若い方は、涙目だった。気まずさに押しつぶされそうだったが、とりあえず、頭を深めに下げて詫びを入れた。

「申し訳ございませんでした。お望みとあらば、土下座も厭いません。あなたの心の傷を考えると、私がのうのうと会社にとどまることは許されないと存じます。明日、社長に辞表を提出する所存でございます」

「セクハラでハラキリかい。これぐらいで辞めてたら、今の幹部は一人もいないよ。潔いのはあんたらしいけど、セクハラ退社なんてカッコ悪いだろ。辞表になんて書くつもりだい。あんた、本当にやったのかい。認めてしまうのかい」

 お局様が言った。「えっ?」と顔を上げると、例の女性社員は、涙をボロボロ流しながら言った。

「ごめんなさい。私が悪いんです。すぐに、違うって言えれば良かったんですけど、大騒ぎになってしまって、恥ずかしくて会社に行かれなくなって……。課長にはとんでもないご迷惑をおかけしました。本当にごめんなさい」

「今日、この子に会って聞いてみたんだよ。一緒に謝りに来たよ。ごめんな、課長。……もっと早くしてあげれば良かったんだけどね」

「先輩は、あの日の夜から毎日何度も電話してくださっていたらしいんです。私、無断欠勤ですから、友達の家に逃げていたんです。先輩、仕事を休んで私を探して、迎えに来てくれたんです」

 その時、祭林の中で何かが音を立てて崩れた。

「祭林さんはそんな人じゃないって信じてたからね。……でもね、祭林さん。部長室に入るようになって、人が変わってしまったみたいだったよ。私の知ってるあんたじゃなくなってた」

 お灸をすえられたというわけか。

「ありがとう。……確かに慢心があった」

「分かればいいよ。私が『祭林シロ』と言えば、疑惑はすぐに晴れる。この子も明日から出勤するよ。だから、辞めないでよね」

「分かった。辞めない。ありがとう。……ありがとう」

 下を向くと涙が膝に落ちた。そして、思った。彼女は何故、私のためにここまでしてくれたのか。

「あんたが辞めたら、私もあの会社に行く張り合いがないよ」

 祭林は激しく思い出した。三十年近く前、彼女からもらった一通の手紙。

「よし。じゃ、今日の会合は終わり! 今日は帰って、ゆっくりおやすみ! 目の下、クマができてるよ」

 新入社員を伴って颯爽と去って行った。最後に振り返った笑顔に若かりし頃の彼女の面影が蘇る。

 あれがラブレターだったことに、今、気づく。あの頃は仕事のことしか頭になかった。結局、その後見合いで今の女房と結婚した。

 硬派一徹。課長祭林駿一、不覚にも赤面。経験したことのないトキメキを感じ、ミルクを飲み干した。自分らしくあれ、お局はそう教えてくれた。

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