...

 「おっせ!」

「ごめん。きょう入寮の子が、お昼まだだっていうから」

 「朝彦だろ」

「…なんか余計なこと、いってない?」

訊くとネコはフン、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


 あ、なんか余計なこといったな、コレは…


 「一年生なんだ。ほんとうは母体校に入学したんだけど、」

「あいつ、気にくわない」

「はぁぁ…」

がっくし、肩を落とす。男子生徒が来るたびにこれじゃたまらない。

 「レオと同じ匂いがする」

どんな匂いだとゆうのだろう。猫にしかわからないってヤツだろうか。

 「そいつのせいでコータが海に入るの、遅れたじゃん」

ふて腐れた顔のままぼくの手を掴む。

 ぼくより一回りは大きくて、真っ黒に日焼けしたQSサーファーの手だ。

 「あいつぜったい、コータに甘えてくる。油断ならねぇ」

「ん〜…、」


 それはネコのかいかぶりだよ?


 あっという間にぼくを追い越し、いまは僕の肩より上にある背中を見上げる。

 


 ぼくには愛がない。


 そんな教師に好き好んで近づく子はいない。たしかにくっつてくる生徒たちはいるけどそういうんじゃない、…はずだ。じぶんでいうのも、まぁ悲しいけどんだけど…


 いまこうしてぼくがネコとふたりでいることができるのは、ただ一重に、


 一重に、ネコが、


 ぼくを想っていてくれたからだ。

 ずっと。

 あの日から。


 「コータは鈍いからな、危なっかしいんだよ! オレが見ててやんねぇとな!」

 そう、こちらに顔を向けて笑う。

 まだ春の終わり、夏の入り口だというのに相変わらず、ひまわりが咲いたみたいな笑顔で。

 眩しくて、思わず目を細める。


 そのひまわりの向こうに、

 初夏の陽に輝く青い空が見える。

 「ありがとう」

 ぼくも笑う。


 空を仰ぐ。


 初夏の陽がつくりだすオゾン色の

 抜けるような青い空を。

 春の終わりを知らせる強い陽は

 オゾンに散乱し、

 純粋なシアンブルーをつくりだす。


 繋いだ手を空にかざす。


 こうして空を仰ぐことも、

 光を散らす波にのることも、

 失った声を取り戻すことも、

 笑うことも、

 闇に駆り立てる幻聴をふり払うことも、


 ずっと、

 この手に引かれてきたから

 できたことだ。


 『伸ばされた手を離してはいけない』


 そう思っていたのにその実、

 手を伸べて離さないように、

 しっかり捉えていてくれたのは

 ネコの方だったのだ。


 あの日、この海岸で会ったその日から、ネコはきっとそのつもりだった。

 この手を離しては、きっといけない。

 そう、もみじ饅頭は、だれかの手の温もりなど忘れていたぼくの冷えた手を、両手で包み込んだのだ。

 そして、いまも。


 「手ぇ、離すなよ?」


 『二十四歳』になったいまも、あの頃と変わらない得意げな、オトナノオトコの顔で。

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