...
そのままゆっくり髪を梳いて背中をさすっていると、やがて、成長期がはじまったとはいえまだ小さな頭をぼくの胸にあずけて寝息を立てはじめる。
『しばらくつづいてそのうち自然と収まるから』
ようやく夢の中へ旅立ったネコを寝かせて、その隣に横になる。
小さなネコの寝息。
控えめなカエルたちの声。
柔らかい潮騒。
頬を撫でてゆく緩い空気、潮の香り。
ぼくもゆっくり、目を閉じる。
ぼくたちが卒業するころ、ネコは『十八歳』になっているのだろうか。そのときにはきっともうぼくに手を伸ばしてくることはないだろう。
ほんの一年とちょっと先のことだというのに、どんな未来もぼくにはもう想像できなくなっていた。
将来の夢も、
迎えてくれる家も、
失って。
けれども、
「おやすみ、」
きょうネコと眠り、あした目が覚めたらまた食堂のデニッシュをほうばって波にのる。それだけは確かだ。
その現実に安堵して、意識を手放した。
進路ガイダンスは一、二年生と三年生と別教室でおこなわれた。
逗子総合高校の進路先やら進路別のスケジュールなんかを井上先生が説明してくれる。
春までいた学校でも進路ガイダンスはあったけど、大学進学以外の進路など存在しなかった。なのに逗子総合高校の進路先は就職六割、専門学校三割、未定一割。大学進学は一割にも満たないらしかった。
「てわけでまぁ、みんなも就職考えてると思うんだけどな、三年生は夏休み前から就職活動がはじまるわけだ。就職活動はここじゃできねぇから、あ、静岡に就職するんだったらこっちでいいんだけど、まあ地元で就職しようとか考えるなら来年のいまごろには退寮して神奈川の母体校に通うことになる。いまから準備しないと間に合わないってわけだ」
井上先生の説明に、危うくペンを落としそうになった。
え、なにそれ⁉︎ 三年生が最近少なくなっていたのはそれなの?
天さんや雪さんも、いなくなってしまうのだろうか。いや、もちろんいつかは卒業するだろうけど…梅雨が終わる前になんて、そんなのはあまりに急なはなしに思えた。
正直なところ、天さんがいないところでぼくは気持ちの安定を保つ自信がなかった。
天さんのなににも動じない姿も、力強く背中を押してくれることばも、もう毎日飲む薬以上に、ぼくとって必要不可欠なものになっていた。
「あ、オレは戻んねぇよ?」
ガイダンスが終わってあわてて三年生の教室に行くと、天さんはそう、カラッと笑った。
「横浜に工場あるから、戻るならそこだけど。とりあえず、雪の身体にもいいし、こっちに工場かりようかなって感じ」
「工場…⁉︎」
「あ、オレ、旋盤工だから」
「センバン…?」
「はは、金属を加工するお仕事、な?」
「はぁ、」
なんだか次元が違ってた。
そうだ、天さんはもう大人だった…
「でも雪が卒業したらまず、世界一周かな」
「せっ!」
ぶっ飛びすぎでは⁉︎ て、思わず天さんに顔を向けるけど、天さんは柔らかい笑みを湛えて、窓の向こう、多々戸の海を見つめている。いやそのもっと向こう、知らない世界の海を、見ているようだった。
「雪がさ、いうんだ」
そう、きょうもお休みの雪さんの席で頬杖をつきながら。
「卒業までにオレはプロトライアルに合格していて、」
プロ…サーフィンの、だろうか。
「卒業したら世界の海を点々と、」
天さんが、もう梅雨の色に染まりはじめた海に手を伸ばす。
「ツアーでまわるんだ」
ぼくも、海へ目を向ける。ぼくは生まれ育った相模湾と、この駿河湾しか、知らない。けど天さんには世界中の海が見えているようだった。
「まずは、ワイメア。はは、いきなりだろ?」
ワイメアがどこなのかぼくにはわからないし、なにがいきなりなのかわからないけど、天さんには、その場所の波が見えているようだ。
「それからオーストラリア…ゴールドコースト、カルフォルニア…ハンティントンビーチ、南アフリカ…ジェイベイ、ヨーロッパは寒いからいいかな。それからあったかい小さな島を回って…帰ってきたら里子をもらって、五人くらい、みんなで楽しく暮らす」
天さんが小さく笑う、幸せそうに。
「それが、楽しみなんだ、てさ。はは」
天さんは、雪さんのために、生きているんだ。
そんな、表情だった。
天さんが雪さんと家族になったのがいつなのかは知らない。けれど血は繋がっていない弟に、どうしてそこまでできるんだろうか。
ばっちり血の繋がった妹に連絡を取ることにすら疲れたぼくには、わからなかった。
「はは、なんでだろうな」
ぼくの視線に気がついて、天さんがフッ、と、ぼくを見上げる。
「きっとわかるよ。浩太にも」
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