弱音
一時間ほど他愛ない雑談をした後、あまり長居をするのは迷惑だからと葵は帰っていった。
「良かったんですか、陽翔君?」
「良かったって……何がだよ?」
久々に義母と顔を合わせたことで、普段は感じないタイプの疲労に襲われてソファに身体を預けていた陽翔に、真澄が訊ねてきた。
「家族旅行のお誘いのことですよ。本当に良かったんですか?」
「……聞こえてたのか」
そう言うと、真澄の表情が僅かに曇った。
「すいません、盗み聞きするつもりはなかったのですが……」
「いや、別に謝らなくていいよ。聞かれて困る話でもないし」
真澄は台所にいたのだから、陽翔たちの会話が聞こえていても不可抗力というものだ。真澄は善意でリビングを貸してくれたのだから、話を聞かれたくらいで目くじらを立てる必要もない。
「けど、何で真澄が気にするんだよ。真澄には関係のない話だろ?」
「それはその……陽翔君が辛そうな顔をしているからです」
「……そんな顔してたか、俺?」
訊ねてみれば、真澄は小さく頷いた。
自覚はなかったが真澄が言うのならそうなんだろう。心なしか、陽翔を見る彼女の表情も芳しくない。
「それに陽翔君、今日は学校から帰ってきてからずっと元気がありません」
「よく見てるな……心配かけて悪かったな、真澄。けど大丈夫だから気にしないでくれ」
まさかここまで陽翔の内心を見抜かれているとは思わなかった。自分が分かりやすいのか、はたまた真澄が鋭いのか。残念ながら陽翔には分からない。
だが明日にでもなれば、気分も晴れているはずだ。わざわざ、真澄が気にかけるほどのことではない。
「――嫌です。そんなに辛そうにしている陽翔君を放っておけるわけがありません」
けれど真澄はいつになくハッキリとした口調で、陽翔の言葉を否定した。
「は……? 真澄、お前何を言って――」
「陽翔君、以前言ってくれましたよね? 私が辛い時には、手を貸してくれると。覚えていませんか?」
もちろん覚えていた。姉として真那のことで悩む真澄を助けてあげたい一心で出た言葉だ。忘れるわけがない。
「真那のことでずっと悩んでいた私にとって、あの言葉がどれだけ嬉しかったか……陽翔君は知っていますか?」
「真澄……」
「だから私も、今苦しんでいる陽翔君の力になりたいんです。私なんかが陽翔君の役に立てるかは分かりません。それでも、あなたのためになりたいと思うことは迷惑ですか?」
真摯に訴えかけるように語る真澄からは、ただただ陽翔の身を案じてくれていることだけが伝わってきた。
(迷惑なわけ、ないだろ)
こんな自分をここまで案じ、少しでも助けになろうとしてくれているのだ。迷惑だなんてこと、あるわけがない。
「……つまらない話になるけど、それでもいいか?」
静かに問うと、真澄は小さく頷いてから陽翔の横に腰を下ろした。
実際はつまらない話というよりは、みっともない弱音だ。本当なら真澄に聞かせたくない。より正確に言えば、聞かせて真澄に幻滅されたくない。
けれど、真澄がこうまで言ってくれているのにその想いを無下にはしたくなかった。
「真澄から見て、葵さんはどんな人に見えた?」
「とてもいい人に見えました。穏やかで優しくて……真那も初対面なのに珍しく懐いていたので、驚きました」
姉である真澄の目から見ても、葵への懐き方は珍しいものだったらしい。
「だよな。葵さん、凄くいい人だよな」
「……陽翔君にとっては違うんですか?」
「いいや、俺にとってもいい人だよ。俺みたいな、自分のことをずっと避けていた奴を未だに気にかけてくれるくらいだからな」
一年以上音沙汰のなかった陽翔に、わざわざ会いに来てくれたのだ。いい人どころか、お人好しと言ってもいい。
「真澄も気付いてると思うけど、葵さんは父親の再婚相手で俺と血の繋がりはないんだ」
「……そのことは何となく察してはいました。二人の間にはその……距離を感じていましたから」
「よく見てるな。俺さ、父親のことはき――あんまり好きじゃないんだ。それで再婚相手の葵さんのことも、実家にいた頃はずっと避けてたんだ」
嫌いと言いかけて、真澄の前で親を露骨に嫌悪する発言は憚られたので遠回しな表現に言い直した。
「だから正直、今回のことは驚いた。連絡をずっとしてなかったから心配はかけてるだろうとは思ってたけど、まさか直接会いに来るなんてな」
「来てくれて、嬉しくはなかったんですか?」
「正直……申し訳ないって気持ちが大きいな。いらない心配をかけて、こんなところまで来てもらって。その上、せっかく誘ってくれた旅行まで断ったからな」
葵の好意に対して何も返せず、それどころか無下にしてしまった。断った時の物悲しげな表情が脳裏をよぎり、陽翔の良心を苛む。
「もしかして、旅行のお誘いを断ったのは私たちとの約束があったからですか? もしそうなら、旅行の方を……家族を優先していいんですよ? 真那のことは、私が説得しますから」
「いや、そんなことしたら真那が泣くだろ」
ここ数日、真那はいつにも増してご機嫌だ。水族館に行ったら何をするのか、瞳をキラキラ輝かせながら語っている。それを壊すような真似はできない。
「それに旅行の誘いを断ったのは、別に水族館に行く約束があったからじゃない」
あの時約束のことを持ち出したのは、ただの断るための口実だ。本当の理由はもっと情けなくて、最低なものだ。
「……ただ俺が、今まで避けてきたあの人と今更どう向き合えばいいのか。それが分からなくて逃げただけなんだ。最低だろ?」
こうなってしまったのは、今まで逃げてきたツケだ。
口元に自虐めいた笑みを浮かべながら、俯く。今の話を聞いた真澄の反応を見るのが怖いからだ。
もしかしたら嫌われたかもしれない、軽蔑されたかもしれない。そう考えると、とても真澄を見ていることなどできなかった。
「――陽翔君は最低なんかじゃありません!」
「え……?」
けれど真澄の口から出た言葉は、陽翔の想定を裏切るものだった。
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