...
「うぁぁぁぁぁぁぁぁあ、」
泣きじゃくるネコを、天さんがきつく抱きしめる。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
小さな寮を揺らすように泣き声が響く。
もう、『雪さん』という人は、いないんだ。
ブワリ、感情の波が迫り上がる。
胸の奥が潰れるみたいだ。
奥歯を噛んでも涙はとまらない。
レオも、声を押し殺して俯いている。
「レオくん…、」
夕飯を届けにきたユウトも、レオの肩を抱いて。
どうしようもなくまだ子どものぼくたちを、天さんはまとめて抱きしめてくれた。
開け放たれた窓の向こう、闇が緩くうねる海に、月灯りが溢れて揺蕩う。
泣いて、泣いて、泣いて…
その涙すべてを、ここで受けよう。
そう、潮騒が優しく囁く。
食堂でもきっと、みんな、泣いている。
きのうの夜、思考が停止したように感情が麻痺したぼくたちは、やっと、雪さんが亡くなったのだということを、理解した。
ネコが泣き疲れて眠ってしまうまで、そうやって天さんは、ぼくたちを抱きしめてくれていた。
それからも天さんは、いままでとなんら変わらない様子ですごしていた。
ただ、もう授業を受ける必要はないからと学校には登校せず、退寮の準備と合間に波乗り、たまに、神奈川にも帰ったりしているようだった。
「天くん、どうしたかしら」
寮母さんが、マッシュポテトをこねる手をとめて顔を上げる。
「まだ、海かも。わたしたちが上がるとき、まだ海でカイトさんとはなしてました」
一番遅くまで海に入っていた月子さんが、慎重にパンケーキの種をフライパンに注ぎながらいう。
「あらまぁ」
あしたは天さんの退寮だ。
雪さんがいないのでは高校にいる必要もなくなった天さんは、卒業を待たずに逗子総合高校下田分校を去ることにしたのだ。
そのあとのことは、だれも知らない。
「も、少しゆっくりしていっても、いいじゃんね…」
なんて遠くを見ているカイトさんにも、知らせてないんだろう。
そして、今夜は天さんの送別会なのだ。提案はユウトで、天さんはやっぱりいつも通りなんでもない顔ででていくつもりだったみたいだけど。
友だちが転校するときには送別会が必要だ! て、『よくわからない』て
「浩太くん、ちょっと見てきてくれるかな」
ネコがひろみ先生のお手伝いに夢中になっているのを見計らって、小山先生が耳打ちしてくる。
「はい、」
ぼくが視界から消えるのをネコは最近極端に嫌がるようになってしまい、こうして先生たちは隙を見てはぼくをひとりにする時間をつくってくれていた。
「育児ノイローゼは侮れないのよ」
谷川先生はそう、真顔でいっていたけど。
急ぐでもなくビーチサンダルを引っかけて海岸へでる。もともと小さかった波はもうこの時間にはほとんどなくなり、小さなうねりが岸辺で、ザァ、と崩れるだけになっていた。
海に入っているサーファーはもう、
「天さん、」
ただ、天さんひとりだった。
エリアのちょうど真ん中あたりに、ポツリ。
さきほどまで降っていた雨は止んで、雲の切れ間から覗く夕焼けが、絹のカーテンを引いたように天使の梯子を海へ降ろしていた。
深いグレイの海がにわかに降ってきた光を鈍く散乱して輝いている。その海の中で、天さんはひとり、波待ちをしていた。
来ない波を、静かに、待つ。
ひとり。海に、
たった、ひとりで。
ぼくは小山先生にLINEを一つ打つと、急いでボードを取りに寮へ戻った。
「なんだ、上がったんじゃなかったのか?」
ゆっくりパドルして、天さんの横に並ぶと、気配に気づいたのか、小さく口の端を上げる。
天さんと海で並ぶのは、はじめてだ。
あたりまえだけど、結局ぼくは天さんと波にのることはできなかった。こうして天さんと波待ちをすることに、密かに憧れていたんだけど。
天さんはただ、水平線を、その向こうを、見つめていた。
まっすぐ。
泣いているのでも、
悲しんでいるのでもなく、
いまの海と同じ、
その表情は静かだった。
ぼくも、水平線に向かう。
ふたり、海に揺蕩う。
落ちてゆく陽が少しずつ、海の色を変えてゆく。
一匹、旋回していたトンビが山へ戻る。
いろいろな気持ちすべてが、緩くうねる海にとけてゆく。
胸の奥の方が、
いまの海みたいに、凪いでゆく。
どれだけそうして波に揺られていたのか、東の空、雲の切れ間にぼんやり月が現れはじめて、夕焼けはもう、水平線にその残像だけを残していた。
「腹、減ったな」
ゆっくり、天さんがこちらに顔を向ける気配で、ふり返る。
「帰る、か」
ぼくは小さく、頷いた。
ボードを岸に向けて返すと、
「はは、」
天さんが笑った。
海岸には、本日のディナーとランタンを手にした寮生たちが、天さんを待っていた。
天さんは最後まで、下を向くことはなかった。
その翌日、多々戸浜海水浴場の海開きの朝、天さんはいってしまった。
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