受難

文虫

第1話

 お腹が痛い。


 俺は今、腹を抑えながら電車に揺られている。

電車通学に慣れてきたと思っていた頃、調子にのって早めに冬服から夏服に移行したことが祟って、現在恐ろしいほどの腹痛に顔を歪ませていた。


 家を出るときに、お腹弱いんだから気をつけなさいよと言った母は、正しかった。


「ぐっ……う……」


 人が多いこともあって、ほんのり暖かさを感じる車内だったが、冬の寒さが残る外の空気を存分に浴びて芯から冷えきった身体は、容赦なく大腸に刺激を与える。


「すーっふーっ」


 お腹を下しやすい体に生まれて十数年、独自に発見した特殊な呼吸法により、大腸の反乱をしずめる。


 落ち着け、落ち着け、俺は敵じゃない。


「ひっひっふーひっひっふー」


 俺の気のせいかもしれないが、ラマーズ法は腹痛にも効く。

こんなことに使ってごめんなさい、と妊婦の方々に若干の罪悪感を抱いてしまう。


 しかしこちらも緊急事態、小学校に大の便所に入ってるのを見られたくないから、みたいな子供ならではの意地ではない。

 公共の場で、たくさんの友達の前で、さらに脱出できない密閉空間のなかで腹痛に襲われている。


 こちらも必死なのだ。


「ひっひっふーひっひっふー」


 だんだんと痛みの波が遠のいていく。


 よしよし偉いぞ、そのままそのまま。


 俺は癇癪を起こした子供をなだめるように、自分のお腹を優しく撫でる。


「ふー」


 俺は他の部分をカバーする余裕が出てきたため、靴下を思いっきり引っ張りあげる。


 知らない人がいたら教えてあげたい、腹痛は足の冷えからくることが多い。

お腹が痛いとトイレに行って、どれだけ上を厚着にしても戦が終わらない時、それは大体ズボンが薄いか靴下を履いていない時だ。


 まったくこれっぽっちも根拠がない話ではあるが、完全に裸の状態よりも、ズボンと足の隙間から入ってくる風の方がお腹にくるのだ。


 そんなことを考えているうちに、深呼吸をして、第一波を退けることができた。

 周りの友達に俺を不審がってる者はいない、馴染めるようにスマホを触ろうとした瞬間。


『緊急地震速報です。強い揺れに警戒して下さい』


 人の恐怖感を煽るけたたましい音が辺りに響き渡る。


 驚く者、煩わしそうにスマホを操作する者、面白おかしくけたけた笑う者、そんな中で俺は、全身から大量の汗を流しながら、これから予想されるおぞましい未来を想像する。


 待ってくれ。


 車内の人間が、物珍しそうに窓の外を眺めている。


 いやだ。こんなの、間違ってる。




 電車が、止まった。




「う、わ」



 まずい。

まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい。



 どうする?どうする?



 身体の冷えからくる下痢は、例え身体が暖まったとしても、腹痛がおさまるわけではないのだ。

 つまり、この暖かい車内でも、第二波は必ずやってくる。それがおさまっても、また次の波がやってくる。


 次の駅にトイレがあるはずだったんだ。

多少恥をしのんででも、その駅で降りるはずだったんだ。


 どうしてこんなことに……。


 いや落ち着け、動揺すれば呼応するように第二波がやってくる。

とりあえずお腹を暖めよう。


 もはや周りの目を気にしている場合ではない俺は、しゃがんで、足とお腹の間に腕を挟む。

 裾から入ってくる空気を少しでも減らすため、足首を交差させる。


 ある程度余裕がでてきたため、腕を交互に動かし、摩擦でお腹をより暖める。


「ふー落ち着け、時間を稼ぐんだ」


 楽しげに盛り上がる友人たちを尻目に、俺は人間としての尊厳をかけた戦いに命をそそぐ。


「だ、大丈夫か?」


 明らかに体調が悪そうな様子の俺を心配してか、付近にいた友人の一人が、しゃがんで背中をさすってくれる。


「もしかしてお腹痛いのか?災難だな」


 彼は来ていた上着を脱いで、俺に被せてくれた。


 きゅん。

 え、なにこのキモチ、あたし知らない。

 俺が女なら間違いなく惚れていた自信がある。


 いやそうじゃなくて、今人に話しかけられると非常にまずいのだ。


 お腹が痛い時に人に話しかけられたり、話したりすると、悪化する現象。

 俺の考察では、人と対面する状況下が生む、絶対に漏らしてはいけない、という緊張感が原因だと考えられる。

俺だけかもしれないが。


 つまるところ、これは状況の好転に見せかけた事態の悪化。

それを証明するかのように俺の腹はまたも反乱を始める。


「すーーはーー」


 腹の痛み、歯の痛みや頭の痛みなど、どうしようもなく痛みというのに、どうしようもできない痛みは、精神的に来るものがある。


 ここで身体を暖めるために、より速く腕を動かすのは悪手だ。

大きな波が来ている時に大事なのは、極力動かず我慢することに徹することだ。


 可能であれば、できるだけズボンを緩めて、お腹にゆとりをもたせることも重要となる。

私の場合、ベルトの金具をはずしている。


「頑張れ、すぐ動き出すよ」


 友人は優しく背中をさすってくれる。


 やめろおおお!やめてくれえええええ!


