ようこそ、海へ

 マリンブルーの列車は大きく揺れながらゆっくり、終点 伊豆急下田駅へ到着した。


 列車から出てきたのはぼくと年配のご夫婦、それから中年の女性グループが何組か、だけ。

 まだ夏には遠い海水浴の街は、いまは静かに、ボクを迎えてくれた。

 それがありがたかった。


 やっと、ぼくはひとりになれたのではないだろうか。


 愛も親切も笑顔も、必要ない場所に、来たのではないだろうか。


 だれにも責められたりしない世界に、来たのではないだろうか…


 黒船を模した改札を抜けると、古い駅舎のうしろにも、遥か向こう側にも、ブロッコリみたいな山が見える。


 湘南とは違う。


 切り立つ山間に、入り組んだ湾が点在しているのだという。この下田にも、いくつもの浜が山を挟んで…挟まれて、並んでいる。

 ぼくの新しい学校と寮–––生活のすべて、は、その一つ、多々戸浜、という小さな浜に面しているらしかった。

 『多々戸浜』の白い浜が印刷された、新しい学校のパンフレットを開き、バス乗り場を確認する。


 『東海バス』


 古い映画で見たようなのオレンジ色の車体に、ささくれ立った木製の床、錆びた料金箱。

 運転手さんを探すと、

「んだからしょろしょろすんなって、いってやったんだら」

「は、は、それは仕方ねぇ」

 運転手さんは座り込んで、別のバスの運転手さんとはなし込んでいた。

 「……、」

「はいよぅ」

ぼくの視線に、運転手さんは真っ黒に日焼けした顔をくしゃくしゃにして手を挙げてくる。

 「のんの?」

「……、」

「停っだら。すぐ着くよ。でるまで三十分。歩いた方がはやいさ」

「……、」

引きずったでかいキャリーに目を落とす。

 「は、は、のせてってやんなよ」

となりの運転手さんが笑う。

「そいじゃ、でるまで、キンメでも、見てくりゃぁいいじゃんね」

「……、」


 キンメ、


 バスにキャリーを預けて駅の周りをうろうろしてみる。


 ぐるり、駅の周りを見渡す。


 不安と無気力心で、まるで鉛みたいに動かなかった胸の奥の方が、ことり、小さく音を立てる。


 夏を待つ寂しい商店街。

 サビサビの駅前スーパー。

 観光施設の大きな看板。

 季節外れの浮き輪やら水着やら吊るしたお土産屋さん。

 端っこに小さなビジネスホテル。

 温泉街なのに、ビジネスホテル。


 あ、キンメ…金目?


 お土産屋さんの中に大きな魚の看板。『金目鯛』の堂々とした文字。


 特産品? 魚?


 惹かれるように店に入り、生まれてはじめてキンメを目の当たりにしてみる。


 初対面の衝撃。


 でかい。腰越漁港のアジなんかとまったく違う。でっかい赤い身体と、さらにでっかい目。そのでっかい目がぼくを見つめる。

 「おいしいよ?」

キンメと対峙したまま固まったぼくに、お店のおばさんが笑う。

 「……、」

チラ、と値札を見る。正直、高校生の手のでる値段じゃない。手がでるとしても、これから入寮するというのにさすがに買ってはいけない。

 しばらくでっかい目ん玉を見つめていると、

「漁港の朝市にいけば、安く煮付け食べさせてもらえるじゃんね」

おばちゃんがまた笑って教えてくれた。

 「お兄ちゃん、泊り? 波乗り? それにしちゃ色白だら」

「……、」

 ぼくがなにも応えないのに、おばさんはやっぱり豪快に笑っていった。

「せっかく来たんだから、波乗りもしていきなぁ。若いんだから!」

 キンメのインパクトは、縮こまっていたぼくの心を擽った。せっかくだから、キンメのでっかい目を写真に撮らせてもらう。


 別のお土産屋さんも周る。

 だれに買うあてなんかないのに、楽しい。そんな、いつぶりかの素直な感覚が蘇る。それがいつだったかなんて忘れちゃったけど。

 じぶんに、お土産を買ってみる。ブルーに赤いストラップのビーチサンダルと、派手派手しいオレンジ色にやっぱりブルーのラインが入ったサーフトランクス。

 湘南の海にはサーファーが溢れていて、彼らは確かこんな格好で海岸公園を闊歩していた。

 厳格なミッションスクールである、ぼくがこの春まで在籍していた学校には水泳の授業がない。水着なんか論外で、ぼくも着たことはなかった。なんだかひどく悪いものを手にした気持ちに、気管が締まるようだ。

 誤魔化すようにお菓子も買う。キンメの形をしたサブレ。それから、味気ないキャリーにつける、チープなブリキのイルカキーホルダー。偽物のミッキーマ◯スみたいな目が愛らしい。


 お土産に夢中になっていると、運転手さんの呼ぶ声がした。

「お兄ちゃんよぉ、そろそろ、だすよぉ!」

 あわててバス停へ戻るところで、駅正面のモニュメントに気がついた。

 黒船の改札を通りたくてでた改札とは別の改札口の真ん前だ。

 小さな石碑と、チョロチョロ、竹の筧から


 お湯?


 濛々と湯気をだすお湯が流れ落ちていた。


 温泉?


 そっと手をだして


 あっっっっつ!


 あわてて手を引っ込める。指先が真っ赤だ。


 え、これ、触るために流れてるんじゃないの? 思い切り火傷だけど?


 指を左手で冷ましながら訝しく石碑を見あげる。

 熱湯注意とでも書いてあるだろうか。

 いや、石碑には毛筆でこう、書かれていた。


 「ようこそ 下田温泉へ!」

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