...

 記憶の中の海と、だいぶ、違う。

 小学三年生の夏休み。場所はたしか逗子海岸。


 たくさんのオシャレな海の家。

 大音量でかかるディスコナンバー。

 飛び交う客引きの声。

 かっこいいお兄さんたちと、

 おっぱいのデカいお姉さんたち…


 けどオレのママが一番イカしてた。

 マジで。


 歩けばどの男だって、ママをふり返った。


 ママとかき氷と焼きそばと、ホットドッグだって食べて、海に浮いている大きなビニールのアスレチックで夢中になって遊んでいた。

 気がつくと、一緒にきていたママの『友だち』の大きな手が、オレの足に絡みついていた。

 目が覚めたら病院で、それきり、ママもその『友だち』も、消えてしまった。


 ポケットのイルカを握りしめる。

 チャリ、と、手に鼻の先があたる。


 戻ろうとして、


 「あ!」

 とつぜん、男の声が降ってきた。

 さっきの親父か?

 ふり向くと、やっぱりウェットスーツを上だけ脱いだ、『センパイ』と同じくらいの歳の男が、サーフボードを手に立っていた。

 「お前、朝彦だろ!」

そう、身をかがめて顔を覗き込んでくる。


 ムカつく。


 オレはまだ身長が百五十もなくて、けどそいつは優に百八十はありそうだ。猫みたいにつり上がった大きな目が、値踏みするみたいにオレを見る。

 背中に隠した右手を構える。

 けど、次の瞬間、

 「っ、」

 読んだようにオレの手を掴むと猫目はスン、と、オレの首筋で鼻を鳴らした。

 「お前、レオと同じ匂いがする」

「……っ、」

 「コータはオレんだから。手ぇ、だすなよ」

「知らねぇよっ!」

 大きな手を思い切りふり払うと、とにかく『至大寮』と書かれた建物へ走った。

 ポケットの中で、イルカのキーホルダーがチャリチャリ、音を立てて跳ねていた。


 「あれ、朝彦くんだよね?」

 玄関に駆け込むと、若い男が、きっと教師なんだろうけど、シャツにハーフパンツのラフな格好で玄関の横の部屋から顔を覗かせた。

 「おかえり。遠くから、大変だったね」


 は?


 「どうしたの? そんなにあわてて。大丈夫? あ、もしかして、猫目のお兄さんになんかいわれちゃった? ごめんね? 悪気はなくて…、ぼくは浩太。生活指導の。靴、そこ、名札あるとこに入れてね。加藤さんと山木さん…東海バスのさ、連絡があったよ。なにも食べてないみたいだって。お腹すいたよね、食堂いこうか。なんと! きょうは人気の、ハヤシライスだよ!」

 首から下げたネームストラップでチャリ、と、塗装の剥げた偽物ミッキーのイルカが揺れている。

 愉快そうに笑うイルカと、目が合う。

 ハーフパンツのポケットを、握りしめる。


 「…ません、金、なくて、…メシ、」


 『ほしいもんはほしいって、いえば、それだけでいいじゃんね』


 「お金? あはは、寮のご飯だよ? お金は払わないよ? あ、悪いけどメニューは選べないから。だけどハヤシライスは…朝彦くん?」


 知らないものが目から溢れて頬に転がる。ヤバい、なんかのびょーきかも知れない。


 「…お腹、空いちゃったんだね」

 『コータ』がかがみ込んで、オレを見上げてくる。小さく頷く。喉の奥の方からなんかの塊が迫り上がって息が詰まりそうだ。ここで死ぬのかもしれない。

 それなのに『コータ』は丸い目を細めて笑っている。

 「ごめんね、迎えにいけばよかったね。もう、大丈夫だよ」

 それからいった。完璧にセットしてきたオレの頭を雑になでまわしながら。


 「おかえり」


 階段の向こうから、知らないのに懐かしい香りがする。見るものが滲んで霞む。


 「…ただいま…」


 もう幾年も口にしたことがなくてきっと発音を忘れていたと思っていたそのことばは、スルリ、口から滑り落ちてきた。

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