...

 夜中、なにか、啜り泣くような声に目が覚めた。

 ゾクリ、と、背筋が凍る。


 なになに⁉︎ お化け⁉︎

 いや、いや⁉︎


 「ネコ?」

 上の段、泣いていたのはネコだった。ベッドの上に座り込んで泣いている。


 どうしたの、ネコ⁉︎ どっか痛いの?


 あわてて二段目に上がって、


 え、どうしたの、これ…、


 布団が濡れているのに気づく。

 「ふぇぇぇぇ…」

 ネコの泣き声に、我に返る。


 ネコがおねしょをしたのは、ぼくが来てからは、はじめてだった。




 すっかり動転してしまったぼくは、泣きやまないネコをおんぶして、とにかく寮母さんの部屋に駆けつけた。

 夜中の一時をまわっていて、けど、夜中でもいいと、小山先生はいっていた。

 戸を叩くと、寮母さんは起きていたのか、あっさり顔をだした。


 あの、


 「あらぁ、ネコちゃん?」


 あの、おねしょ? してしまって…


 「あらあら、」

怒られると思ったのかネコがまた、ふぇぇぇ、と、泣きだす。

「大丈夫よ、ネコちゃん。ありがとうね、浩太くん。カウンセリングルームにいきましょうか。お着替えしましょうね」


 あの、


 「浩太くんがきてからは治ってたの。じぶんでもびっくりしちゃったわね」

 寮母さんは慣れているようだった。

「三年生が交代で泊まり込んでいたときにはたまにね、あったのよ。気にしないで」

寮母さんはそう、ニコニコ、笑った。

 その笑顔に安堵して、危うくネコをずり落とすところだった。




 カウンセリングルームのソファの上。夢うつつにまだぐずるネコの身体を、寮母さんが用意してくれた蒸しタオルで拭いてゆく。


 ごめん、ごめん、ごめんね…、


 もみじ饅頭の手が、かがみ込んでいるぼくの肩を、むんず、と掴んでくる。

 「うう、うぇぇぇ…」

 泣きやまないネコの声にぼくも、ジワリ、悲しい塊が肺の下のあたりから迫り上がってきて、目を瞬く。耐えるように奥歯を噛み締める。

 下着を変えて、新しいパジャマを着せて、膝にのせて抱きしめてあやす。

 寮母さんが入れくれたハニーホットミルクを飲めば少し落ち着くだろうか。マグを取ろうとするけど、ネコはぼくのお腹にむずがって顔を上げない。


 キリキリ、気持ちが痛い。

 きっと、きょう、ひとりで眠たからだ。

 ぼくが、余計なことを考えて。

 ぼくのせいだ。


 ネコ、ごめん、

 ひとりにして、ごめん、ごめん…


 なんどもなんども謝りながら、ネコの髪を梳く。


 ずっと一緒にいるから、

 ずっと、

 ネコがもういいや、て、

 思う日が来るまで、

 一緒に、いるから、


 だんだんと、ネコのぐずぐずが、寝息へと変わってゆく。

 ぼくの腕の中で眠ってしまった小さな生き物を、抱きしめる。グゥ、と、迫り上がるものを飲み込む。


 これが、


 これが、いまのぼくだ。


 敬虔なクリスチャンとして、

 模範的な生徒として、

 名のある私学に通っているのでもなく、


 母に泣かれながら、

 父に殴られながら、

 夜な夜な消息をくらます妹に電話をしながら、

 だれにでも愛を

 だれにでも親切を、

 だれにでも笑顔を、

 て、

 なんでもないように

 笑っているのでも、なく、


 いま、目の前の、

 同級生のルームメイトが泣くのを宥めて、おねしょのあとの身体を拭いて、下着を変えて、寝かしつけて、痛い気持ちも隠せずじぶんも泣きそうになっている。


 これが、いまの、

 ぼくだ。


 涙が、ブワリ、溢れてくる。

 鼻の奥が、ツン、と、痛い。


 あの日、医務室で谷川先生が見せた笑顔の奥の痛そうな表情は、ネコを案じてでは、なかった。


 『できません』


 そう、いい切ったぼくを、

 いまのぼくを受け入れないぼくを、

 ぼくのことを、

 案じてくれたんだ。


 波にのり、笑い、

 日焼けと筋肉痛に悲鳴を上げて。


 友だちや大人たちに包まれて、

 たまに、仲間のために必死になって、

 駆けまわる。


 これが、

 いまのぼくだ。


 確かな温もりを腕の中に感じて、ぼくは現実の感覚を取り戻していた。






 DAY.7


 カーテンから射す陽に、

 意識が浮上する。


 静かな朝だ。


 波の音も、

 風の音も、

 ない。


 ただ空を旋回するトンビの声と、

 腕の中で、


 「……っ!」

 いるはずのネコがいなくて、


 ネコ⁉︎


 あわてて跳ね起き、


 ガッ


 「〜っつ、」

ベッドの二段目に思い切り頭をぶつける。

 「だっせ!」


 え、


 「だっせ! コータ、だっせ!」

ネコはすでに身支度をして、じぶんの机に座っていた。


 きちんと整えた制服。

 校章のバッジだってつけている。

 大切に握りしめたクッキーの包み。

 メッセージカードを添えて。


 ひまわりみたいに笑う。

 揃った、大人の歯を見せて。


 違和感が小さく、気がつかないほど小さな漣みたいに、胸の奥に広がってゆく。


 「きょう、ババァに、あわせてやるよ」

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