...
「だから、ぼくはきょう、」
小山先生が窓越しに午後の空を見上げる。
「いつまでも、待とうと思うんだ、一緒に。」
潮に霞んだ硝子窓から射し込む陽に、深いグランブルーの瞳が透ける。
「ネコが、もういい、て、いうまで。」
暖かい午後の陽も呑み込む、深い冷光が、その瞳に、灯る。
「もう、待たなくていいって、思えるまで。」
来てほしい。
会ってほしい。
ネコはこんなに元気になりました。
見てください。
こんなにみんなに愛されて。
見てください。
あなたの、
あなたが、
捨てた男の子は。
どこか遠くで、最終下校時刻を告げるベルが鳴っていた。
時計はもう午後四時を回っていた。
事務室から来客の連絡はなく、ぼくは保健室で、小山先生とネコの面談が終わるのを待っていた。
「保健室で待ってるからね」
ネコを応接室においてきたのは午後二時の少し前。
応接室まで来てもネコはなかなか手を離そうとしなかった。
「ババァがきたら、よんでやるよ」
そんなことをいいながら、下を向いて口を尖らせている。
これは、やっぱりぼくも面談を一緒に受けた方がいいだろうか。いやいや、あなただれですかってなるか。でも…あ、お母さんが来るまで一緒に、
グルグル考えていると、
「こら、ネコ、ババァじゃねぇよ! 『お母さん』だろ!」
井上先生が応接室に降りてきた。
ガハハ、井上先生に笑われると、スルリ、ネコの手は自然とぼくから離れていった。
「うっせ! うっせ! ジジィ!」
ポカポカ、井上先生のお尻を叩いている。
「こんなとこ、お母さんには見せらんないなぁ! ハッハ!」
「うっせ!」
しまいには井上先生の背中に登りはじめた。
「おいコラ、もう先生、ジジィなんだから優しくしてくれよ」
じぶんのことは、ジジィでいいんだ…
ババァが来なくてもなんとかなるのかもしれない。
ぼくはその様子を見て、保健室へ向かった。
「ぼく、様子、見てきます」
そう、時計を見て小山先生が腰を上げたときだった。
「ネコ、こっちに来てるかっ⁉︎」
古いんだから、優しく閉めてよ! て、いつもはるちゃんが怒鳴っている戸を、外れちゃうんじゃないかって勢いで井上先生が飛び込んできた。
「え? いえ、」
小山先生が目を見張る。
「お母さんが来ないもんで職員室に連絡しにいって、戻ったら、応接室にいねぇんだ」
ネコの携帯電話はぼくと同じだ。親とは連絡がとれないようになっている。母親に連絡するには先生から電話をする他ない。
だから、井上先生を責めることは、できない。けど、
「飽きて、浩太んとこ…と、」
小山先生が保健室を飛びだす。
「小山先生っ、」
井上先生!
「浩太?」
責めることなんて、できない。けど、無意識に井上先生の太い腕を掴んでいた。先生に、そんな態度をとるのははじめてで、そんなこともかまっていられなかった。
来ないんでしょ⁉︎ お母さん!
「来るだろうよ。来るって、いったんだ。お母さんは」
そうやって、来なかったんですよね、去年、
「来るって、いったんだ。…お母さんが」
井上先生の目はまっすぐで、ぼくはことばを失った。
「ここには来ていません。井上先生、教頭に連絡…、」
小山先生がでていって、はるちゃんがあわてている。
「はるか先生はここにいてください。ネコが来るかもしれ…浩太!」
ぼくも、保健室を飛びだしていた。
来なかった。
ババァは。
来なかった。
ネコも。
ぼくと小山先生が待っているとわかっているここへ、ネコが来ることは、なかったのだ。
朝の違和感が不安の風に煽られてザァザァ、白波を立てて喉元まで迫り上がっていた。
トイレにいったのかもしれない。
忘れ物を取りに戻ったのかもしれない。
応接室に戻っているかもしれない。
ぼくはとりあえず応接室へ急いだ。
「浩太くん、」
応接室から、先に飛びだした小山先生がでてくるところだった。
「いない。」
首を振る。
ぼくも応接室を覗く。用意されたお茶も石舟庵のお菓子もそのままで。ただ、
ない…
その手に握っていたクッキーが、なくなっていた。
小山先生もそれに気づいたようで、応接室をでてゆこうと、
あの、いま、井上先生が、教頭先生に、て、
「ありがとう」
そう、いつものように柔らかく笑って頷く小山先生の瞳は、もう臨戦態勢になっていた。きっとそれを隠そうとする笑顔は、生徒の前だ、て、認識だけだ。
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