...
「よっし!」
小さな波で、ぼくはようやくテイクオフができるようになっていた。
「いいんじゃない?」
カイトさんは嬉しそうだ。
「いいんじゃねぇ?」
ネコもやっと波乗りの許可が降りて嬉しそうだ。ぼくのとなりで波待ちをして、ぼくと同じ波にのる。そして、
「はやくショートにしろよ!」
などと無茶な注文をしはじめる。
「このボードでやっとまだテイクオフだよ? ネコ」
「あ! あ? しゃべった! コータ、しゃべったな!」
やった! みたいに、カイトさんが手を叩いた。
はっ! しまった! ネコ相手で油断していた…
「はは、もっかいしゃべってみ?」
いや、いいです。
「かわいい、てか、お坊っちゃまって感じだな。ちょっと、なんかいってみてよ」
カイトさんがボードにのったまま身をのりだす。レオも向こうから、凶悪な目つきでこちらをガン見している。
「だっせ! おぼっちゃまだって! んだよそれ〜!」
〜〜〜〜〜っ! 小山先生! 戻ってきてください!
小山先生はもうぼくたち生徒のスクールのために海に入ることはなくなっていた。海に入るのは波がいいときだけ。
きょうみたいに梅雨特有のまったりした波の日には、いままでぼくたちのために溜めに溜めた仕事を片づけているのだそうだ。
「テイクオフをここまで引っ張ったヤツははじめてだな。めっちゃ仕事溜まってんじゃね?」
カイトさんはそう意地悪く笑っていたけど。
こんな穏やかな日に海にいるのはぼくたちとロングボーダーだけで、ショートボードエリアはガラ空きだ。貸し切りのショートボードエリアでひとり、黙々とターンを繰り返すショートボーダーがひとり。
「ああ、天はトライアルが近いからな」
ぼくの視線に気がついたのか、カイトさんが教えてくれた。
「来週」
来週⁉︎
思わず目を剥く。
あれはそんな直近のはなしだったんですか⁉︎ もっと将来のはなしかと思っていましたけど!
天さんはひとり、ほんとうにひとりで、波に向かっていた。
「雪先輩、授業もお休みでした」
カイトさんの視線に気づいたユウトが、心配そうに呟く。レオも、小さく頷く。
レオはユウトとすごす中でだいぶ丸くなった。凶悪な目つきは相変わらずで、それでも少しずつ、柔らかい感情を表情や身振りの端々に見せるようになっていた。
雰囲気を感じたのか、ネコがボードをぶつけてきてぼくの腕を掴む。
「そ、か」
カイトさんが呟いた。
カイトさんなら、知っているだろうか。
ぼくはふと、カイトさんに視線を向けた。宙を見つめていたカイトさんの視線がこちらに戻ってくる。
カイトさんなら、どうして天さんが血の繋がらない弟を、そこまで大切にするのか、知っているだろうか。
ぼくの視線に、カイトさんも、はは、と小さく笑うだけだった。
「コータなら、わかるよ」
その夜、ぼくは課題になっていた進路希望調査書を睨んでいた。
『大学進学』
それだけ。
ずっと東京外国語大学で学びたいと思っていた。尊敬する活動家の出身大学だった。たくさん英語を勉強して、世界中の難民や貧しい国の人々のためにはたらくんだ、と、思っていた。
それなのに、
「オレも!」
ネコが膝にのっかってきて、我が物顔でぼくの机にじぶんのプリントを広げだした。
「あ、」
ぼくの進路希望はネコのプリントの下に、隠れてしまった。
…それなのに、
いまは、たったひとりのルームメイトを成長痛から救うために奮闘する毎日だ。
どんなに英語ができるようになってもネコの心の中を診てあげることすらできなくて、どんなに社会情勢に通じたところでたったひとり、ルームメイトを混乱させるものを取り除くことにすらできない。
ぼくの膝で一生懸命に象形文字を書くひとりの少年を前になにもできやしないのに、知らないだれかを助けたいだなんて、数ヶ月前のぼくはどれだけ傲慢だったんだろう。
そう思うと、もう進路希望など書くことはできなかった。いまネコが安眠するためにできる限りのことをする、それが目下ぼくに課せれられた、人生最大の課題だった。
「オレ、プロサーファーになるから!」
「へえ、」
ぼくの膝を遠慮なく踏みつけながら、ネコは必死に象形文字を連ねていく。
「コータをつれてってやるよ。エディに」
「なにそれ、どっかの海岸?」
「しらねーの? だっせーな!」
「…連れてってくれるの?」
「おぉ!」
「ネコが、」
「おぉ!」
「……ぼくを、」
「おぉ!」
「……、」
ぼくが黙り込んだのにネコが目を丸くして見上げてくる。びっくりした仔猫みたいなくりくりの目で。
「オレがいけねーとか、おもってんの?」
「…まさか。…楽しみに、してる、」
声が震えそうになるのをこらえて笑む。泣き笑いみたいな不細工に、きっとなっている。
ぼくの不器用な笑みに、ネコもニィ、と歯を見せて笑う。
「らいねん、な!」
最後に生えた大人の歯は、ほかの歯と同じ大きさにまで成長していた。
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