 君の善意が!よかれと思ってしている行動が!俺を地獄へと誘っているんだ!


 喋ったり叫んだりすると、その振動がお腹にもろに伝わるため、口にできないが、そのさすりは確実に俺をそれへと導いている。


こういう時、放っておいてあげるという選択をとるのも友達ってものだぞ、友人よ。


「……いじょうぶだから……んなと話してて」


 なんとか振り絞って声を出す。あとから弁明はいくらでも出来る。今はこの行為をやめさせることが先決だ。


「そ、そうか、分かった」


 友人は地獄への誘いを止め、立ち上がる。


「く……すーっふーっ」


「これ……よかったら、もしもの時のために」


 カサリと音をたてて、ナイロン袋が俺の側に落とされる。


 はあーなんですけどー?

 これはタチの悪い冗談か?善意でやってるとしたら狂気やぞ。


「あ…………うん」


 俺は笑いと怒りを必死に堪えながら、集中する。


「すーーっふーーー」


 深呼吸の間が長くなり始めるのが、鎮まりはじめる合図だ。

腹痛が、腹の奥へと隠れていく。


 だが俺は慢心しない。その体勢のまま、変わらず深呼吸を続ける。

これでまた動き出すのをひたすら待つんだ。






10分後。


 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。


 吐き気を催すほどの凄まじい腹痛にもはやしゃがみ状態では限界を感じ、下半身は女の子座り、上半身はお腹を抑えながら、おでこが床につくくらい倒れ伏していた。


 さすがの友人たちも、あまりに苦しそうな俺を心配して声をかけてくれる。

 何人もの友達が周囲に集まり俺を見ている。


 地獄である。


「大丈夫か?」


 ありがとう!でも善意が本人にとってありがたいものとは限らないんだ!ごめんね!


「おい、駅員さん来たぞ」


 俺を励ますために背中をそこそこの力でポンと叩いてくる友人。


 いやあああ、やめてええええ。




「えー先ほどの地震によって、現在列車が運行停止状態となっております。なので線路を通って一番近くの駅まで歩いて頂くことになります。ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません」





?????????????????????


「…………」


「…………」


「…………」


 友人は、みな総じて黙りこくってしまった。

 薄く笑みを浮かべている者、同情の念を向けている者、自分が電車から降りることを優先した者、様々だったが、俺には救いの手を差し伸べてくれる者はいなかった。


 突如として告げられた死刑宣告に、これまでの我慢が無為に期したこと。さらに我慢することは無駄だと分かったこと。

 それが一気にお腹の力を緩めさせる。


 俺から視線をそらし、ぞろぞろと駅員の指示に従って立ち去っていく友人たち。

 知らない人に今の体勢を見られることは、もはや些細なことだった。


「あの……」


 そんな中、俺に話しかけてくれたのは、一番最初に心配してくれた友人だった。

 最後の力を振り絞って、彼の顔を見る。


 おそらくだが、俺の顔は黄土色になっていたのだろう。


「抱えて運ぼうか?」


 ああ、この人とは一生ものの友になりたい。

 俺は、今出来る精一杯の笑顔を向けて言った。


「俺のことはいいから、先に行って」


 左手に持った物を見せると、彼は何かを察したように力強くうなずいた。


 抱えて運ぼうという気概は素直に尊敬するし、ありがたい、しかし俺の限界は近い、さらに次の駅まで近くはない。


 彼を汚す訳にはいかなかった。


「え、大丈夫ですか!」


 駅員さん。

 もう、全員ここから脱出したのですね。


「どうしましたか」


 俺のそばにしゃがむ駅員さん。


「お腹が……痛くて……」


 もう一周まわった精神状態の俺は、へへへ、と駅員さんに笑いかける。


「一人にして……もらえませんか」


 俺は左手のナイロン袋を駅員さんに見せると、駅員さんは顔色を変える。


「それしか道は、残されていないのですか」


 俺は即座に気づいた。この人はたぶん同じ苦労をしたことがある同士だ。苦しみを理解している。


「……は、い」


 駅員さんは悔しそうな表情を浮かべて、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか!、俺をそう非難する。


 見栄をはって、下らない意地で、我慢できると思い込んだ。

この状況は、俺が招いた結果だ。


「はやく……俺が俺でいられるうちに、はやく!」


 息が震える。絞りかすのような声は、事態の深刻さを物語っていた。


「……」


 駅員さんは、無言でポケットティッシュをそっと置いた。


 人間は、本当の暗闇のなかにいないとそばの光に気づけない。


 俺は人の優しさに触れた。

 俺も、苦しむ誰かに気づいてあげて、手を差し伸べることが出来る人間になろう。


 そう思った。

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受難 文虫 @sannashi

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