...
開けっ放しにした窓から潮の香りと一緒に、どこで鳴いているのかカエルの声が入ってくる。
カエルの声のうしろに聞こえる柔らかい潮騒に耳を澄ます。
時計はもう十二時を回っているのに微睡みは一向にやってくる気配がない。
ココアを買いにいこうか…
そうした頃を見計らったかのように、
「ふぇぇぇ、」
腕の中で、悪い夢から覚めたようにネコがむずがりはじめるのだ。
「うぇぇぇぇ、あし、いたいよ、いたいよぉ…」
ココアを買うのはまたあとだ。
ぼくは起き上がるとベッドに腰掛けてネコを抱き起こした。谷川先生が印刷してくれたプリントをベッドヘッドから取る。
「痛いね、ネコ。ストレッチしようか」
『お母さんにはもう会えないんだよ』
そう教頭先生に聞かされてから、毎晩のように脚が痛いと訴えて泣くようになった。
成長痛だった。
母親はもう来ない。
そう理解して皮肉なことに、十年遅れたネコの成長期がはじまっていた。
「成長痛がはじまったかな」
成長痛⁉︎
ネコが夜中に脚が痛いと泣きだしたのは退院してほどなく、今までの生活リズムを取り戻してきた頃だった。
ネコの泣き声に飛び起きて、またおねしょだろうかと思うと今回の事態はさらに深刻だった。
「いたい、いたいよぉ、」
「いたい⁉︎ どこ? どこが痛いの?」
「あし、あし、」
「あし⁉︎」
おねしょなんかよりよっぽど動転したぼくはネコをおぶってやっぱり寮母さんの部屋の戸を叩いていた。
真っ青になるぼくに、寮母さんに呼ばれて飛んできてくれた谷川先生はペラっと一枚、ぼくにプリントを渡してきてそういった。
「成長…成長してるんですか?」
「そう、そう」
谷川先生はネコの身長と体重の記録をめくりながら頷く。
「この手の低身長の子は、残念だけど、親と離すと正常に成長することが多いのよ。いままで物理的に離れていたとはいえいつ家に戻されるかわからない。それが知らずにストレスになっていたんだと思うよ。もう、あの場所に戻らなくていいってなって、無意識に安心したんじゃないかな」
「安心…」
母親と離れて成長できるなんて、そんな悲しいことが、あるんだろうか。
ぐずるネコの脚をさするぼくの顔を見て、谷川先生は成長記録を棚にしまいながら小さく笑った。
「そんな顔しないでよ。よくあることだから」
谷川先生の様子はそのことばの通り、こんなことには慣れているようだった。
「浩太くんだって、そうでしょう?」
びっくりして顔を上げる。
「やっと笑えたんでしょう? ここに来て」
「え、」
「さて! 浩太くん! それより!」
ぼくに思考を巡らす隙を与えず、ビッ、と人差し指を向けてくる。
「練習、練習!」
「練習?」
「ストレッチ!」
「ストレッチ、」
「ネコちゃん、寝る前にもだけど、痛いって起きちゃったらストレッチをしてあげて」
「ぼくが、」
「ほかにだれが? わたしはそんな毎晩、起きてらんないからちゃんと覚えてよね」
「ええーと…はい…?」
「それ見ながら、やってみて? ネコちゃん、浩太くんとストレッチしようね。痛いの治るからね?」
「ぅん、」
見ながら…これを…
渡されたプリントに目を落とす。
『成長痛がはじまったら〜親子でできるストレッチ』
プリントにはそう、かわいらしい丸文字とクマさんのイラストが踊っていた。
「どう? ネコ?」
一通りのストレッチを終えて、ネコを膝にだっこする。
『成長痛は身体が成長するから痛いんじゃないのよ』
谷川先生のはなしを思いだしながら髪を梳く。
『心が成長するときに感じるいろんなストレスが身体にでてるって症状なの。だからストレッチでフィジカルに治すっていうより、』
「ん〜…」
大きな猫目の瞼がゆっくり、ゆっくり、落ちてくる。
『ストレッチでパパなりママなりとふれあって、落ち着かせてあげることね』
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